2001.10.9 てらしま
斬新。っていうか、斬新すぎ……。
まあ、読んだ人ならこれには賛成していただけると思うんですが……。
明治の東亰に、連続殺人事件が起こる。その背後に見え隠れする、「夜の者ども」。主人公新太郎と万造は、迷信が排除され合理性に転換されていく時代の流れの中で、連続殺人を調査していく。
つまりそういうミステリー。超常的な存在を思わず信じそうになる新太郎と、あくまでそれを否定する万造。この二人のコンビが、少しずつ少しずつ「夜の者ども」の秘密を解き明かしていくのだが、その中で、時代の狭間にあった明治という時代の感覚が描かれていく。
そして、大詰……。
斬新な結末が待っているのである。
まあ読んで納得はいく範囲(かなあ……)なのではあるけど。けっこうおもしろいし。
読んでいるうち作品世界の中に自分がいるかのような感覚になる、小野不由美独特の部分はこのころから十分に発揮されている。明治の東亰という世界とともに、「火炎魔人」「闇御前」などの夜の者どもまでを一緒に納得させられてしまうのだ。
小野不由美の世界というのは、決してすべてが心地よいわけではないし、リアリティばかりでもないが、それでも染みこんでくるような存在感がある。
最近の作品に比べると文章の力が劣る、という面はあるが、その分、今よりも作品素材への愛というか、作者のおもしろがりようが感じられて、勢いのいい小説になっているのだ。
2001.10.19 てらしま
豚足かケンタッキーかという感じのタイトルだが、もちろん違う。
毎日フットボールのことを考えて暮らす、フットボールを食って生きているかのような生活、という意味。要するになにが書いてあるかと思えば、パリを中心にヨーロッパのサッカーを見て回った、紀行というかエッセイというか、そんな感じの本だ。
とりあえずつれづれといろいろなことが書いてあるのだが、結論から言うと、一番おもしろいのは第一章、「サッカー退歩論」だった。
「サッカーは退歩している」と主張するイングランド人の老人が登場して、それで「僕」を説得しようとする。このオヤジの言葉が実に含蓄があり、おもしろい。
第一章は本全体から見ればまえがきのようなものなのだが、最後まで読んでもこのオヤジに勝てるキャラクター(というかエピソード)は登場しなかった。
サッカーは紀行文と相性がいいらしい。しかもその旅先は決まってヨーロッパの国々である。理由は明らかで、あっちでは文化や政治といったものにサッカーが直結しているからだろう。
私はヨーロッパに行ったことはないが、それが街を歩いていて感じられるとしたら確かにすごそうだ。
スポーツ紀行文の類が、他の競技ならばスタジアムの中が中心になってしまうのに対し、サッカーだけは街が中心になりうる。不思議な力を、サッカーが持っているとしか思えない。
本の話に戻そう。そうやって、ヨーロッパやアフリカを回ってサッカーの話を書いているうちは、おもしろい話がけっこうあった。一番おもしろいのはイングランドのオヤジだが、次点となるエピソードはいくつもあったのだ。
しかし、こういう本の悪い癖というかなんというか……。
終盤、話がなぜか、トルシエに及ぶのだ。
ヨーロッパのサッカーの話をしてくれ、と思いながら読み進むと、どうにも日本は決定力不足だとかサッカーがつまらないだとか、そんな話が続く。
いいのだそんなことは。スポーツ新聞を読んでいればいくらでも書いてある。
どうもこういう人たちというのは、トルシエに一言もの申したくてうずうずしているらしい。困ったものだというかなんというか。
まあ、評論家十八番の意見、「クライフのバルサはすばらしかった。だからトルシエはよくない」をやらなかっただけマシではあるのだが。一応、褒めるところは褒めているので好感は持てるし。
とはいえ、私はサッカーの物語が読みたいのだ。作者の意見を展開されても鼻白むばかりである。
ある程度は仕方ないのかもしれない。彼らだって、評論をして生活しているわけで、もの申すのが仕事なんだろうから。しかし、それがこうやって、一冊の本の価値を低めているのを見てしまうと、悲しくなるじゃないか。
2001.10.26 てらしま
どうかと思う、という感想が的を射ているだろう。が、この言葉を使って褒めなければならないという、どうにも難しい命題が、いま私には課されているわけだ……。
感想の前にいくらか解説である。
たぶんタイトルの元ネタは、メアリ・H・クラークの『アナスタシア症候群』という小説。これを少し説明しておくと……。
アナスタシアというのは断首刑で死んだロマノフ朝の王女の名前。ところがなぜか、処刑のあとに「自分はアナスタシアだ」という女性が他の国に現れた、という実話がある。このころにはもうアナスタシアの本人は死んでいるはずなんだけど、何度訊いてもいろいろな質問をしても彼女は自分がアナスタシアだと信じて疑わない。
この人、結局死ぬまでそう言い続けた。この話を元にして書かれた小説が、『アナスタシア症候群』で、ここでは現代に復活したアナスタシアの霊みたいなものが主人公の身体を乗っ取ってしまう。
この小説、NHK-FMラジオの連続ドラマ「青春アドベンチャー」でやっていたので、憶えている方も多いと思う。
さてここで、もしもこの乗っ取られた身体の方に意識が残っていたら……。というのが本書。
冒頭、朝目覚めた主人公は、どうやら自分の身体が他人に乗っ取られてしまっていることに気づく。それはどうやら男性らしい。しかもサッカー部の、憧れの先輩? さらに、その彼はどうやら、実はすでに毒殺されてしまっているらしい?
で、この少年が主人公の身体で学校へ行ったり自分の死因を調べたりといった行動をとるところを、なにもできない主人公の一人称で描写する。
主人公の身体はなにしろ乗っ取られているわけだから、本当になにもできない。指一本どころか、誰ともコミュニケーションをとることすらできず、ただ目の前で起こる出来事を眺めるだけ。
という、なんとも奇妙な小説なのである。
一応、新本格ミステリみたいな展開になっていくのかと思ったら、それはそれとして物語はそれどころじゃなくなってくる。中盤を過ぎたあたりからは次々と意外な展開を見せ、……一体、そんなことで本当にいいのだろうか……。
それにしてもよくもここまで、なんというか、斬新というかばかばかしいというか……。
ともかくしかし、おもしろいのだ。ネタはばらせないし、読んでみてもらうのが一番早いワケだけど。
女子高生の一人称に加え、読むのに時間のかからないお気楽な文章。人が死ぬ話なのにさっぱり深刻にならないし。デュアル文庫が今月から新しく始めた書き下ろしノヴェラシリーズの先鋒ということになっていて、ノヴェラだから短い。読み始めたらあっという間に読み終わる。
2001.10.29 てらしま
ここでいう「魔球」というのは要するに、最近ちょっと話題のジャイロボールのこと。ジャイロボールとはなにか、からその投げ方まで、わかりやすく解説した本。
ジャイロボールというのは、つまり進行方向に平行な回転軸を持ったボールのこと。普通の投げ方では、ストレートはバックスピンしているわけだが、これとはまた違った飛び方をするらしい。
要するに、いわゆる4シームの握りでこの球を投げると縫い目のない面を前面にしたまま進んでいくため、空気抵抗が普通のボールよりも少なく、ボールはあまり減速しない、というような効果があるそうな。
この球の性質やらを1章をかけて理論的に説明してくれるのが、流体力学の権威だという姫野龍太郎。
他のページはどうやら手塚一志によるものらしく、こちらは完全に実用面に立脚して書かれている。この2者の視点がこの本にはある。
おもしろいのは、コンピュータシミュレーションなどの理論からの姫野の結論と手塚の経験が食い違っていた、というくだり。
手塚はジャイロボールが「ホップする」と証言するのに対し、姫野は「落ちるはず」という。
そもそも、普通のストレートというのはバックスピンがかかっている。このスピンのためにボールにはいくらか揚力が働き、まあ重力に従って落ちることは落ちるんだけど、無回転の場合よりも落ち方がゆるい、というのは私も知識として知っていた。フォークボールなどの「落ちる」球というのは、本当は普通に重力に従って落ちているだけなんだけど、ストレートに比べたら「落ちる」のである。
ジャイロボールの回転にはバックスピン成分はない。だから、私もジャイロボールは落ちるに違いないと考えていた。
実際、姫野龍太郎らが以前日経サイエンスに寄稿した記事を読んだことがあるのだが、そこにも落ちるとあって、そういうものなのかとずっと考えていたわけなのだが……。
しかし、手塚の提案でこの球を実際に体験した姫野は、やはり浮いてくるという印象を持ったと書いてあるのだ。
こうなると、実地の経験に勝るものもないだろう。スポーツの話なのだから、実際にバッターボックスに立った時の感触がもっとも重要なのは言うまでもない。
真相はどうやら、始めに書いた「減速が少ない」というところと、軸が傾いているためいくらかバックスピン成分があるという点などにあるようだが、はっきりと答えは出ていないようだ。
私に関していえば、なぜジャイロボールを見誤ってしまったか、その理由を考えると、無意識にボールの速度を一定としたモデルを考えてしまっていたことに原因があると気づく。確かに、普通のボールよりも抵抗が小さく減速が少ないボールは、浮いて見えるかもしれない。
ものを考えるというのもなかなか難しいなあ、などと教訓的に思ってしまったりもしたわけである。
2001.10.31 てらしま
乾くるみの小説にはなにかが欠けていると思う。それは、人間性というか倫理観というか、そういうようなものだ。
それが悪い、と言いたいわけではないのがややこしい。普通は、人間心理がどうだとかそういう難しいことの織り込まれていない小説の方が珍しい。その上で、やはりそうした哲学は描かれていなければならないと私は思っていた。しかしそうしたものが、乾くるみ作品にはないのだ。
そして不思議なことに、それがないからこそおもしろい。
登場人物の心象だとか、行動の動機だとか、そういう事柄を描くというのは、作家だったらあたりまえなのではないかと思う。多かれ少なかれ、そこに興味のない作家はいないだろう。
だからこそ、そこに正面から取り組んだ作品には傑作が多い。しかしだ。
乾くるみ作品には、眉一つ動かさずに人を刺し殺してしまうような冷酷さが通底している。トリックと小説の構成のためには、登場人物たちの人生を省みない。作品のジャンル性や暗黙の了解といったものも平気の平左で踏みにじる。
そしてそういう読者側の思惑をあざ笑うようにして、あっと驚く仕掛けを披露するのだ。
すべてが計算上のことと考えるしかないのだが、とすれば恐ろしく綿密な計算だ。計算でないとしたら、この人はきっと宇宙人である。
本書は『匣の中の失楽』(講談社ノベルス 竹本健治)へのオマージュとして書かれたそうである。こちらは読んでみると、「アンチ・ミステリ」という評どおり、決してトリックばかりを追う人間味のない小説というわけではない。なにしろミステリのことゆえ、詳細は書けないが……。
オマージュ、といわれれば確かに納得はする。『失楽』に登場したトリックを流用していたり、同じくメタフィクションの構造を使っているところなどからそう思うのだが、物語の企図しているところは少し変えてあるのだろう。『失楽』と同様、メタフィクションとしての構造が物語を読者の現実に滑りこませる、という部分は共通しているが、読後感には大きな差があるのだ。
『匣の中の失楽』が登場人物の視点を保持し続けたのに対し、『匣の中』は第一章から、それさえも手放してしまう。最初からすでに視点は読者の側にあり、メタフィクションであることを意識せざるをえない描写が繰り返されていく。
結果、この入れ子構造の持つ意味、フィクションとノンフィクションとの融合の怖さが、より強調された形になっていく。それは、ノンフィクションとして語られるために、怪談は怖い、ということと同じ、認識が揺さぶられることの怖さだ。
オマージュ、とあるが、メタフィクションという部分では『匣の中』は『匣の中の失楽』を超えていると思う。
『マリオネット症候群』のあとがきで大森望が「センス・オブ・ワンダー」と表現していたのはこのことだと思うのだが、確かにこれは、SFを読む喜びと共通するものだった。
物語に人間性や人生の問題を付与するのは読者の役割であり、作者の仕事ではない。そういう態度こそが、センス・オブ・ワンダーの根本かもしれない、などということを、ふと考えた。とすれば、乾くるみはなんと見事にそれを演じていることだろう。もちろん、本当に宇宙人なのかもしれないが……。