「ソロプレイ感」という言葉がある。マルチゲームなのにプレイヤー間の相互干渉《インタラクション》が小さく、プレイヤーそれぞれがソリティアをやっているように感じられてしまうゲームを評するときに、よく使われる言葉だ。
直接的には「他人を攻撃する手段がない」などのときにこの言葉が使われる。
まずまちがいなく、ネガティブな評価といっていい。
ただし、ここには実は誤解がある。それは、
という、あまり認識されていない事実である。
たとえば「1ドルを支払って、敵の2ドル相当の配置カードをパイルする」という選択肢があった場合。
たしかに、1対1の関係性を考えれば、この選択肢は有利である。しかし、ここで考えているのは3人以上の場合のマルチゲームだ。「プレイヤーAが1のコストを支払い、プレイヤーBが2のダメージを受けた」場合、もっとも得をしたのが誰なのかは明白である。攻撃をせず、攻撃をされなかったプレイヤーCとDが、自らの手を汚さずして大きな利益を得たのだ(ただし、コストのかからない攻撃などは別の議論になる)。
マルチゲームを賢明にプレイするなら、攻撃はしないほうがいい。
この結論は、マルチゲームのかなり本質に近い部分をあらわしているわけだが、それはここではおいておいて。
もしも攻撃することがあるとしたら、2位以下(普通は2位)のプレイヤーが、まだトップを狙える範囲にとどまれる程度のコストを支払って、1位のプレイヤーを攻撃する場合だろう。それも、トップとの点差を考えてその選択がもっとも有効と判断された場合に限られる。
けっきょくのところ、プレイヤーがとるすべての行動は、最終的にトップをとるためのものでしかない。2位以下のプレイヤーにとってのそれは、トップとの点差を縮めるためのものかもしれない。
もちろん「攻撃」もその選択肢に含まれるが、攻撃じゃなきゃいけないなんてことでは、決してない。そもそもその選択が「攻撃」かそうでないかを区別する必要などなく、ただ「このルールの中で自分が勝利するにはどうすべきか」ということだけを考えればいいんである。
さて、そうすると「相互干渉」があるとかないとか、それはいったいなにを指しているのか。ソロプレイ感とはなんなのか。
多少、話をくりかえす。
「プレイヤー間の相互干渉」とはなにか。考えてみよう。
そのためにまず、前提を再確認したい。
いっぽう、一般にいわれる相互干渉の定義は、だいたい次のようなものだろうか。
だが、そもそもプレイヤーの選択とは勝者を決定するためのものだ。また、各プレイヤーがおかれた状況、つまり局面というのは「勝者を決定する過程」を表現したものである。
ならば、これはもっと明示的に
といいかえちゃっていい。
このあたりが「相互干渉」の正当な表現なのではないだろうかと思う。
さて。
すでに答えは出ているので先に書くと、
のである。
なにしろ、前提 3. によって、プレイヤーの選択がゲームを動かすことは、できているのだから。というかこれがないと、いったいなにをしているのかわからなくなってしまう。
この 3. の部分がそのまま相互干渉の定義といっていい。
さらにはこれは「ゲーム」の定義そのものだったりもする。つまり「相互干渉はある」。それがゲームであるかぎりは。
たとえ他人を「攻撃」する手段がなくても、相互干渉は発生しているのである。
ひとつ、例を挙げる。
以下のような単純なゲームを考えてみよう。
つまらなそうなゲームだけどいちおう命名しておくと「1or3」。
このゲームに、他人を攻撃する手段は存在しない。いわゆる「相互干渉が非常に小さい」ゲームである。
だが、こんなゲームにもやはり相互干渉は存在する。プレイヤーに選択肢があり、しかもそれが勝者を変える力をもっているからだ。
このゲームの2つの選択肢は、等価ではない。 a. を選べば確実に1点を得ることができるが、 b. で得られる得点の期待値は0.5点。
得点を稼ぐことだけが目的ならば、全員が a. を選ぶ。それが賢明な選択なのである。
しかし、それでは、手番が最初のプレイヤーが勝ってしまう。
ここで選択が発生する。
前提 1. 「あなたは勝ちたい」。つまり、あなたが1番手プレイヤーでない場合、どこかで選択肢 b. を選ばなければならない。不利なのはわかっているが、それでも、選ばなければ負けるのだから。
そして、他のプレイヤーがいつかサイコロを振ってくるとわかっている以上、1番手プレイヤーも安穏としてはいられない。
結果、6が出たにしろそうでないにしろ、状況は動く。得点に差がつき、誰かの勝利確率が上がり、誰かの勝利確率が下がるのだ。
相互干渉がおこったのである。
まあ、ていうかほんとは、複数ある選択肢の中から a. を選ぶことでも相互干渉はおきているんだけど。
これは他のプレイヤーがいて、かつ勝者と敗者が生まれるゲームだからこそ生じた現象だ。
もしもこれがソリティアなら、別にどちらを選んでも差はない。
複数プレイヤーがいたとしても、もしも終了条件がない(したがって勝利条件もない)のなら、やはりどちらを選んでもいい。終了条件はないが、好きなときに得点を現金に換算できるというのなら、常に選択肢 a を選ぶのがやはり賢明である(まあゲーム外の状況はおいておくとして)。
こんなつまらないゲームでさえ発生した。ならばもちろん、ふだん議論にのぼるようなゲームならばほぼまちがいなく、発生していると考えていい。
ソロプレイ感だって? いやいや、相互干渉は充分にあるのだ。
相互干渉はある。ソロプレイではない。
だが、ソロプレイ感を感じるゲームというのはやっぱり存在する。
じゃあいったい、ソロプレイ感とはなんだろう。
結論は決まっているのである。
だって「感」って最初からいってるし。
だが、まあ、それで終わらせてしまうわけにもいかないだろう。現実に「ソロプレイ感」を感じる瞬間はあるのだから。
なぜ「相互干渉がない」と感じてしまうのだろうか。原因はいくつかあると思われる。代表的なものをあげれば、
他にもいくつかありそう。
まあしかし、相互干渉はあるんだという前提でみれば、どれもこれも 「そう感じてるだけじゃん?」 という風にも思えてくる。
相互干渉はあるけど気づいていない。気づけないゲームが「ソロプレイ感」なのである。
ゲームデザインと人間工学の問題というか。
そのゲームデザインがたまたま、相互干渉そのものにプレイヤーの目がむきづらくなっているということなのだろう。
デザイナーがそう意図した場合もあるだろうし、そうでない場合もある。
さっきあんなことを書いてしまったが、これを「気のせい」と断じてしまうのは少し乱暴ではある。
これは人間の脳がそういう風にできているという問題であって、極論をいうなら、同じゲームでも異星人ならソロプレイ感を感じないかもしれない。
たとえば人間の脳には「確率の変化」を具体的にイメージすることが難しいようだが、そうでない脳があってもいいのだ。
えーとようするに「ソロプレイ感は主観である」? これまたあたりまえだなあ。
さて、しかし、ということは、気のもちようで「ソロプレイ感」を回避することができる場合もありうるのである。
現に、ある人が「インタラクションがなくてつまらない」というゲームを、他の人が「傑作!」と評価する場合もある。それはたぶん、同じ人間でも、人(脳)によってゲームを認識する方法がちがうということだ。
そしてもうひとつ、重要な推論もある。それは
ということだ。
人間の脳はよくできている。シナプスだかシワだかはつねに再構成をくりかえしていて、訓練しだいで、けっこういろいろなことができるようになる。
いったいこのゲームは、誰のどの選択で勝者が決まったのか。考えていればみえるようになるかもしれない。
もしもそうなれば。
ソロプレイなんてとんでもない、気づかなかったけど超傑作だったよー! なんてこともあるかもしれないわけである。
もちろん、それが最初からみえている人もいるし、どうがんばったってみえなそうな駄作もあるわけだが。
[2006.08.01 03:10]つつい :
しばらく考えてみた結果、次の結論に達しました。
マルチゲームは負けているときにできることによって分類できる。負けているときにできることは
・『攻撃』する
・確率の低い手段に賭ける
の2種類。
前者が強いものを「お仕事感が強い」、後者が強いものを「運ゲー」、ともに弱いものを「ソロプレイ感が強い」と評するのだと思います。
[2006.08.01 20:01]てらしま :
つまり「このゲームが気に入らなかった」ときになにか言葉をあてるわけだけど、その原因はなにかバランスが悪いからで、バランスの悪さ成分の配合(笑)次第で言葉が変わるわけですね。そのとおりと思います。
ただそれを評価するのはプレイヤーの主観なので、先入観や感情が入りこむ余地はつねにあります。
ソロプレイ感から話がそれますが、たとえばサンファン。プエルトリコと比べて運ゲーだとよくいわれるけど、実はサンファンのほうが、経験者の優位がずっと強いです。とか。
岩男 -2012/04/28 19:08
はじめまして。
結論は、「ソロプレイ感は主観である」ということでしょうか? 確かにそのとおりだと思いますが、ウボンゴはプレイヤーに操作できる相互作用が一切ありません。なので、自分の中でソロプレイ感に結論がでていません。てらしまさんは、ウボンゴのことをどうお考えでしょうか?
てらしま -2012/04/28 22:18
少しだけ相互作用あった気もしますが、だいたいソロプレイでいいのでは(笑)
ただ競争するところがインタラクションです。その競争感を宝石とるところで演出してるという構成かなあと思っています。
複数人でやった方が楽しいし、ちゃんとそういう風に作ってあるいいゲームだと思います。
岩男 -2012/04/29 22:05
なるほど。競争がインタラクションですか。そうすると協力ゲーム以外はすべてインタラクションありですね。
ご回答ありがとうございました。
2006.07.29 11:11 てらしま
今回はウェルズとヴェルヌがネタである。いやーすごいんだが、ここまでくるともはや完全にゲームとは関係ないだろうなあ。
覇道鋼造は、ネクロノミコン機械語写本の力で動く鬼械神デモンベインを駆り、人類の宿敵である大導師マスターテリオンと、火星軌道で戦っていた……。
なんて冒頭の場面があり。
古橋外伝の主人公オーガスタ・エイダ・ダーレスは、学校を経営しながら自らも学園唯一の教師として教鞭をとっている。そのかたわら、あいかわらず「科学の騎士」もやっている。
電動服《モーター・スーツ》に加え、巨大な新兵器「万能自走蒸気機関ゴリアテ」なんてものも開発したらしい。
そんなエイダの前に、またも「マスター・オブ・ネクロノミコン」と覇道財閥があらわれ……。
巨大なタコ型の機械に乗った火星人が大挙して攻めてきたり、その火星に向かうために、巨大大砲で砲弾宇宙船を打ち上げるとか、火星の運河は実はXXXXXXXXXXとか、ナイアルラトホテップ(この本の記述)がなんかしたりとか、いやもうほんとにいろいろ。
まあわたしはゲームをやっていないし、アニメも見ていないし、それどころか元がどんな話なのかどんな世界観なのかすら知らない。外伝読んでもそんなことすらわからないほど外伝なんだが。
絶対にゲームよりおもしろいなコレ。
……と確信した。
2006.07.28 03:50 てらしま
ああなるほど、これはたしかに名作だな。と素直に思った。
新しくはないのだが、いまだにほとんどどの本屋にいっても置いてある。おもしろいという評判もよく聞いたし読むか、と思ってから数年たって、ようやく読んだわけだが。
というか、買ってきて電車で読みはじめて気づいたが、前にも買った気がするのである。記憶が定かではないのだが、たぶん、また数年後に「ダブってる」と判明するのではないか。
まあいいか、もう一度読むか、と、そのときは思うのではないかと思う。
ライトノベル的な文法で書かれている。それはすぐにわかる。少年が少女に出会う話だし、個性の強すぎるキャラクターたちもそうだ。
主人公は中学生。学校非公認のゲリラ部「新聞部」に所属していて、子供らしいいろいろないたずらに全力を注ぐ毎日。
顔も頭も身体も全部あるスーパーマンだが変人の部長と、すごい大食漢で強気だけどどうも主人公に気があるらしい少女、と主人公の3人しかいない部活だ。
加えて、主人公には「難しい年頃」の妹がいたりもする。
そんなキャラクターたちのドタバタな挙動を中心に描きながら話を進めていき、その主人公たちに見えないところで大変なことが起こっているとしても、視点は中学生から外さない。
キャラクターの配置も、話も、ドタバタなエピソードも、みごとにライトノベルの文法を外していない。
だが、ライトノベルといったときに受ける軽薄な印象からはすでに、とっくに逸脱している。
第二章「ラブレター」で、それがわかる。
いわゆる「電波」な少女にであい、彼女に一目惚れした主人公。しかし少女はほとんど言葉らしい言葉も吐かない。常識が完全に欠けている。会話はまったく成立しない。
それでも、部長にいわれて新聞部に勧誘する主人公。なにをやっても空回りで情けない主人公だが、ラストシーンでようやく、気持ちが少し通じたと判明する。
この場面のやり口が、実に見事だ。
こんなところで引いてもしかたない例という気がするが、山際淳司がよくこうした書きかたをした。有名な「江夏の21球」も、まさにこれだ。
江夏が9回裏に投げた21球の、一球一球について、それを目撃していたさまざまな人物の心象を書きつらねていく。江夏自身はもちろん、キャッチャー、監督、ピッチングコーチ、観客席で見ていた人物もいるし、審判もいる。そうしたさまざまな視点から「21球」という現象を見せておいて、そして、
最後にはしかし、カメラを引くのである。
胴上げされる江夏と曇天の空模様が描写されていた、と記憶している。
このラストシーンでは、誰の心象も語られない。ただカメラを引き、それまで極めて詳細に論じてきた個々の人々の姿を一画面に収める(実際は収まっていないが)。その風景を描く、ただそれだけである。
勘違いしないでほしいのは、この方法が決して簡単な方法ではないということだ。ラストシーンの風景の中の人物のことを、読者が納得しているから成立している。
作家が結論を書かないときというのは、ごまかしたか、読者にゆだねる自信があるかのどちらかだろう。
「江夏の21球」は後者だった。読者に、考えるための材料はいくらでも提供した。そういう自信があったのではないか。
このうえ作家が自分の結論を述べてしまうのは野暮ってもんだろう、というより、これ以上はなにを書いても薄っぺらい言葉になってしまう、だからいっそ読者にまかせるべきだ、とそういいきれるところまで書きこんだから、できることだったのではないか。
思考を言葉にすることはおそらくできないが、言葉が思考を呼ぶことはできるかもしれない。言葉は基本的に無力だけど、物語はなにかを伝えることができるかもしれない。そういうことだろう。
さんざん話をつみあげていき、視点人物の心象もしっかり描いておいて、最後にはカメラを引く。
『イリヤの空、UFOの夏』でも、そうした文法が章ごとにくりかえされる。
さんざん場面を描き、キャラクターの心象を描き、そのせいでひとつひとつの事件にかける枚数がずいぶん長いのだが、段落を変え、視点を変え、書きこんでいく。キャラクターの内面で少しずつ変化していくものを描きこんでいく。
しかし、その結論は書かないのだ。ただ、最後に訪れるなにかの瞬間を、風景として、カメラを引いて眺める。
読者はそこまでで完全に思考を喚起されているから、いろいろ考える。考えているうちに章が終わるが、終わっても考えていることにふと気づく。
見事だ。
こんなことを書いてしまうとネタバレになるかもしれない。だから先に断っておく。
竹宮恵子のマンガに『風と木の詩』というのがある。「のがある」なんて、いまさらわざわざ書く必要はないほどの名作だ。
いわずとしれたって奴である。
『イリヤの空、UFOの夏』を読んでいて、ああこれは『風木』なんだなと思った。
と思っていたら、ほんとにそういう方向に話が進んでいった。意識していたとか元ネタだったとかいわれれば納得する。というよりわたしはそう確信している。
偶然かどうか。成立過程も似ている気がする。
竹宮恵子の場合は、『風木』の前に『ファラオの墓』があった。わたしはあれもかなり好きなんだが、それは置いておいて。
『ファラオの墓』は決して失敗作ではない。むしろかなり傑作だ。しかしたぶん、竹宮恵子は、あれを書いて完全には納得できなかった。「まだやれる」とおもったのではないか。
もちろん、それまでにも多くの作品を書いている。だが、一人の作家として、本当に心血を注いで、燃え尽きるまで書くという書きかたはしていなかった。
そして『ファラオの墓』でも、燃え尽きることはできなかった。
しかし、自分はなにか、もっとすごいことをやれるのではないか、という手がかりのようなものがあったのではないか。
読んでいてもそれは感じる。作品としてまとめるために、妥協しなければならない最小限度はどこなのか。いやそもそも、本当に妥協しなければならないのだろうか。自分が書きたいことを、少しの妥協もせずに全部書いてしまってはいけないのか。
そういう欲求というか熱というか、そういうものが『ファラオの墓』を描きながらむくむくとわきおこっていく。全部描ける、作家としてもっと高いレベルにいける、という手がかりも見えてくる。
そして、ついに決心する。
少しの妥協も許さず、描かなければならないことはすべて描く(これは本人もいっていることだ)。それで作品が完成しなくなってしまったとしても、いびつなものになってしまったとしても、全部描いてみよう。
竹宮恵子はそうして『風と木の詩』を描いた。
秋山瑞人の場合はもちろん『猫の地球儀』があった。あれも傑作だが「完全にやりきった」小説ではなかったように思う。描きたいことがつめこまれていて、とにかくおもしろい。おもしろいのだが、それでいて、どこかに、描ききれないもどかしさみたいなものも感じられる。そういう小説だった。
それが『イリヤの空 UFOの夏』につながる。といったら考えすぎなのだろうか。
ボーイミーツガールの話だ。
そして、少女のほうは完全に電波。
常識も通用しない。あたりまえの言葉もほとんど通じない。ガクエンサイの意味も知らないし、プールにも入ったこともなかったようだ。転校初日にクラスメイトに囲まれて、
「うるさい。あっちいけ」
といってしまうような奴だ。ほとんど人間ではない。
しかもなにやら背後でいろいろとうごめいているようす。少女にはとんでもない秘密がありそうなようす。
そんな少女に出会ってしまった少年。
さてどうするか、という話だ。
珍しい話ではなかろう。むしろ、ある種の文化に属する作品の中にはよくある話だ。いや、別に最近のオタク向け作品に限らなくても、こういう話がなかったわけではない。
しかし、これを「全部書こう」とすると、実は大変なことになる。
だって、少女は本当になにも知らないのだ。そんな奴がぽんとこの世界に放り出されて、簡単にとけこめるはずがない。そもそもとけこむことなどできるのか。
そして、主人公も少女のことをなにも知らない。
ただの中学生である少年がいくらがんばったところで、たかが知れている。失敗して空回りするのが当然だし、いろいろとみっともないことにもなるはずだ。
そうならない話というのは、つまり、どこかで嘘をついているのである。
妥協をゆるさないと決めた以上、嘘はつけない。多少ライトノベル的にデフォルメされた世界観ではあっても、この本にそういう嘘はない。
中学生が、ほとんどコミュニケーションをとれないほどの電波娘に真剣にむきあう。それは、本当にはそういうことだ。悲劇も起こるだろうし、読者の誰一人として読みたくない、目を背けたくなるような場面も書かなければならないだろう。
後半を読んでいて、このヒロインはいつレイプされるかと思った。あるいは主人公はいつ人を殺すだろうかとか、この二人はいつ性交渉をもつだろうとか。
そして、おそらくこのレーベルのモラルが許すぎりぎりの範囲まで、そうした話は語られることになる。
この場合、安易なハッピーエンドはごまかしだ。安易なバッドエンドももちろん逃げである。1冊や2冊で描ききれるはずがないのだ。
ひとつも逃げず、書くべきことは全部書く。そういう覚悟が、文面からたしかに感じとれる。
もちろん、それ以前に見事な文章力やおもしろさがあるわけだけど。
ドタバタ劇で構築された世界観が、それだけで充分におもしろいからできること。そして、その楽しい日常の中に、常に漂う影が描きこまれているからできたことだ。
電波だのツンデレだの萌えだの、そんな言葉はどうでもいい。
理解できないものとコミュニケーションをとるには、本当はどうしたらいいのか。つまりファーストコンタクトである。
あるいは、そんなことは不可能なのか。
それはたぶん、言葉を人に読ませる作家という仕事のテーマそのものではないか。流行の薄っぺらい新書に、簡単に洗脳されてしまう人たちに、小説は通用しないのだろうか。いろんな分野の作家が同じテーマにとりくむのも、わかる気がする。
普通に考えたらすぐに死ぬだろうヒロイン。それを助ける力をもたない主人公。終わりが約束されている関係。
たとえば『風木』の焼きなおしだとしても(実は、筋はほとんど一致するといっていいほど似ている)、書くには大変なエネルギーと勇気がいるだろう。これで全部描ききれたかといえば、まだ足りない部分もあるかもしれない。しかし、名作である。
これがライトノベルでなかったらとか、考えてしまう。
こういうのを読んだときはいつも思うのだ。妙な流行で生まれたミリオンセラーなんか2ヶ月で忘れられる、本当におもしろいものがどこにあるのか、捜すにはけっこう手間がかかる、Google検索も、サイトの乱立で精度が落ちてきた、こんな環境の中で、ジャンルやレーベルの壁を超えて名作が名作として語りつがれるにはどんな条件が必要なんだろう。
2006.07.24 21:01 てらしま
すげーおもしろそうなタイトル。タイトルだけで作品のテーマやら舞台やらが想像できるし、しかも活劇が期待できるじゃないか。まあもちろん、新人の作品に期待をかけすぎなのはわかっているけれど。
なにやら大きな戦争が終わって、廃墟の街にようやく復興が芽吹き始めたころ、という設定である。もちろんだ。ラジオガールなんだから。
異世界の話ではあるんだが、それでもやっぱりそういうもんだろう。イメージの中ではやっぱり、そういう時代のものだ。
そして、ラジオにはなんとなく、聞く者すべてにわけへだてなく希望を与えるうんぬんというイメージがある。戦中でもどこか活き活きとして見えたり、あるいは焦土からがばりと立ちあがろうとしていたり、そんな時代の、なにやらいまから見ればまぶしいようなロマンが染みついている。そういう、イメージの世界である。
ちょっと余談だけど。そんなラジオに比べて、いまのインターネットのイメージの暗さはなんなんだろう。プッシュ型とプル型の違いなのか、これ以上ないほど平和な時代に生まれてしまったことが悪かったのか。でもたしかに、実感として、インターネットはどこか精神をすりへらされているような気がするけど、ラジオには疲れを癒す力があるかもしれない。
ところが、この作品の世界では、戦争が終わったいまも厳しい情報統制がしかれているのである。ラジオ放送は禁止なのだ。
そんな中で、人々に銀貨型のラジオを配り、毎夜軍と追いかけっこをしながらアンテナを設置して放送をしているのが主人公。
という話だ。おもしろそうだよなあ。
冒頭はおもしろかった。はじめの50ページくらいだろうか。主人公が元気よく夜空を飛び回る怪人をやってるあいだはいいんである。
しかし、これもアレだ。わたしがきらいな「泣く主人公」で。
いやきらいったって別に泣いたからもう読まないわけじゃないし、泣いたっておもしろいものはおもしろいけどさ。
キャラクターを意地でも立たせることが、できないから泣いてしまったわけで。泣いたって読者は助けてくれないのだ。
キャラクターが立たないとか、多すぎとかかぶるとか、話の構成がうまくないとか、つまりそういうことだ。ライトノベルの新人らしい、ネタはよかったが書ききれなかった話なのである。
しかも、それに加えて、この甘ったるい絵。いや絵自体はうまいし、決して嫌いじゃないけど。
キャラクター性を忘れて感情を昂ぶらせてしまい、結果世界観を壊す、あるいは、うっかり活劇を忘れている、そういう場面ばかり強調してしまう絵なのである。この小説の弱点ばかりを強調してしまっているのである。
せっかくおもしろそうなんだから弱点に目をつむって読み進めたくても、絵に思いださせられてしまうのだ。なんというか、組み合わせが実に悪い。他の本で書いてほしかったなあ。
でも、それでも。
完璧な構成で、完成度を高めるためにスケールを削るだけ削ってデビューしてきた小説よりは、ずっと好感が持てる。しかもちかごろは、そういう小説のほうが大賞をとるわけだけれど。
キャラクターは多すぎるくらいのほうが楽しいし、世界観なんてどこか破綻してないとつまらない。そんなことを思ってみたりもする。
魅力的な世界観に、ネタに、魅力的になりえたキャラクター。話のイメージだけを見れば、すばらしい。そういうイメージの力こそ芸術家の力だろうし、読者であるわたしたちが求めてるものなのであって、これはまだそのイメージをほとんどかたちにできていない話だったわけだけど、そういう技術はあとからでもいいじゃないか。
と思う。まあネタがもったいなかったと思えば残念だけど。
これ、続編は出るのかな。出るのなら、ちょっと追ってみたい作家になるかもしれない。