2001.6.11 てらしま
以前古本屋で第一刷を見かけたときに、始めの一章くらいとあとがきだけを読んで、表紙が大きく破けていたために買うのをためらっていたらなくなってしまった、という苦い経験がある。今にして思えば、なぜあのとき買っておかなかったのか……。
そんなことがあり、ずっと読めずにいたのだが、ついに先日、ハヤカワが第二刷を出してくれたのである。数年来の念願が叶って、ようやく手に入れることができた。
それにしてもだ。こんなに面白い話があるだろうか。遠見鏡を覗いて太陽系の運行に思いを巡らせる恐竜少年版ガリレオが、「神の顔」巡礼のために、勇敢な船長の船に乗って大海原に旅立つのである。「どうだ!」と言わんばかりの、とにかくソウヤー自身が誰より楽しんで書いたに違いないと思わせるような物語なのだ。
少年の成長話の定式というか、そういうものの面白い要素をこれでもかと詰め込んだ話だ。つじつま合わせは後で考えるとして、とりあえず面白いものを詰め込んでみるという、ソウヤーのソウヤーらしい部分がよく表れた、という意味では、後の『スタープレックス』にも通じるものがある。
そうやって、一見少年の成長を描いたファンタジーのように見せながら、実はここはあの星だったことが判明したり、主人公たちの種族キンタグリオの肉食恐竜としての性質のことがいろいろと描かれたりとか、ハードSFとしての部分もしっかり抑えられている。いやもちろん、いつもどおり「本当か?」と疑いたくなるようなことも多く書かれてるけど、面白ければ少々の間違いも許されるだろう。
だが、不満もあるといえばある。後のソウヤー作品と比べて、いくらか完成度が低いと思うのだ。話が持つ強烈な輝きは誰もが認めるところだと思うけど、それが制御できていないという感じが読後感として残ってしまっている。まるで日本の、ヤングアダルト文庫の新人賞作品を読んだかのような感覚なのだ。もちろん、そこがいいところでもあるんだけど。
いや、待てよ。ということは、これは、普段SFを読んでいない人たちに青背を勧める絶好のチャンスなのでは?
2001.6.12 てらしま
だいたい、地元でもないのにJ2の大分トリニータなんてチームのことなど、知ったことではないはずなのである。totoを買うときに少しスポーツ紙を見て、幾人かの選手の名前を憶えている程度、というのが私の場合で、たぶん大抵の人にとってもそうではないだろうか。
もちろん、当初の「トリニティ」という名前の商標がとられていたために、後ろに「大分」の「イタ」をつけて「トリニータ」というチーム名が生まれた、などというエピソードも、この本を読んで初めて知ったのだ。
1999年シーズン最終節、J2リーグ。大分は昇格争いの渦中にいた。シーズン当初は、チーム関係者の誰も、そんなことは予想していなかった。だがその気負いのなさが幸いし、最終戦を前にしてついにFC東京を追い抜き2位に踊り出た。
勝てばJ1。他球場で行なわれている東京の結果次第では、引き分けでも昇格。そんな舞台装置の中、最終節モンテディオ山形戦は始まったのだった。
その一戦の背後で起きていたことを、各選手、監督、審判などへの詳細なインタビューから浮き彫りにしていく。山際淳司「江夏の21球」などを髣髴とさせる、Numberらしいスタイルだ。
例えばこの最終戦、明らかな、そして決定的な誤審があった。その背後には一体なにがあったのか。大分にとって、山形にとって、それはどういう意味を持っていたのか。それぞれの立場から、そのことが語られていくのだ。
山際淳司と金子達仁との違いは、金子達仁は人間同士の対立を描いてしまう、というところだ。対立を描く、ということは、ともすれば両者のうちどちらかに主観をおいてしまうということであり、それはジャーナリズムの姿勢としては責められるべきかもしれないことだ。しかし、たぶん金子達仁という人は、取材対象への思い入れを捨てきれないのではないかという気がする。もちろん、それはそれでいいと私は思う。
ミスジャッジなどの問題の時は特に、それぞれの立場の違いによって、一つの現象がさまざまな見え方に変わってしまう。それは人間が、それぞれに他人と共有できない主観を持っている限り仕方のないことなんだろうけど、そういうところから生まれるどうしようもない対立を描いた作品が、この本なのである。
試合の結果については、ご存じの通りだ。翌シーズン、FC東京はJ1で、誰もの予想を上回る快進撃。一方大分は、2001年シーズンの現在もまだ、J2にいる。私たち一般のファンからすれば、注目しようとしなければ目に入りもしない一試合。しかしそこには、それぞれの立場と思いがあり、対立があったのだ。
これは勝者たちの物語ではないし、特別な才能を持った人間たちの物語でもない。しかし、それが日本サッカーのレベルなのであり、J2のレベルなのだ、と言ってしまうことは、この本の登場人物たちにとってあまりに残酷すぎる。
2001.6.27 てらしま
日本はロボットの国だ。嘘だと思ったら、この本を開いてみればいい。なにしろ、紹介されているロボットの半分以上が、日本製なのだ。
早稲田大学や本田技研の二足歩行ロボットを始めとし、さまざまなロボットが開発者のインタビューと共に紹介される。帯の「アーサー・C・クラーク絶賛」という、もはやおなじみの文句はだてではなく、かなり広範囲に、さまざまなロボットの写真が掲載されており、またその写真も、なかなかイカスものばかりなのだ。
ただ、ロボットの技術的な側面については期待しない方がいい。むしろ、アイドル写真集のようなノリで眺めて楽しむ本になっている。
ミーハー的な感覚でロボットの存在を楽しみ、ロボットと人間が共存する社会を夢想する。この本のコンセプトはそういうところにあると思う。ホンダのP3など二足歩行ロボットたちが冒頭に紹介され、と中、火星探査用リモートコントロールロボット、ロボットコンテスト、義手、義足などの紹介をはさみ、最後はやはり日本のペットロボットAIBOで締める、という構成も、それを表している。
そういう視点から見ても、日本というのはまさにロボットの国なのだ。
本書の中でも何度か触れられたことだが、日本では、ロボットはずっと人間の味方だった。これが欧米圏ではそうはいかないというのである。
欧米では未だ「フランケンシュタイン・コンプレックス」が力を持っている。ロボットという言葉それ自体に、どこかネガティブなイメージがつきまとっているのは確かだろう。今私が思い出すだけでも、『メトロポリス』『ターミネーター』など、考えてみるとロボットが単純に人間の味方という作品はあまりない。
対して日本では、「アトム」にしろ「マジンガーZ」にしろ、とにかくロボットといえば正義の味方なのだ。
こうした風潮のおかげで、日本人にはロボットに対する反感がない。
AIBOの好評が、なによりそれを表している。だって考えてみれば不気味かもしれないではないか。命を持っているわけでもない犬型のロボットが、部屋の中を勝手に歩き回っているのだから。それを25万円という金を払っても欲しいと思う人間が、日本にはたくさんいるのだ(私も欲しい)。日本はロボットのパラダイスなのである。
さてしかし、不安に感じる部分もある。
ホンダがP3を作った時点で、二足歩行自体の技術的な部分は完成に向かっていると思う。ここまできたら、あとは実用化だろうと思うのだ。
ペットロボットというのは、その方向性の一つではある。とはいえ、AIBOが技術的に難しいことをしているわけではない。果たして、この本に紹介されている、さまざまな、高度な技術力は一体、どこに応用されるのだろう。まさか、二足歩行のペットでもあるまい。
どうもいまいち、かっこいい写真から未来が見えてこない。
カバー裏に紹介されているK・エリック・ドレクスラー(ナノテクの提唱者)の言葉は「ロボットの時代の到来に驚くなかれ」と言っている。しかし、それはまだ当分先の話なのではないかと思うのだ。
2001.7.13 てらしま
上遠野浩平という作家は「謎に弱い」と言ったのは友人のTだが、私もそれに賛成だ。世界の雰囲気を作り、キャラクターたちがその中で動き回るまではいいのだが、物語が終盤にさしかかって、それまで提示されてきた謎が解明される段になると途端に、その世界観が崩壊していってしまうのである。
行き当たりばったりというかなんというか、キャラクターと世界が勝手に動き回っているうちに作者の手を離れていき(それがまたわりと魅力的なものだから)、しかし話だけは構想通りに終わらせようと、強引な展開で収束することが多いのだ。提示された謎が大きければ大きいほど、その破綻も大きくなっていく。
この欠点に対して、この作家の長所は「女子高生に強い」だと私は思っている。上遠野浩平の小説の中で、『ブギーポップ』も含め、私が面白いと感じたものには例外なく女子高生(もしくはそれと同等の年代の少女たち)が登場していた。
さてそこで、『紫骸城事件』だ。
「事件」とある以上、謎が主題の物語だろう。読み始めると、主人公は少女ではないし、主要キャラクターの中に「女子高生」に類する種類の人物はいない。
「謎に弱く」、「女子高生に強い」上遠野浩平の作品としては、もっとも期待できない種類の話なのだ。
とりあえず、世界観は『殺竜事件』と同じものである。「事件」シリーズとでも呼べばいいのだろうか。もちろん、『殺竜事件』もやはり、女子高生もなければ謎もある話だったわけで、上遠野作品の中ではかなり、まあ、出来の悪い作品だったと思う。
その続編なのだから読まなけりゃいいわけなのだが、しかし、この作家はもう一つ、「どうも気になる」という特質を持っている。本屋に新刊が平積みになっているのを見ると、つい手にとってしまうのだ。
物語は、大昔に魔法サイボーグが悪の魔女と戦うために作った城「紫骸城」で年に一度開催される「限界魔道競技会」に、英雄である主人公が立会人としてやってくるところから始まる。この「紫骸城」だが、実は「雪の山荘」と同様に、隔離されていることになっている。ここで連続殺人事件が起こるわけだが、当然その犯人もこの中にいるに違いない、とそういう話になっていくわけである。
ミステリーの常套手段である隔離された環境というものを、ファンタジーという世界観(?)を利用して、少し大袈裟に作ったわけで、ここまではまあ「なるほど」だ。(でも、その中に100人以上の人間がいるのでは、隔離の意味が半減しているような気もする)
もちろん、タイトルに「事件」とある以上これはミステリーなのだし、あまりネタをばらすのはよくない。
さて、読み終わった私の感想としては、「意外に悪くない」。もちろん始めに書いたとおり、私はこの本に毛ほどの期待も持っていなかったわけだから、あまり参考になる意見ではないと思ってほしいけど。
謎に関しては相変わらず弱いし、女子高生というアーキタイプが使えないキャラクターの造形も『ブギーポップ』などに比べるといまいちだ。だが、その欠点を世界設定が補っている。本筋とは関係の薄い話がちょくちょく語られ、それがどれも面白そうなのだ。もちろん、本腰を入れて語られない以上、「面白そう」であって本当に面白いわけではないのだが、そういう部分にも吸引力はある。
つまり、間違っているのは、タイトルに「事件」とあるところ、この世界観を使ってミステリーをやろうとしたところなんじゃないのか。と、これは『殺竜事件』に続く結論なのである。
2001.7.19 てらしま
始めに断っておきたいのだが、この作品は稀代の名作だ。本当にすばらしい小説なのである。これは私自身の見解として、こんなに面白い作品には滅多にお目にかかれるものではない。
「ライフキング」というゲームがある。子供たちはみなこのゲームに夢中になっていて、攻略法についての噂は、虚実ないまぜに、毎日全国の子供たちの間でやりとりされており、それが巨大なネットワークを構成している。
そこにいつか、一つの伝説が発生する。ライフキングは現実だ。世界は破滅へ向かっている。それに、大人たちは気づいていない。世界を救う鍵は、ゲームの中にある……。
物語は、虚実が定かでないその伝説を巡るものだ。
もちろん、話の下敷きにあるのは『ドラゴンクエスト』を筆頭とするファミコンブームである。あの時代、この物語はまさに現実のものだった。幻のエンディングも、裏技も、裏面も、ネットワークの内部にいた子供たちにとって、すべてが現実そのもので、人間の死や世界の行方などとも、そうしたことはまったく同等のレベルの話だった。
なにを隠そう、私もまさに、その時代に直撃する世代の人間である。だから、幸運にも、この本に描かれる世界のことは実感として理解できる。
そんな私にとってもこの本は面白い。しかし、だ。
理解できるからこそどこか、認めたくない、という妙な感覚があるのである。
「大人なんかに僕たちの気持ちはわからない」と言っては言い過ぎだが、それに似た感覚だ。
事実、私の目から見るとこの作者がどこか誤解している(なにを?というと難しいが、私たちの世代の感覚を、だろうか)ふしが見えるのだが、これも、私が無意識に、私にとっての「大人」である人間を拒絶しようとしているのかもしれない。
他人にあまり核心をつかれすぎると、それを受け入れづらいものだと思う。この小説で私が感じたものも、たぶんそれだろう。
この物語は私たちの物語なのである。
例えば、具体的な話の一つとして、「テレビゲームの是非」の問題がある。今でもそうだが、親たちはいつも、自分に理解できないテレビゲームの存在を悪と断じ続けてきた。
もちろん『ノーライフキング』でもこの話題はとりあげられている。ここでのいとうせいこうの意見はどうやら「テレビゲーム肯定」に傾いているようだ。それは終盤、いとうせいこう自身のドッペルゲンガーとおぼしき人物がとる行動から明らかである(少しわからないところもあるのだが)。
しかし、当事者である私たちは、ここに反感を持ってしまうのである。
少し大袈裟に言えば、テレビゲームは私たちの人生の一部だ。血の中に流れているヘモグロビンと同等の、今さら否定することは不可能な存在。それはつまり、あまり他人に是非を断じられたくはない種類のことなのである。
親の目を逃れ、一日に四時間以上もテレビゲームをやり続けた世代にとって、これは実に重大な問題だ。
だから、物語は今でも続いているはずなのだし、そこには少しでも結論めいたものがあってはならない。私たちテレビゲーム世代の、これは願いなのである。祈り、と言ったっていい。
「現代における通過儀礼の物語だ」とか、「都市伝説」がどうだとか、そういう言葉でこの小説を語ることはもちろん可能だろう。しかし、私はそれをやりたくないし、人にやってほしくもない。それがすばらしい作品であるほど、なおさらのこと。
もちろんいとうせいこうという作家にも、この物語を語らないでいてほしかった。それが矛盾に満ちたジレンマであるにせよ、だ。