2006.06.19 23:25 てらしま
サイバネティクスも分子工学も、コンピュータも遺伝子工学もかなり進歩している、未来の話。宇宙のすべてを統合する「万物理論」(Theory of Evrything)が、ついに発見されようとしている。
三人の物理学者がそれぞれに「万物理論」を発表する会議を取材するために、洋上の無政府国家「ステートレス」にやってきた科学ジャーナリストが、主人公である。
さまざまな未来の科学が登場し、政治やら陰謀やらのいろいろな話が展開される。実に、過剰なつめこみようだ。
そんな中で「万物理論」が発明されることに抵抗する複数の勢力が、ステートレスに集まってきている。
そんな脅威を感じながら、主人公は、三人の中でもっとも有力な人物であるヴァイオレット・モサラを取材するわけなのだが。
イーガンは短編作家だなと思った。一つのネタを、時間をかけて描くことが退屈なのだろう。
理解不能なほどの情報量に、過剰な登場人物の数。しかも、物語も大きく動かさなければ気がすまない。
なんとも、すごい小説だ。短編と同じ情報密度で長編を書いてしまうためにはここまで大量の情報が必要だった、という感じである。
この過剰さがおもしろいのではあるのだが。逆にいえば、長編小説としての構成や文章ではない。
たとえばクラークなら、このネタがあれば物語を描く必要がないだろう。背景世界の描写はしっかりとやるし、登場人物の造形も見事に描くが、主題となる科学技術の魅力から焦点がぶれることは決してない。人物の数も、提示する情報量も、物語に合わせてコントロールする。なんだかんだといっても、クラークは小説化として見事な腕を持っていた。
そういうものと比べれば、万物理論は落ちつきがなさすぎる小説なのだ。
しかし、そのぶん、とんでもないエネルギーが注ぎこまれた小説でもあった。
イーガンだから、万物理論などといったらもちろん、人間原理ネタも絡んでくることになる。
その人間原理だが、「宇宙消失」のときから比べれば、かなり思索が進んでいる感じがある。ただ単に人間原理を持ち出すことは形而上学にすぎないと、ちゃんと述べられているのだ。
だが、それでもやはり、もはや人間原理では古臭い。
こう感じてしまうのは、わたしが発表と同時に読まなかったせいだろうか。
人間の可能性を無限に信じて、科学は人間とともにあると信じる。そういう感性自体が、数十年前の感覚という気がする。イーガンがウケているのは、そういうSFへのノスタルジーかもしれない。
強いエネルギーが暴走すると、人生の意味とか愛とか、そういう方面の描写につながることになってしまう。作家自身の思想が、赤裸々に語られることにつながってしまう。
文章を書くというのは危険なことだ。こうなると、ある意味で、もはや小説ではない。
とはいえ、たとえば素人作家が人生一度の傑作を書くのはそういうとき。
イーガンはもはやプロパーもプロパーの人気作家である。そういう人がこういう小説を書いてしまったのは、つまり、長編作家ではないということだろうと思うのである。
もちろん、ただの自伝とはスケールが違う。違うのだが、宇宙を記述する方程式のスケール感にはいたらなかった。人間の内面をえぐってもSFは成立しない、とわたしは感じている。
2006ドイツW杯
日本 0−0 クロアチア
「勝てた試合だった」のはたしか。もちろん、そう思うのはわたしが客観的に試合を見ていないからで、あえて冷静なものいいをするならば、双方が同じことを思っているはず。実力差がなかったのだ。
柳沢の、柳沢らしい決定機外しとか、アレックスにあたってしまった中村のフリーキックとか、本当に決定的な場面がいくつかあった。
逆にクロアチアも、いわゆる「決定力不足」ぽい外しかたをくりかえしている。とりあえず思ったのは、日本人は身長にコンプレックスを持つ必要はないということだ。身長があっても決定力不足のチームはあるんだから。
とはいえ、基本的には、普通にやっていればクロアチアの身長は強い。クリアボールを拾う確率は圧倒的にクロアチアのほうが上だし、ゴール前の競り合いはいうまでもない。
それに対抗するべく、日本が選んだのはボールを回すこと。
これは、日本の原点である。というより遺伝子だ。日本でサッカーをやっている連中は、中学生でもこれを意識してやっている。誰でも知っている、日本サッカーの特徴を、苦しい台所事情の中で選択したのだ。
4バックは、そのために中盤を走り回る人数を増やすことのできる選択だった。あえて小さい小笠原をスタメンに入れたことなどは、かなり明示的だった。
単純に「うまい奴を使う」という意味でなら、これは「戦うこと」そのものの原点だったといえる。
身長からくる差を、パスサッカーはたしかに埋めていた。
「引いた相手から点をとるのは難しい」とはよくいわれるが、あれはまったくのウソだと、はじめて気づいた。パスに特化したサッカーにとっては、むしろ相手に引かせたほうがチャンスは増えるではないか。
カウンターするなとはいわないが、フォワードがシュートを打てないのなら回したほうがいい(ただしミスパスでカットされちゃいけないけど)。うまい奴を使え。自明のことに、たちかえった試合だった。
そこは評価している。
もっとも、そのためにできることはもっとあると感じたが。
対するクロアチアは、たぶん、そんな日本とはまったく逆のコンプレックスを抱えてきたチームじゃないかと思う。
身長があり、それを活かしたカウンターを特徴としているが、ゲームではなぜか、あまりそれを活かそうとしない。足もとやスペースへの低いパスやドリブルを、あえて選択している。今回の出場国の中でもかなり高い部類に入る国なのにパワープレイに頼らない、わりと特殊なチームである。
そして結果は、速さでは日本に分があり、高さではクロアチアの圧勝。
互いに、生来の特徴を出せる場面では優位になり、相手の土俵では不利になる。
審判の笛一つで試合が決まりかねない対戦で、どちらかといえばクロアチアに有利な笛ではあった(公正だが、ファウルの判定基準が結果的に)が、その差は川口がPKをとめることで埋めた。
自国の試合でなければ、好試合といっているかもしれない試合だ。十分以上かけてようやく作った本物の決定機を外すことも、そもそもシュートを打たないことも、他人事ならばおもしろがれる。文化は多様だと。
でもこれは我が国の試合。
どう考えたって引き分けじゃ足りないはずだったんである。
ワールドカップは本当に、地球上に存在するあらゆるチームスポーツの中でもっとも純度の高い真剣勝負だ。ほとんどありえないといっていい、その意味では奇跡の大会である。この真剣勝負っぷりに匹敵しうるのは、日本の甲子園くらいかもしれない。
だから、おそらくほとんどのチームに、想定しうる最悪の展開が襲いかかる。真剣勝負なら当然だ。
本当に、この試合を戦った日本人全員に、その大会に参加する心がまえがあったのか。
そんなことも考えてしまう。どう考えたって引き分けじゃ足りなかったんだから。
選手もそうだが、ファンもだ。直前にアンケートをとれば「1次リーグ敗退」がトップになってしまう、まことに慎み深い国民である。そんな人々に、本物の真剣勝負を戦う資格はあったのか。
たとえば、自分の通う高校が甲子園を目前にした決勝戦に挑む。そんなときなら、こんな弛緩した空気はありえないはずなのに。
くりかえすが、これはファンも、選手もである。
日本はブラジルに勝たなければならなくなった、というんだからまったく、困ったものだ。
それも、大差が必要なのだ。
まあ、実は日本にとって、ブラジルはそれほどやりにくい相手ではない。もちろん一人一人の技術は世界最強だが、タイプとしては、むしろオーストラリアよりやりやすい相手である。
なんというか、空しく聞こえるかもしれないのだが。だがこれが空しいのならば、ワールドカップそのものが空しい。そういいきる人が、もう少しいてもいい。
こうなった以上、ブラジルに勝ってもらおうじゃないか。
2006.06.19 02:18 てらしま
ブ厚い上に字が小さい……。こりゃまたがんばったものである。新人賞応募用の枚数制限から解き放たれて、書きたいことを全部つめこんだという気迫を感じる。
この厚さで前回のままの文章だったら読めなかっただろうが、そこはたぶん編集者が緻密にチェックしたのだろう、かなり読みやすくなった。
もっとも、文章力という面ではまだ足りない部分もある。ヒロインを描写するたびに主人公視点で「かわいい」と書いてしまうのはまったくの逆効果だし、ときどき、妙に描写がくどくなったり急ぎすぎたりする部分もある。読みやすいと思っていれば不意に、失敗といっていい文章が現れてしまう。たぶん編集者の目がゆき届かない箇所が残ってるんだろうなあと、想像できてしまうのだ。
が、物語はおもしろくなっているし、もう尽きたんじゃないかと思っていたネタも、また新しいものを提示できている。世界観の緻密さはあいかわらず楽しいし、予想したよりもずっといい続編だった。
無法をものともしない商人たちの世界と、その中にもそれなりの形で存在するヒューマニズム、というテーマみたいなものが、はっきりしてきた。物語に骨組みができて、これではっきりと新人賞レベルから脱却したと感じる。
個人的には、この人はもう少し時間がかかると思っていた。さすがは電撃文庫(の編集者)というところだろう。レーベルを構成するプロトコルを高い完成度で持っている、この実力は大したものである。
ただし、そこには危険もある。作家が自分の知識やスキルを殺してしまう可能性があるのだ。現にそういう作家を、何人も見てきたではないか。
これはむしろ、自分自身の世界観をはっきりと持っていなかった作家の責任というべきことかもしれない。わたしは、支倉凍砂はそれが足りないんじゃないかという印象を、1巻で抱いていたのだ。
だが、2巻でこの厚さを書いてみせたことで、そんなわたしの予想を超えてきたんである。シリーズを読む読者にとっては、これはうれしい瞬間なのだ。
もちろん、まだ不安もある。
このシリーズ、根本的な問題は、物語の骨格にヒロイン狼が絡む必要がなさそうなところ。これは1巻でもそうだった。
主人公は自分ひとりでも商売の世界で動き回ることができるし、そこがおもしろいところではあるのだが、それなのにもっとも描写が多いのはヒロインの挙動に関する場面なのだ。このヒロインは別に商売のことを知っているわけでもなく、また主人公を手助けできているようにも見えない。
本当にこのシリーズを続ける意味があるのか。ということはどうしても考えてしまうわけだが。
しばらく電撃文庫で文章を鍛えられれば、そのうちライトノベルじゃないものを書くようになりそうな人だ。ゲームの世界ではない、本物のファンタジーを書ける作家である。注目してみる気になった。
2006ドイツワールドカップ グループF
日本 1−3 オーストラリア
日本人が日本代表の試合を語るとき、主語は「日本」になる。もしもそうでない人がいたら、その人のいうことを、わたしは信じられない。必ず、どこかで自分に嘘をついているはずだと感じてしまう。
サッカーを客観することはできない。と思う。というよりも、客観できるスポーツはもはやサッカーではないと思う。
そういう自分の立場を、確認しておかなければいけない。なぜなら、ワールドカップが始まったからである。
「日本代表は舞いあがっていた」
そう書けるのも、これが自国の代表の話だからだ。
日本代表は舞いあがっていた。
日本が先制して迎えた後半、オーストラリアのヒディンク監督は、さすがの手を打つ。
まずは前線のフォワードの高さを強化する。意図は明確。「お前らの得意なことをやれ」。つまり放りこめだ。
その後も、次々と守備的な選手を交代しフォワードを投入する。フォーメーションなんざ二の次で、得点が必要なんだから前にでかい奴を揃える。
この監督、顔を見ていると、実は感情で動くタイプだと思う。その感情が、どこかで勝利のための論理にかみあっているんじゃないか。
日本は高さにやられて、どうしても後退してしまう。
高さにやられてというよりは、敵の迫力にあてられて、という風にも見える。たしかに、スーパーフォワードとタワーとテクニシャンがそろったオーストラリアは脅威だ。でも、本当にどうしようもないのか。こういうときの戦いかたを経験していないわけではあるまい。むろんどうしようもない瞬間はあるが、それ以上に、なにかがかみあっていない。
しかしなんとか、川口の活躍で攻撃を防いでいる。
こんな守りはいつまでも続くものではないのだが、やはり、舞いあがっているのだろう。
そうして、なんとか奪ったボールを持つ。そして前を見る。すると、目の前に広大な空間が広がっていることに気づく。
カウンター。速攻。
そのチャンスが、間違いなくそこにある。
日本は、とり憑かれたように速攻をはじめる。
くりかえすダッシュに疲れた足で、なお走る。守備の組織を整える暇もなく、攻める。
だが。
そこで冷静にならなければいけなかった。テレビ放送で発表されたハーフタイムの監督のコメントも、そういう内容だったはずだ(そうでないとしたらジーコを疑わなければならないけど)。
速攻の必要はなかった。オーストラリアは中盤を減らすリスクを犯して、フォワードを増やしている。そのことに思い至らなければいけなかった。中盤には広大な空間があり、敵のプレスはなくなっている。日本はボールを落ちつかせて、じっくりと攻撃しなければならなかった。
選手たちの、ミスチョイスである。あるいは、どうしても監督のせいにしたいのならば、自分の意図を選手に伝えることができなかったことのミスだ。
必要のないリスクを犯し、シュートで終われない速攻をくりかえす。
当然、先に疲れるのは日本だった。
ジーコも、選手たちの異常な昂揚に気づいていたようだ。得点が欲しくない場面ではなかったが、あえてフォワードを下げて小野をボランチに投入した。
だがその意図は伝わらず、あるいはもう足の動かない日本にそれを実践するエネルギーは残っておらず、逆転を許した。
この采配は遅すぎたともいえるが、いずれにしろ、選手が気づかなければ結果は同じだっただろう。
終わってみれば、ヒディンクの狙いどおりのゲームだった。ポリシーも戦術も、最終的には必要ない、一発勝負の勝ち負けに特化した監督の、あるいはシンプルな特徴をもったチームの、強さが出たといえる。
日本代表はまだ、本番で自分を見失ってしまう段階にいる。最大の大舞台に立てば、試合の流れが見えない高校生と同じだった。
サッカーのレベルは上がったが、勝つために必要なものはまだ足りない。タイミングの悪すぎる坪井の怪我とか、それ以前の加地の離脱とか、ツいてなさすぎの流れもあったわけだが、ワールドカップではどの国も、多かれ少なかれそういう悪条件は抱えている。そこでどうするかを考えなければならないのは、たぶん、誰でもない全員だろう。
これは認識しておかなければならない事実だった。代償というにはかなり痛かったわけだが。
「n人零和有限確定完全情報ゲーム」つまり、サイコロを振らない、隠した情報のないマルチゲームのことを考えてみたもの。
「日記」からの改稿転載です。
ボードゲームにはよくこうしたものがある。「キングメーカー」の問題などはよく論じられること。キングメーカーはつらいが、でもなぜキングメーカーは生まれてしまうのだろう。
つきつめれば、本当はどんな要素が勝敗を分けているのかという問題になる。ボードゲーマーとしては気になるところだ。
チェスや将棋などの2人零和有限確定完全情報ゲームでは「先手勝利」「後手勝利」「引き分け」のいずれかしかない。それは有名な話だ。でもそれじゃあ、プレイヤーが3人以上になったときはどうなのだろう。
ごくごく単純なn人零和有限確定完全情報ゲームを設定し、これを解析してみることで、マルチゲームの本質を見極めてみたいと思う。
某人のブログで柄にもなく議論してしまったせいで考えたこと。
http://white.niu.ne.jp/Freetalk/article.cgi/0604b210001a
とりあえず、ゲームの神(whiteさんの文章では「オラクル」)が必敗側でプレイした場合どうなるのかという視点は考えたことなかったので、いくつか発見があった。
下はわたしなりの結論。
ゲームに関するかぎり「絶対唯一の神」は存在しないんである。
# ゲームにそれがいえるってことは現実のすべてにいえるってことで、ってことは一神教は嘘か?とかそれは余談。
性格があるといっても、オラクル同士の対戦なら、席決めだけの勝負なのは同じ。だから、ゲーム上で絶対のプレイヤーであることに変わりはない。「絶対」にも幅があるということだ。
問題は、3人以上に話を拡張したとき。
「ティカル」のレビュー記事にも書いたけど。具体的には、n人零和有限確定完全情報ゲームの場合である。
オリンポスか高天原かどこかで、オラクルがn人集まって卓を囲んだらどうなるか。
二人の場合と違うところは、ゲーム開始時点で「複数のプレイヤーに勝利の可能性が残っている」場合があるというところ。
では勝者は誰になるのか。
プレイヤーは全員オラクルなんだから、定義上ミスはしない。であれば、勝者を決める要素はあまり残っていない。
いずれかの時点で決定した敗者の、ゲーム中の選択。あるいは勝利の可能性があるプレイヤーが、複数の最善手の中からどの手を選ぶか。残っている要素は、この二つしかないのだ。
この組み合わせ次第で、ゲームの展開は変わることになる。
つまりプレイヤーたちの性格の組み合わせによってゲームの展開が左右されるのである。
最強のプレイヤーたちが完璧なプレイをしているはずだったのだが。勝敗を決めるのは、ゲームに対する能力ではなく「性格」なのだ。
あー。まあそりゃそうだよねー。神さまでも大差ないねー。ゲームっておもしろいねー。
n人零和有限確定完全情報ゲームを考えるために、単純なゲームを考えてみようと思った。
名づけて「Say10」
Not30とかいわれるゲームがあるけど(ちなみにこれは先手必勝)、あれの逆。一人勝ちゲームにするために、10といったら勝ちにしてみる。
これを、とりあえず3人でやることにしてみる。もちろん、プレイヤーは全員、オラクル(最善手を打ちつづける人)という前提。
簡単に考えられることとして、
である。今回は3人でプレイしているので、
もすぐにわかる。
このとき、下家には「7」「8」という二つの選択肢があるが、敗北決定なのでどちらを選ぶかはわからない。「7」を選べばあなたの勝ち、「8」を選べばあなたの上家の勝ちである。
さらに進めると、
さて、場の数字が「4」であなたの手番が回ってきた。あなたは「5」を選ぶべきか「6」を選ぶべきか。
これはどちらでもいい。どちらも最善手である。ただしあなたが勝てるかどうかは、あなたがここで決める敗北決定者の選択次第。
ここから勝つには「敗北決定者にされず(下家が「6」)」「勝者決定権者があなたを勝たせる(二つ下家が「8」)」という二つの条件を満たさなければならない。
単純にここから勝率を考えれば25%。つまり、「4」より「5」のほうが強い。(※)
ここからいえるのは「敗者決定権は強い」ということなんだが、それはまた別の機会に考えることにして。
まとめよう。他人の選択による勝率を評価点とすると、
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3
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25
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50
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0
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0
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100
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である。
ゲームの展開は、
まで決まっていて、ここでふたたび回ってきた1番手が「5」か「6」かでゲームが分岐しはじめることになる。
さてここで注意すべきは、ゲーム開始時には全プレイヤーに可能性があるというところだ。
ただし勝率には差があって、1番手は50%、2・3番手は25%になる。
……と、つらつらと考えたりした。
いやつまり「ゲーム理論とゲームの神さま」で書いた「ゲーム開始時に決定している敗者の、」という部分が間違いだったといいたかっただけなんだけどさ。
前回単純なモデルゲームを考えてみるの「Say10」の、メタゲームについてである。もはやチラシの裏に近いけど気にしないように。ただ、実は前回の記事でもまだ嘘ついてるので書いておかなければならないのだ。
ていうかいったいおまえはなにをしているのかというと、ヒマつぶしn人零和有限確定完全情報ゲームをわたしがイメージするためにやっているのである。つまりほんとにチラシの裏(笑)
ウソというのは、前回の
「3」にしたら負け確定(下家は「5」を選ぶから)
という部分。実は負け確定ではない。下家が「5」を選ぶとは限らないのだ。
なぜなら「4」でも可能性はあるから。下家が「4」なら、あなたにはまだ勝つチャンスがある。
しかし、やっぱり普通に考えれば「4」より「5」のほうが強い。
でも「4」を選ぶべき時がある。たとえば負け確定にされたプレイヤーが「報復」する場合だ。報復されるとわかっているなら、自分の手で敗者を決める選択(「5」と「6」)はしたくないのだ。
これはもうゲームの話ではない。「報復」しても負けは負け。そうしてもこのゲームに勝てるわけではない。
だが、次のゲームではどうか。何回も同じゲームをくりかえすとしたらどうか。
こういう話のことをメタゲームという。カードゲームプレイヤーが好んで使う言葉だ。次の試合の先発ピッチャーを予想するとかそういうこと。
つまりゲーム外のゲームである。
ゲームの話ではないのだから、これはもはや「性格」の話というべきだろう。「報復」する性格のプレイヤーが多いのなら、人を攻撃するプレイは避けるべきなのだ。
こういう話を考えるとき、やるとおもしろいのは
というわけで、わたしのヘボPerlでさくっと作ってみた。たいして難しくない。
個体の遺伝子として使うのは「場の数字がnのときいくつ足すか」の羅列。たとえば前回の表
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25
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0
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25
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50
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50
|
0
|
0
|
0
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100
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でわたしが示した最適解は、
になる。左から「場が0のときの選択、1のときの選択、……」で9まで。
さて実際に実行してみた。以下、700世代くらいまでに出てきた繁栄種。おおむね出た順。
いろいろ考察できるだろうが、意味がないからやらない。勝手に自分で作ったゲームだしな。
もちろん乱数使いまくりだから、もう一度やれば違う結果が出る(遷移の傾向は多少ある)。変異率や淘汰圧(情報系の専門用語でなんというかは知らん)の設定でもぜんぜん変わる。でもメタゲームの遷移という現象をイメージすることはできる。
「3」が負け確定なんてぜんぜんウソだったじゃんということもわかる(ぉ
けっきょく、最終局面は固定するけど序盤と敗北決定のときの選択は固定できないのだ。理屈で考えればほとんど負け確定の「3」でさえも、メタゲーム次第ではむしろ有利になってしまう。
都会の害虫もかくやというようなものすごい淘汰圧をかけているので、勝ち残れる個体はたいていオラクルであるといっていいのだが。
あー、前の表書きなおす?
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勝利の可能性があるかないかだけ(笑)。メタゲーム次第だから評価のしようがない。もはや無意味だな……。
ただし、くりかえし遊ばない一発勝負の場合は「選ばないほうがいいかもしれない手」(「3」とか)はある。でも相手次第では、それを選ぶことが唯一の勝ち筋かもしれないのだ。
というわけで「オリンポスのマルチゲーム」のシミュレーションでした。なにかどーしようもない結論だけど、自己満足はした。