SINCE : 2001.05.29
MOVED INTO HERE : 2006.01.01
遊星ゲームズ
FrontPage | RSS


1970/01/01 09:00

屍鬼
 読書

屍鬼
小野不由美 新潮社

2001.11.21 てらしま

amazon
 長かった。とにかく一番の感想がそれだ、というのもあんまりだとは思うけど、三千枚というボリュームは思っていた以上にすごかったのだ。それに私は、「長い」という、それ自体にも価値はあると思っている。
 三千枚といったら、普通の文庫本にしたら六~七冊分ほどだろうか。ライトノベルの文庫なら十冊分になるかもしれない。
 それだけの長さを使えば、たとえば十二国記なら一巻から四巻くらいまでの話がすっぽりと収まるわけで、これはもう長大な大河ファンタジーがひとつやれてしまう長さなのである。ある国に王子が生まれ、やがて王が崩御し、その機に乗じて叛乱を企てようとする重臣の陰謀を退けつつ外部から音もなく迫る脅威にも備えを固め、麗しい姫にも出会い、最後には近隣諸国を統一する、とこれくらいの話はできる長さだ。
 ところがこの本は、そうやって引き延ばすのではなく、話そのものは複雑なものを用意せずに、翻ってその細部をとことん描いていく。
 人工千三百人ほどという山間の外場村に、ある時から死が蔓延し始める。始めは誰にも気づかれず、次第次第に被害は拡大していく。それをなんとか食いとめようとする、医者の敏夫と僧侶の静信は、村で起こっていることの背後に言い伝えの「鬼」を垣間見る。
 とこうしてあらすじを紹介しても、この本に対してはあまり意味がないという気がする。なにしろ登場人物はたぶん百人以上もいて、そのそれぞれが、細かく構築された村の人間関係の中を動き回るのだ。筋に関係ないと言って彼らの存在を切り捨てることはできないのだし、そうしてしまってはこの本の真価を捨てることにもなる。
 重要なのは筋よりもこの世界を体感すること、そして「読む」という行為そのものなのではないだろうか。
 一つ一つのことがらから目を逸らすことなく枚数をかけ、構築されたリアリティは大したもの。実際に外場という村がどこかに存在したとしても読者は誰も驚かないだろう。
 一方、普通は小説では気にしないようなリアリティまで、これだけの枚数の中では浮き彫りになってしまう。たとえば村のどこかで人が死に、その葬式があったからといって、どれだけの村人がそれを気にしているだろう。普通の小説では、その程度のことは都合よく処理されてしまうのだろうが、この本ではそうはいかない。
 とっとと敵の存在に気づいて、さあ戦おう、となってしまうのが並の小説だろう。だがこの本では、敵はいるのかいないのか、一体なにが起こっているのか、わからないまま死人だけが増えていく描写が、まあなんとも長々と続く。
 誰がなにを知っていて、なにを思い、考えているのか。そこがなければこの話は成立しない。そうやって、登場人物の一人一人がおざなりにされることなく描かれていく。
 そのための問題点もある。誰が誰なのか、多すぎてときどき混乱してしまうこともその一つだし、登場するすべての村人の心情に納得のいく描写が割り振られたわけでもない。
 普通は物語のご都合主義の中に顕れてこない問題までが、この本では表出してしまっているのだと思う。
 この過程は、3DCGのリアリティを追求しているうちに視覚や認知の不思議に行きあたる、情報科学の問題に似ている。問題をごまかして創られたバーチャルアイドルの表情には虚ろな違和感がつきまとうが、この本ではそこをごまかそうとしない。
 たくさんの登場人物を、誰も見捨てずに絡み合いながら動かす中では、テンポよい痛快な活劇は望めない。小説という表現形態には限界もあるだろう。バーチャルアイドルの虚ろさが垣間見える瞬間も、中にはある。
 そうした問題点は確かにあるだろう。だが、そうならそれも仕方がないのではないかと思わせるだけの迫力もまたあるのだ。
 いわばこれは物語というよりも、外場という一つのバーチャル村を舞台とした、シミュレーションだ。そしてなおこの小説に物語性を感じるとしたら、それはきっと読者が自身の目で外場村を眺め、綴った物語なのではないだろうか。
 三千枚は長い。だがそれで村のすべてが描き出せるはずもない。そこをうやむやにしてよしとはせず、完成できないことがわかりながらも足掻いてみせた、小野不由美という作家にとってこの小説は、どんな意味を持っていたのか、そんな余計なことまで考えてしまいながら、ともかく面白くなければ読めない長さだった。


.コメント

1970/01/01 09:00

永遠なる天空の調
 読書

永遠なる天空の調
キム・スタンリー・ロビンスン 内田昌之訳 創元推理文庫

2001.12.6 てらしま

amazon
 自己紹介のところにも書いたけど、マイベストなのであります。
 どうもマイベストと思っている本というのは人に勧めづらい。相手に貶されたらどうしようというのももちろんあるが、それ以上に、私がベストだと思っているということは私の中のかなりの部分がこの作品を肯定してしまっているわけで、もしも他人がこれを読んだときにどう感じるかというのが少しも想像できないというか、ひょっとしたら、たとえ「いいね」と言ってくれたとしても、それはきっと私の思っていることとは違うだろうなとか、要するにそんな、ファン心理というかなんというかそういうものを感じてしまうのです。
 それを少しでも紛らすために、「これを読むのは『幼年期の終わり』と『火星年代記』と『タウ・ゼロ』と、あとえーと、せっかくだから『荒れた岸辺』(品切れ)も読んでからにしてね」とか逃げ口上を打ってみたりするワケなのだが、まあそれは別の話というもの。
 内容はアレである。なんかもう、紹介するのがもどかしい。宇宙に一つしかない楽器「オーケストラ」を受け継いだ主人公ヨハネス・ライトは、惑星を渡り歩いてコンサートを開く「太陽系ツアー」をやるワケである。そういう話。
 とにかく、読んでいて「俺は今シアワセだ」と本気で思ってしまった本というのはまったくこれくらいのもので、琴線に触れたとかそういうレベルではなく、もっと大規模に同調してしまったワケで、つまりほら、そういうことってありませんか。そういうのはだいたい、夜中に書いた手紙みたいなもので、朝になって興奮から醒めてみるとどうってことなく思えて恥ずかしくなってしまったりするものだけど、これはそんなこともなく、読んでから4年も経った今でもマイベストであり続けているわけです。
 音楽モノということで、『ソングマスター』とかを思い出す人も多いと思う。けど読んでいる感じはかなり違うといっていい。これはあんないやらしい話ではなく(ファンには失礼)、もっと愛と勇気と希望のある話だ。なにをいっているんだ俺は。
「科学っぽいところがすいぶんてきとーだし、ちょっと古くさいね」と言われればごもっとも。「まとまりのない話だね」と言われたらそうかもしれない。だが、マイベストというのはそういう次元で決まるものではないのだ。
 ……どうも、さっぱり紹介になっていない気もするのだが、つまり、この本が私という一人の人間に「ベストである」と言わせるだけのパワーをもっていたのは確かなわけで、私みたいな人間は他にもきっといるし、だからたぶんそれくらいの価値はあるに違いないのではあろうと思わんでもないかなあ。
 人に評価を訊くと、「最高」と答える人と首を傾げてすまなそうに「わからない」と答える人の2つに分かれる作品というのがある。中間はなく、最高とわからないの二択になってしまうのである。
 そうした作品は比較的作家の処女作に多く、どこかまとまりはないが勢いのあるものが多い。安定した評価を得られないからすぐに忘れられてしまうが、ごく一部の人々だけは長く記憶をとどめている。これはいわゆる「オタクうけ」とかそういうことではなく、もっと純粋なものとしてだ。
永遠なる天空の調』はまさにそういう作品だ。だから、あまり積極的におすすめをする必要はないだろうと思う。
 ともかくどこかで誰かが読んで、その人が「俺は今シアワセだ」と感じたならそれでいい。そう思える本というのは、私にとってはこれだけなのである。やっぱり紹介になってねーけど、まあそれでもいいんじゃないか。


.コメント

1970/01/01 09:00

パヴァーヌ
 読書

パヴァーヌ
キース・ロバーツ 越智道雄訳 扶桑社

2001.12.8 てらしま

amazon
 スチームパンクというのを私はぜんぜん読んだことがないのだが、こういうのがそうなのだろうか?
 テクノロジーが発展せず、蒸気機関と手旗信号が世界を動かしている、20世紀のイギリス。そこに生きるさまざまな人間の人生をそれぞれに描きだすなかで、それがやがて世界を大きく動かしていく、というのがあらすじ。人間がそれぞれの人生の中で喜怒哀楽を演じ、その思いの一つ一つがやがて歴史のパーツとなっていく、というプロットにはなにかすごく惹かれるものがある。
 が、こういうテーマを掲げた作品の問題点というのは、これに完全に成功した作品は存在しないんじゃないか、というところだ。やはり、一つの作品の中で幾人もの主人公を描ききることは難しいし、小説である以上、現実からは乖離してしまう部分(ご都合主義、というのはそれを意味しているんだと思う)はどうしても残る。
 要するに、小説は終わらせる必要があるが、歴史は終わらないということだろう。だから、このテーマの小説はいつも最終章に納得がいかない。
 これは小説への苦言ではない。私はむしろこうした作品が好きだし、これに挑戦する作家は応援したくなる。この本もだから、好きか嫌いかと訊かれたら好きだと答えるし、出来だって決して悪くはない。いや、むしろ面白いのだ。
 世界の雰囲気は抜群のモノがある。手旗信号をリレーして電報のように遠くの相手と通信するなどは実に面白い。しかし、やはり最終章の「ご都合主義」的展開がどうも、少しばかりよくできすぎている。
 信号手や蒸気機関車の運転手や、修道士や、そういう人々の歴史が最後に一つに縒り合わせられる瞬間、そこが面白味であるはずの部分なのだが、どうも読んでいて醒めてしまう。
 この作者キース・ロバーツの作風だという。とにかく情景描写が多く、台詞や行動の直接的な描写はなかなかしない。それが、少し読みづらくしているのは確かだが、「もう一つの歴史」をみずみずしくイメージするにはちょうどいい。小説体験として異世界を感じるという部分では、楽しめた。


.コメント

1970/01/01 09:00

QED 百人一首の呪
 読書

QED 百人一首の呪
高田崇史 講談社ノベルス

2001.12.11 てらしま

amazon
 大上段に構えたタイトルが以前から気になっていた。こんなタイトルのミステリを書け、と言われたら、私なら逃げ出す。
 よほどの意欲作なのか、と期待して読んでみたのだが、どうも肩すかしを喰ったようだ。タイトル『QED』から当然想起される、鮮やかな謎解きの部分はそれほど重要ではなく、百人一首にこめられた謎と怨念を解き明かす話の方が重心に近いようなのだ。
 私はミステリのジャンル内にいる人間ではない。そういう立場から、いろいろと言いたいことがある。
 そもそもミステリというのはどこが面白いのか。いや、私だって、ミステリを読んで満足することはあるのだし、面白さが理解できない、ということではない。しかしときどき、部外者には踏みこむことができなそうな、深い領域が垣間見えてしまうことがある。
 シャーロック・ホームズを彷彿とさせる変人探偵がいて、その目の前に謎がある。たとえばこの『QED』に、それ以外の要素があるだろうか?
 探偵に動機はいらない。殺人事件さえ必要ないのではないかと思える。ならば、ミステリとは一体なんなんだ。
 そんなことが気になってしまうのは、私がこの本に、若干の面白味を感じてしまったためだ。
 本書を読んだ私の感想としては、概ねは「理解できない」といっていい。謎があって、謎解きがある。それだけではないのか。人間心理とかそんな難しいことをいう以前に、これを小説でやる意味というのはどこにあるのかというのが、まずわからない。
 だが、百人一首に隠された謎を解き明かしていく部分には面白味がないわけではなかったし、だからこそ、不精者の私が最後まで読んだ。
 謎そのものが面白いのならば、小説である必要がない。コリン・ウィルソンでも読んでいる方がよほど楽しめるだろう。だが、この本が小説でなかったら、百人一首によほどの関心がない限り、読んでいられないだろう。それならば、やはりミステリ小説としての意味はあるのか。
 私はミステリの内部にいない代わり、SFの内部にはいると思っている。たとえばSFでは、宇宙への憧憬に説明の必要はない。それは当然、作者にも読者にも存在するはずのものだからだ。
 しかし、実はそれは、SFにしかわからない感覚なのかもしれないではないか?
 ミステリにもきっと、そういうものがあるのだろう。そんなふうに、勝手な納得をしてみているわけなのである。


.コメント

1970/01/01 09:00

ワイヤレス・ハートチャイルド
 読書

ワイヤレス・ハートチャイルド
三雲岳人 徳間デュアル文庫

2001.12.17 てらしま

amazon
 喫茶店でバイトしながら大学に通う主人公。その喫茶店には美しいアンドロイドのウェイトレスがいるのだが、まあこれには「まほろさん」あたりをイメージすればいいのだろう(事実、作者の頭にもあれがあったのに違いない、と私は想像している)。だがもう少し、上品で落ちついた世界観ではある。
 近頃マンガや小説をも席巻している、美少女ゲームみたいな世界観を想像していたのだが、そうでもなくて安心(?)した。登場する「美少女」的キャラクターはアンドロイドのウェイトレスだけで、主人公が理不尽にモテモテ、ということでもない。
 公園や学校には清掃ロボットがいたりと、普通にロボットが存在している世界のようだ。ウェイトレスロボットはそのうちの一つで、はっきりとは語られていないが、どうやら販売されているらしい。普段は閑散として、客がほとんどいない喫茶店でも買うことができるのだから、すでにかなり普及している。
 しかし、このロボットたちがいかにして社会に受け入れられていったかとか二足歩行の困難さとか、そういう問題には触れず、唯一SF的な話題で登場したのは「フレーム問題」だけだった。つまり、ロボットというよりもその頭脳であるAIの方が主題なのだ。
 ほのぼのとした青春モノを目指した、という雰囲気は伝わってくる。そこにAIが登場するということは、主人公がAIが持つ純粋な精神に触れることで、自分の本当の気持ちに気づくとかなんとか、そういう効果を狙ったものなのだろう。
『2010年』のHAL9000のセリフ「私も夢を見ますか?」には感動を禁じ得なかった。それは、SFに登場するAIは人間が一から作り上げたものであり、俗世間の垢にまみれていない純粋な存在として描かれることが多いためだ。
 現実に登場したとき、AIが本当にそうした性質を持っているかどうかはわからない。しかしともかく、物語ではこういう使い方をされるし、そうしなければAIが登場する意味は半減してしまうだろう。
 そんなことを三雲岳人が考えたのかどうかはわからない。「ヒューゴー賞を穫りたい」と言ってしまった作家のこと、それくらいのことは計算したかもしれない。いかにも世俗的な、近年の流行におもねったかのような素材をあえて選んでみる、この挑戦の姿勢は買えるかも。


.コメント

FrontPageを



Copyright © 2001-2024 てらしま(terrasima @gmail.com)