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遊星ゲームズ
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1970/01/01 09:00

猫の地球儀
 読書

猫の地球儀
秋山瑞人 電撃文庫

2001.5.29 てらしま

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 面白くはあった。
 なんだかそんな、歯にもののはさまったような物言いをしたくなる、面白さであった。
『トルク』と呼ばれる世界がある。これはどうやら、『地球儀』という惑星の軌道上に浮かぶ、円筒型スペースコロニーであるらしい。
『トルク』は、大昔に天使たちが造った。だが今、そこに住んでいるのは、猫たちである。猫たちは言葉も話せるし、それなりに社会も持って、このコロニーに暮らしている。そんな、メルヘンチックであったり未来SFであったりする、混乱してしまう世界だ。
 だがこのギャップ感覚が、心地よい。
『スカイウォーカー』と呼ばれる猫がいる。どうもこの『スカイウォーカー』、自分で宇宙船を造って、地球儀に行こうとしているらしい。しかし『大集会』にとっては、地球儀は死んだ魂の行く先であり、生きたままそこへ行こうとすることは異端となる。
 それで、大集会が派遣した『宣教部隊』に命を狙われることとなってしまう。
 だがそれでもスカイウォーカーは、地球儀へ行ってみたいのである。
 こうして大まかにあらすじを書いていても目が回ってきそうな、めくるめく設定である。だが、ことはこれだけにとどまらない。
『スパイラルダイブ』という、格闘技がある。これはなんと、猫がロボットを操って互いに戦うというものである。もちろん命を落とすことも多い、危険な格闘技だ。この競技のチャンピオンが、前述のスカイウォーカーに出会って……、という物語に発展していく。
 くらくらしてくる。どきどきしてくるではないか。どうしたって、期待したくなってしまうではないか。
 だから、ひょっとしたら私は、このめくるめく世界に期待をかけすぎたのではないかと思う。
 何か拍子抜けしたような、食い足りないような、困った読後感が残ってしまったのである。
 これはどうしたことだろう。
「多すぎる設定が、消化しきれていない」などと、知った風な言い方でも、まあ的を外してはいまいと思う。だが私が納得できない。
 何かもう少し、納得できる原因があるのではないかと思う。
 そんなことをいろいろと考えながら、ぱらぱらと読み返してみて、思い当たったことがある。
 例えばである。スカイウォーカーが「地球儀に行ってみたい」と言ったとき、我々SFファンであれば、なんの説明もなくとも、彼の気持ちは納得できてしまうだろう。
 同じことで、剣豪小説や少年漫画の文化に親しんだ我々だから、スパイラルダイバーが「俺より強い奴に会いにいく」というようなことを言ったとき、これもすんなり納得できてしまうのである。
 だが、そうでない人だっているのではないのか。
 登場するのは猫たちばかりである。猫たちは当たり前のように言葉を話し、当たり前のように生活している。これは私には、それほど違和感なく納得できた。だが、中には「なんで猫?」という疑問を抱く人だっているのではないのか?
 考えてみると、一事が万事、そんな調子なのである。
 読んでいるこちらが「認めない」とひとこと言った途端に、すべてが台無しになってしまうような、そんな危うさの上に物語全体が乗っているのである。
 だから、読み終わってもどこか納得がいかない。それは、自分が感じた感動が、すべて自分の内側に発生したもので、本に与えられたものではないような気がして、どこか醒めた気分のまま読み終わってしまうためである。
 しかし、とはいえ、私自身が楽しんだのは事実だ。
 結局、「面白くはあった」と言うしかないわけなのである。


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1970/01/01 09:00

サッカーの敵
 読書

サッカーの敵
サイモン・クーパー 後藤健生 白水社

2001.5.30 てらしま

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「サッカーはもっとも人気のあるスポーツである」
 そんな話から、この本は始まる。
 だから、サッカーは数十億の人間に影響するスポーツだ。クーパーが言うとおり、それはもう確かに、ただのゲームではない。
 それは当然、政治と呼ばれるものにも影響するし、強く影響されもする。
 この本は、著者が、サッカーと人々の生活の関係に興味を持ち、世界中を巡った紀行記だ。そのために9ヶ月をかけて世界22カ国を巡ったというのだから、著者クーパー自身こそ、もっともサッカーに揺り動かされた一人ではないかとも思える。
 題にある「サッカーの敵」とは、サッカーを愛してやまない世界中の人々のことだ。サッカーが好きだからこそ、人々はファンになり、しばしば純粋なゲームを妨害する。ロシアの有力者は敵チームの選手をシベリアに送り、カタルーニャ人はバルサを民族の象徴だと言う。
 そうすればするほど、彼らの好きなサッカーは純粋さを失っていき、おとしめられていく。
 そういう悲喜劇は、世界中どこにだってある。この本は、そういう話を集めた本だ。
 世界にはさまざまな人々がいて、文化があり、それらの間に横たわる価値観の相違はとうてい埋められないほど深い。だから、サッカーという共通語が必要なのではないか。この本を読んでいるとそう思う。
 さて、著者はファンを「サッカーの敵」としているが、しかし、彼らのことを否定しているわけではない。なにより、著者のサイモン・クーパー自身が、この本に登場する「敵」たちに劣らない、熱心なファンなのだ。
 もちろん、サッカーがどんなスポーツよりも魅力的なのは、「サッカーこそが人生だ」と言ってはばからない、そうしたファンが多くいるからだ。過去のワールドカップでドイツ対オランダがあれほど盛り上がったのには、スター選手がいたこともあるが、やはりファンたちが過去の歴史からその試合を「戦争」と捉えていたからなのだ。
 彼らは自分の境遇や民族の歴史を、サッカーに置き換えて考える。どちらの方がより重要だ、ということではなく、どちらも、彼らの生活の一部なのだ。
 この本を読んでいて、私がもっとも強く感じたことは、そんな彼らが羨ましい、ということだ。地域、民族意識の薄弱な日本人が「サッカーの敵」になることは難しい。唯一国際戦で、韓国との間に確執があるくらいである。それも、強く意識しているのはたぶん日本ではなく韓国の方だろう。Jリーグでも、地域との密着に成功しているチームはほとんどない。私は茨城県に住んでいるが、totoを買うときはまず始めに水戸ホーリーホックの負けにチェックしているのだ。
 煽っても仕方がないが、日本を戦争で負かしたアメリカとの対戦でも、日本人のファンは特に意識することはない。
 私も「サッカーの敵」になりたい。しかしそうなりきれないところも日本人の民族性なのだという気もするし、そこにいくばくかの誇りを感じたりもするのだ。


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1970/01/01 09:00

魔術師メリエス
 読書

魔術師メリエス
マドレーヌ・マルテット・メリエス 古賀太訳 フィルムアート社

2001.5.31 てらしま

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 映画の黎明期に、特撮の元祖ともいえる技術を使って、多くの映像を撮ったジョルジュ・メリエスの生涯。付け加えるなら、世界で初めて、映画という技術を使って物語を語るという芸術を行なった人だ。
 ウェルズの『月世界旅行』を元にしたもので、地球を飛び立った宇宙船が、女性の顔を持った月に突き刺さる、という映像を見たことがないだろうか。あれを撮った映画監督である。最近では、NHKでも放送したアポロ計画のドキュメント『フロム・ジ・アース』の最終話にも登場した(原題は『From the Earth to the Moon』で、もちろんこれは『月世界旅行』の原題と同じ)。
 仕事をせずとも生きていける程度に裕福なパリジャンだったジョルジュが、奇術を披露する劇場を経営するようになり、映画が発明されるとそれに飛びつき、作品を作って自分の劇場で上映するようになり、しかしやがて破産してさびしい晩年を過ごすという、なんともまるで映画のような人生が時を追って語られていく。
 書いたマドレーヌ・マルテット・メリエスという人はなにしろ、ジョルジュ・メリエスの孫だ。したがって、他の誰も知らないほど詳しく彼の人生について調べられているのはもちろん。
 しかしこの著者もジョルジュ・メリエスの孫娘である。エンターテイナーの血とでもいうべきか、「ホントか?」と疑いたくなるほど、どうも明らかに脚色を受けているのだ。
 もちろんすべてのエピソードが、なんらかの実話にもとづいて書かれているのだろうし、まあ、脚色というよりは、私たちが井戸端会議でやるように、いくらかおおげさに話しているという方がいいかもしれない。
 勘違いしないでほしい。私は、大袈裟すぎる、と批判したいわけではない。むしろ私は、この本の価値はこの大袈裟なところにあると思う。
 話は違うが、NHKの『プロジェクトX』は面白い。それはもちろん、素材のおもしろさもあるが、それ以上に、あのナレーターの声とか、簡潔だが深みのある脚本とか、そういうところがあのおもしろさを形作っている。
 要するに、いかに作るかだと思うのだ。
 ジョルジュ・メリエスの生涯というのは確かに、これ以上ない素材だろうし、それを実の孫が書くとなればなおさらだ。さらにそこに、適切な脚色が加われば申し分ない。
 ジョルジュ・メリエスは不幸な晩年を送ったが、そういう意味では、この本は実に幸運だった。
 私がノンフィクションを読むのは、こういう本に巡り会うためなのだと思う。


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1970/01/01 09:00

スティーブンソンロケット
 読書

スティーブンソンロケット
 

2001.6.1 てらしま

 このタイトルからわかる人はわかるのだと思うが、イギリスの鉄道黎明期を題材にしたゲームだ。
 鉄道ゲームの伝統にのっとって、乱数要素は少ない、というより最初の席決めにしかない。線路、株式、配当といった各リソースも、『1830』を彷彿とさせる、極めてオーソドックスなものである。
 あまり目を引くところのない鉄道ゲーム、といってしまえばそうなのだ。しかし……これは本当に鉄道ゲームなのだろうか?
「カタン・ショック」以後、ドイツのボードゲーム(イコール世界のボードゲームといっていい)は明確に一つの指向性を持っている。「単純化、短時間化」というのがそれだ。『スティーブンソンロケット』は、まさにその流れの申し子といえるゲームだ。
 例を示すと……、汽車は線路の上を走らず、線路は平地を走った汽車の後ろにできる。駅舎は建ててから線路が届くのを待つものだ。どんな大会社でも、地方の零細路線に吸収される。
 そんな世界は、ゲームの中にしか存在し得ないだろう。
 抽象的、という表現を書いておくべきだ。ルールの単純化、プレイ時間の短時間化、その結果として抽象化を推し進めた結果でなければ、決して生まれてこないゲームなのだ。もちろん、鉄道ゲームをやっているという実感はまったくないのである。
 面白くないというわけでは決してない。むしろ、2000年のドイツゲームの中ではいいゲームだろうと私は思う。コンポーネントも、地味だがスタイリッシュだ。しかし、ドイツゲーム賞の候補にもあがらなかったらしい。
 それも、理由はわかる気がするのだ。ゲームの雰囲気やイメージという点で、『スティーブンソンロケット』はあまりに先鋭的すぎる。しかも、地味だ。
 抽象化に邁進してきたボードゲームの世界を体現している。面白ければいいのかもしれないが、しかし、本当にそれでいいの? なんか疑問が残る。


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1970/01/01 09:00

新世紀未来科学
 読書

新世紀未来科学
金子隆一 八幡書房

2001.6.5 てらしま

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 私が高校生のころ、バイブルのように繰り返し読んだ本があった。ピーター・ニコルズという人が書いた『科学inSF』という本だ。
 今ちょっとgooで調べたのだが、この本、翻訳者は小隅黎らしい。ちょっとショックである。というのは、当時私がやはり繰り返し読んでいた本のひとつに『タイムマシンの作り方』(ブルーバックス)というのがあるのだけど、当時の私は、SFは好きだが小隅黎という人がどんな人かということはまったく知らず、(もちろん宇宙塵の名前も知らなかった)後で知って「世界は狭いのだなあ」と実感したという経験がある。
 まあ考えてみればそりゃそうなのかもしれないが、私はなんと小さな世界に生きてきたのだろう。
 それは別の話である。
『科学inSF』という本、当時は金もなく、近くの図書館で返しては借りて読んでいたので、実はまだ持っていない。今手元にはないので、懐かしい記憶だけの話になるのだが、これが実にカラフルな図版でさまざまなSFを紹介し、そこに登場する科学技術について、平易な文章で面白く紹介してくれるという、眺めているだけで楽しくなってくるような良書だった(ハズだ)。
『科学inSF』との比較、というのは適切ではないかもしれないが、『新世紀未来科学』も、SFの中の科学を広く扱った本だ。
 これまでのこうした本と比べて、とにかく扱っている内容が広い、というのが大きな特徴になっている。こうした本で、情報/通信や生命科学にこれだけのページを割いたものというのはあまりなかったように思う。単に、それが時流というものなのかもしれないけど。
 もうひとつの特徴としては、たとえば同じ宇宙船の推進技術に関してのことでも、ワープ航法や反重力など実現のめどがない技術に関しては「ファーアウト物理」という別の項を設けて紹介してあるなど、科学者としての誠意が強く感じられるところ。著者の金子隆一は科学者ではないが、しかし、スタンスとしてそういう立ち方で書かれた本ということだ。
 労作だし、参考文献もいちいち紹介してあり、各項も整然と並んでいる。我々SFファンが話題を捜す、ネタを捜す際にはとても役に立つと思う。
 これはこれで、ひとつこういう本のあり方だと思うし、現時点での完成形でもあると思うのだ。
 だからこれ以上難を言うのは贅沢なのだが、気になった点があった。全体に、地味なのだ。
 前述の『科学inSF』は、絵を多く使った、カラー刷りの本だった。その印象が残っているためにそう感じるのかもしれない。読んでいて感じるものは、「不景気さ」とでも言えばいいのか。
 白黒刷り、図版の少なさというのは、イチロー並みの守備範囲のためには仕方のないところだろうが、それ以上に、書かれている内容が、SFではなく科学技術そのものに注目されているという点が、この地味さの原因となっているのだと思う。
 SFは面白いし、確かに現実の科学も同じくらい面白い。この本はその後者の面白さを求心力としてまとめられているのである。
 そのために、「子供が眺めても面白い」という内容ではなくなってしまった。
 まあ、それはそれで必要だと思う。役にも立つし楽しめるのだから、注文をつける筋合いのことではないかもしれない。
 だから、SFの面白さへの欲求の方は、野田昌宏でも読んで満たすとすればいいか。


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