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遊星ゲームズ
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1970/01/01 09:00

オルガスマシン
 読書

オルガスマシン
イアン・ワトスン 大島豊訳 コアマガジン

2001.8.9 てらしま

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 男に奉仕するために作られた「カスタムメイド・ガール」たちが、自由を求めて活躍する話。……なのかなあ。
 フェミニズム小説ではあるんだが、作者は男だし、他のところでフェミニストらしい発言をしているという話も聞かない。そもそもこの小説、読み終わった感想として、現代社会に対する問題意識から書かれたとは考えづらいものがある。そういうことよりももっと、登場人物の成長していくさまとかいった、話のおもしろさの方に重点がある。
 まあともかく、そういう話なのではある。
 とりあえず、読んで満足はした。おもしろかったし。それはまあ確かだ。
 あとがきを読めば処女長編と書いてあって、なるほどと思った。とりあえずカスタムメイドメイドガールというネタがあり、あとは勢いでおもしろい小説を書いたんだろうなあ、という感じ。どうもまとまりのない各エピソードも、それぞれに勢いがあり、考えてみればかなり変なことを言っているんだけど、納得させられてしまうのだ。
 例えば、主人公ジェイドを買った最初の相手は、ジェイドに様々な「人皮」を着させてセックスの相手をさせる。「人皮」はどうやら本物の人間から剥いだものかもしれないというのだが、いや、ちょっと待てよ? 一体どうやって?
 しかし、科学考証がどうとかそんなことを指摘すべき作品ではないのだから、こういう点は無視すればいいわけなのだ。実際、それが気になるということもなかった。
 さてしかし、戸惑ってしまうのは最終章なのである。
 確かに、フェミニズムかと思えばそうでもないし、『動物農場』とかみたいな一発ネタユートピア小説なのか(強い風刺の意図はあまりなさそうなんだが)、と理解しかけていたところで、不意に最終章が現れる。
 そうかそんな話だったのかあ。
 個人的にはあまり納得できないのだが、確かにまあ、強力なメッセージ性を持たせずにあの話をするなら、これもアリなのかなあ。


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1970/01/01 09:00

教養
 読書

教養
小松左京、高千穂遙、鹿野司 徳間書店

2001.8.21 てらしま

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 小松左京を中心として、上の3人が対談をしている本。今回はとりあえず生命、文明、文化の話で、ゆくゆくはエネルギー問題、宇宙の話と続けていくつもりらしい。
 タイトルにあるとおり、小松左京の持っている真の教養というものを対談を通して紹介しようという趣旨。いろいろな話に発展するのだけど、世間一般で認められている常識というものはそれほど確固としたものではないのだよ、というような話が主といえば主かなあ。
 一つ紹介すると、「進化」の対義語はなにかという話で、一般には「退化」だと思われているけど実は違う、というものがある。退化というのは蛇の足がなくなっていったみたいなもののことをいうのであって、これは立派な適応。つまり進化の一形態のことだから、対義語というのとは全然違う。じゃあ対義語はなにか。進化というのは生命の種が増えることだ。だったらそれが減るのはなにかといったら、それは「絶滅」なのだ。言われてみると、確かにそれはその通りだなあ、と思うじゃないか。
 つまりそういうのが教養というものだ、という話で、目から鱗とでもいおうか、なんとなくSFモノには居心地のいい思想が語られていく。
 特に最終章、小松左京の究極のテーマとして「宇宙は物語を語るか」というものがある、という話を始めたあたりからは、一人の人間の信念と思想を語ったものとして、感動的ですらある。
 高千穂遙が「人類はもうだめだ」みたいなことを言うと、それを「けしからん」と叱るという場面が何度か繰り返されるのだけど、そういう小松左京の前向きさ加減というのはクラークにも通じるもので、さらに脳天気にそれをやるとソウヤーの人間原理になる。まあこの本に言わせると、あのへんにはキリスト教思想が入っているからなあということになる。確かに、支配思想のない日本人だからこそ持てる平等な考え方というものがあると私は思うのだが、小松左京という人はそれを理想的な形で体現しているひとなんじゃないだろうか。
 そういう、フォローすべき人物の考え方がわりとわかりやすく読めるという意味で、この本は面白いのだ。
 ただ一つ、ごく個人的な不満がある。ここで書かれていることというのはたしかに本当の教養についてのことだろう。私自身はなにしろ、書かれていることがいちいちもっとも、と納得してしまった次第である。しかし、これらのことは同時に、SFがずっと訴え続けてきたところでもあるはずだ。
 ならば、なぜこの本のタイトルは『教養』なのか。対談をしている人たちだってSFモノなのだから、ここは自信を持って『SF』となっていてほしかった。
 もちろん、それではSFアウトサイダーたちにも訴える内容となりにくいし、その前に手にとってもらえないだろうという実状もあるワケで、本当はこの題名で仕方がないのだろうとは思う。だがそういういろいろなものをさっぴいた理想論として、小松左京の本心では『教養』は『SF』と読み替えられていてほしい、と思ってしまうのだ。


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1970/01/01 09:00

わたしは虚無を月に聴く
 読書

わたしは虚無を月に聴く
上遠野浩平 徳間デュアル文庫

2001.9.3 てらしま

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 いつもけなすくせに新刊が出ると必ず買ってるんだから、それは要するにファンってことか、とか思う。実際、小説としちゃあ欠点は多くあると思うし、タイトルも、なんともかっこわるい。それでもなにか惹かれるものがあって、つい読んでしまっているのである。
 読みやすいというのが一番大きな特徴だといえるだろうと思う。要するに、読者(少なくとも私)の期待を裏切るようなことはきっと書かれていないだろう、と思えてしまうのである。
 だから、ちょっとつまらないな、と感じても安心して読み飛ばしてしまえるし、それで物語の理解に支障が起こることもたぶんない。私は普段、どうしても文章を一字一句読んでしまうために速読ができないのだが、上遠野浩平を読むときだけはかなり速い。
 この本は、同じデュアル文庫の『僕らは虚空に夜を視る』、「少年の時間」の一編「鉄仮面をめぐる論議」などと同じ(もっと言えば、上遠野作品は全部同じ世界ということになるようだが)世界を舞台としている。その中でも、月面上を舞台とした話を集めた、短編集である。
 この世界では人類とその「天敵」虚空牙との戦いがもうずっと続いていて、もう地球圏はかなり危ない、という設定になっているのだけど、それはともかくとして、前作『僕らは~』から続いているのは、バーチャルリアリティの世界を現実と信じている女子高生がこの世界の真実を知る、というプロット。「この世界は実は~かも……」というのは万人に共通する感覚で、それをあつかった作品も多くある。だから真新しさは特にないんだけど、そういうところもやっぱり先に書いた読みやすさの一因になっている。
 少し話はずれるのだが、最近『ガンパレードマーチ』とかを見ていて、日本人の感覚で普通に「SFを作ろう」と思ったときにできあがってくる世界観というのはこういうものなのかもしれない、と思う。
 この世界は本当ではないかもしれない、という話は実際、なぜか多い。日本SFは昔からディックが好きだし。
 それは、この世界から逃避したいという欲求が社会に浸透していることの証明にも見えるし、そういうものではなぜか、「本当の世界はもっと厳しい」みたいな話になることが多いのは、人々が現実に生き甲斐をもてていないことを表しているのだと思う。
 SFを書こう、と思ったときに始めに考えるのはやっぱり異世界なんだろう。そして、日本で異世界が果たす役割というものは、生き甲斐をもてない現実からの逃避なのだ。
 と、そういうことをふまえて、この本ではそこに、作者上遠野浩平なりの答えが明確に与えられている。それもなんか現代っぽくて、悪く言えば意外性がない。だがその分、つまり読みやすいのだ。


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1970/01/01 09:00

図説ロケット
 読書

図説ロケット
野田昌宏 川出書房新社

2001.9.17 てらしま

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『図説ロボット』は、世界でもトップクラスという網羅率を誇る野田昌宏パルプSF誌コレクションの中から多くのカラーイラストを収録し、ロボットの歴史をひもとく良書だった。今回はそのロケット(というよりは宇宙船)版。
 相変わらず、野田昌宏のコレクションに対する情熱には敬服するしかないし、SFのファンとしては、そういう人が精力的にこうした本を出版してくれるのはとても助かる(?)。
 中身の方はもう期待通り、絢爛豪華な表紙絵、挿絵の数々が次々と紹介され、思い入れたっぷりの野田節でそれを語ってくれている。
 変に評論家ぶることもなく、自分の体験を中心にした語り口は、現実に膨大なコレクションを目の当たりにしているだけに、かえって説得力を増していて、そこで「SFは絵だ!」といつもの主張をやられるともう、納得するしかなくなってしまうわけである。
「おわりに」に書いてあることだが、ロボットが常に物語の主役だったのに対して、ロケットというのは実は、あまり表舞台に立つことがない。というより、初めのうちはロケットを主役とした物語も多かったけど、そのうちすぐに現実の宇宙開発の方がSFに追いついてきちゃった、ということらしい。
 宇宙空間の難しさは作家たちの想像を絶していて、そうなると「サイエンスフィクション」と標榜している手前いいかげんなことも書けず、だんだんとロケットについての詳しい描写は減っていき、やがて「ロケット」であるという事実だけが描写されるようになる、というシミュレーションは納得できるものがある。単純に宇宙船は登場して他の星へ冒険するが、『宇宙への序曲』のような宇宙船を開発する話は、パルプの世界にはあまりないようだ。
 とすると、ロボットやAIがかなり現実的に開発されるようになった現在では、ロボットですらSFには登場しづらくなる、ということになるのだろうか……。
 なかなかに難しいものがある。
 しかし、行き詰まろうがなんだろうが常に男の興味を曳く題材が、美女のあられもない姿であることは今も昔も変わりがない。本書の第3章「宇宙には美女がよく似合う」を眺めながらそんなことを思い、なんとなく安心してしまった。


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1970/01/01 09:00

ウィーン薔薇の騎士物語(1~5)
 読書

ウィーン薔薇の騎士物語(1~5)
高野史緒 中央公論新社C・NOVELS

2001.9.27 てらしま

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 高野史緒の斬新な新境地としてちょっと話題だったシリーズが、5巻でひとまず完結した。舞台は19世紀の終わり頃、バイオリン一本を抱えて田舎を飛び出し、音楽家になるべくウィーンへやってきた少年フランツの成長を描く物語。当時のウィーンとヨーロッパがどんなところだったのか、という時代考証とそこからくるリアリティはさすがのもの。新境地と書いたが、読んでいるうちに本当にそんな世界があるかもと思えてくる感覚は、以前から変わっていない。
 1巻を読んだときは、さすがにこれはどうだろうというような完成度しかなかったのだが、巻を読み進むにつれて文章も安定してきたし、そうなるにつれてだんだんと世界観やキャラクターに対する愛着もわいてきた。ひとまず完結、という5巻を読んだ頃には、私としては、これはこれでけっこう満足できた。
 それにしても、少年の成長という縦糸はあるものの、吸血鬼、耽美、呪われた楽器だのとずいぶんといろいろな要素が登場したシリーズだった。と思っていたら、最後のエピソードは、なにも変なことの起こらない実に控えめな話。活躍する人物も数を抑え、ジルバーマン楽団の中からは主にフランツと、3巻で登場した少女ソプラノ、クリスタに焦点を絞った落ちついた印象の物語で「ひとまず」幕を閉じた形になる。
 とはいえ、まだまだ提示された話は残っている。なにしろ、フランツたち薔薇の騎士四重奏団はウィーンの皇太子を友人に持っている。あとがきによればこの人、5巻の時点から3年後には暗殺され、それが第一次世界大戦の引き金を引くことになってしまうわけで、フランツの将来にはまだまだ大きな試練が待ち受けているのだ。
 そうなってくると読者としては、やっと愛着もわいてきたキャラクターたちの行く末がどうしても気になってしまうではないか。あとがきには「そういう話も書きたい」と書いてあったから、気長に待つもりでいる。


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