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遊星ゲームズ
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1970/01/01 09:00

サムライ・レンズマン
 読書

サムライ・レンズマン
古橋秀之 徳間デュアル文庫

2001.12.21 てらしま

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 主人公は日系アルタイル人の「サムライ・レンズマン」。柔術を精神波に応用した「アルタイル柔術」を駆使し、向かい来る敵を次々に刀で斬り伏せる!
 読んでいて思ったのは、「俺はやっぱりレンズマンが好きだ」ということ。読んだのは中学生の頃で、学校の図書館には途中までしかなかったから、そこまでしか読んでいない。ファンと名乗るのはおこがましいのだが、やはりそういう時期に読んだものというのは私に少なからぬ影響を与えているようだ。
 本書はレンズマンに対する、というよりも翻訳SF全体に対するオマージュ、という趣の本になっている。
 文章はあえて翻訳っぽく、「彼は……なのだ」みたいな文体をあえて多用し、懐かしい雰囲気を醸し出すのに成功している。私のように前からそういうものばかり読んできた身にとっては、普通の日本語よりもむしろ心地よく、この文体だけでなんとなくわくわくしてしまうようなノスタルジーがある。きっと古橋秀之にとっても、レンズマンと翻訳文体は切り離せるものではなかったのだろう。
 それにしても、エーテルがあり光速が「遅い」といわれるような世界というのは、完全に想像の中にしか存在しない。さらに人間の精神波を増幅する「レンズ」とか、銀河の歴史を太古から見守っている種族だのとはったりをうち、そんな世界をよくもこれほど魅力的に構築したものだ、とは前から思っていた。なんといっても希有な小説なのである。
 そんなレンズマンを『ブラックロッド』(電撃文庫)の古橋秀之が書いた。
 考えてみれば『ブラックロッド』にあったけれんというのは、時代性もあって、本家E・E・スミスに比べると幾分スケールが控えめなものの、レンズマンの自由奔放さに通じるものがある。
 この自由な宇宙を応用しつつも、アレンジも忘れていない。主人公の「サムライ・レンズマン」や宿敵のガンマンなどは明確に古橋秀之自身のキャラクターだが、レンズマンの宇宙は鷹揚にこれを許容してしまっている。
 エンターテイメントに徹したところも功を奏していて、実際かなり楽しめた。
 意外なほど自然に、「これはレンズマンだ」と思って読める。しかしふと立ち止まってみると、そこは古橋ワールドであり、E・E・スミスの時代にはなかったはずの小説世界なのだ。この連続性の感覚が面白い。


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1970/01/01 09:00

マリア様がみてる シリーズ
 読書

マリア様がみてる シリーズ
今野緒雪 集英社 コバルト文庫

2002.1.24 てらしま

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 実はものすごく感化されやすい性格だ。
 一つの作品にはまりこむと、その世界のことしか考えられなくなってしまう。こういうときというのは、自転車をこいでいて目の前にあるものが見えていなかったりするので、非常に危険だ。
 こうなる条件というのに作品の善し悪しが関わっているのかどうかというのはわからない。ただ少しも見るところのない作品に対してはまりこんでしまうことはないだろうと思ってはいる。
 この『マリア様がみてる』シリーズで、久しぶりにそういう状態に陥った。
 読み慣れない少女小説である。私は男なのだから、照れもある。だから始めは「たかが少女小説」と読み飛ばしていた。それが次第に「まあ僕はわりと好きだけど」になり、「おもしろいかもしれない」になった。そもそも、一日1冊を超えるペースで立て続けに9冊を読んだのだから、今さら言い逃れをしても無駄なのではある。
 少女小説である。それも、なにやら怪しげな隠語で「百合系」と呼ばれる世界だ。もっとも、百合だろうが薔薇だろうが、作品のおもしろさを決める上では関係ないのだなとは、このシリーズを読み進むうちに感じた。
 私立リリアン女学園という女子高がある。カトリックのお嬢さま学校で、女子校だから女の子しかいない。
 学園には「姉妹(フランス語を使って「スール」と読む)」という制度がある。上級生が下級生を一人指名し、姉として指導する、という制度だ。
「山百合会」と呼ばれる生徒会の幹部3人はそれぞれ「紅薔薇さま」「黄薔薇さま」「白薔薇さま」と呼ばれている。ちなみにそれぞれの読み方は「ロサ・キネンシス」、「ロサ・フェテイダ」、「ロサ・ギガンティア」だ。彼女たちの妹は特別に「薔薇のつぼみ」と呼ばれる。基本的に、つぼみは次期「薔薇さま」というワケである。
 で、主人公の祐巳は、学園祭も近づいたある日、ひょんなことから憧れの「紅薔薇のつぼみ(ちなみに「ロサ・キネンシス・アン・プウトン」と読む)」、小笠原祥子さまの妹になる。その顛末が第1巻。
 その先はいろいろな事件が起こったり起こらなかったりで、一巻につき一月ずつ時間が進んでいく。第1巻が10月の学園祭で、第7巻目となる最新刊では年度が明けて4月。主人公は2年生になり、薔薇さまたちは卒業して、つぼみたちがその後を継いだことになる。
 基本的にはスラップスティック。だがふざけてばかりというわけでもない。おちゃらけていたかと思えばまじめな話をし、まじめかと思えばふざける。このリズムとバランスが、私の好みに合っていた。
 このあたりはそれこそ好み次第だと思う。たまたま私が、この作品を読む上で幸運な星のもとに生まれたということだろう。だからそうでない人もいるかもしれない。
 まあそのおかげで、私はこの世界に入りこむことができた。
 主にはキャラクターの感情や成長を中心とした話だ。だから、ストーリーや設定といった要素は引き立て役でしかない。
 女子校という極めて特殊な環境と、それを日常として暮らす少女たち。「姉妹」や「薔薇さま」という仰々しい用語は、この特殊さを再認識するための小道具でしかなく、少女たちはこのデフォルメされた世界の中、憧れや友情を感じながら生活するのである。
 そして、それをあたたかく見守る「マリアさま」。
 実際、学校というのはひどく特殊な環境なのだと思う。そこでしか着ない制服を着て、同じ学校の生徒同士としかコミュニケーションがない。数百人から、最近ではせいぜい千人程度の人間が形成する、極めて小さく密度の濃い文化。だからそこでは、恐ろしく異形の進化を遂げた、有袋類のような社会が形成されていて不思議ではないのだ。
 そう考えると、『マリア様がみてる』の世界観というのは少しも異常とは思えなくなってくる。
 実際、初めのうちこそ、この設定から導き出される話を中心にしていたものの、次第にキャラクター対キャラクター、人間対人間の物語へと比重が遷っていき、一つの大きな節目となる卒業式『いとしき歳月』ではもはや、お嬢様学校の特殊さは少しも意識せずに読んだ。たぶん、ここから先のシリーズは彼女たちキャラクターがいるだけで支えていけるだろう。
 つまりなにが言いたいかといえば、確かにこの舞台設定は面白いが、しかしこれだけで話をするには、学校というのはもともとが特殊すぎる。この作品の面白さは設定の特殊さのみにあるのではなく、むしろそれ以外の、キャラクターやそれを描写するテンポのよい文章や、(おそらく思想や)そういうものの中にあるわけなのだ。
 ところで。
 女性の書く作品というのは、男性のものとは依って立っている論理学が違うのではないかと思うことがある。
 基本的に人間関係に話の中心がある、ということがひとつ。これは女流小説の大きな特徴だろうと私は考えている。
 そのためなのかどうか、男性よりも容赦がない。「うわあ、そこまでやるんだ」というところまで主人公が追いつめられてしまうのが、(少女小説、少女マンガを含む)女流の特徴だ。
 その裏返しで、女性の描く作品世界では、幸せなときというのはとても幸せそうなのである。
 男の世界がいつもどこか満たされず、アンドロメダ星雲を目指して旅立ってしまいがちなのとは、対照的と言えなくもない。
 主人公の周囲で時間は否応なく流れ、次々と変化は襲ってくるのだが(この変化というのも男性の世界では積極的に描かれないことが多い)、その中に幸せを見いだして生きていく主人公、というのは、実は女性の専売特許ではないだろうか。「明日は明日の風が吹く」のである。
 だから私は、半ば妄想気味にこう思うことにしている。
 きっと女性というのは、幸せの意味というのを知っているのだ。たぶん我々男性よりもずっと確かに。だからこのような作品を書けるのだろう。
 もっとも、女流だったらすべてがいいのではない。きちんと幸せを描ける作家というのは、そう多くいるわけでもないはずだ。
 変化を描き、その中で生きる主人公を描き、そこに幸せを見いだす。きわめて特殊な「学園」という題材は、とりあえず、このテーマのためにはとてもいい。


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1970/01/01 09:00

ドライビング・レッスン
 読書

ドライビング・レッスン
エド・マクベイン 永井準訳 ソニーマガジンズ ヴィレッジブックス

2002.1.24 てらしま

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 あいかわらず(といってもしばらくエド・マクベインは読んでいなかったが)、現実のものにきわめて忠実と言われる警察の調査過程と、刑事、犯人の思いとが強く弱く絡みあう、見事な職人芸である。
 16歳の少女が、運転免許の教習中に女性を轢いて殺してしまう。同乗していた教官はなぜか泥酔状態。そして被害者はなんと、この教官の妻だった。
 殺人事件として始まった捜査。誰が、なぜ殺したのか。バツイチのベテラン女性刑事ケイティは、仕事のために離婚を選ばざるを得なかった自分の思いを抱えながら、一つ一つ真実に近づいていく。
 フーダニット、ハウダニットも重要だが、一番重要なのはホワイダニットだと私は思ってしまう。だから、まず刑事や犯人の人間模様が面白いエド・マクベインは好きなミステリー作家の一人なのである。
 ということは私は、ミステリーとしての部分はあまり読んでいないのかもな。
 ノヴェラということで、話は短くコンパクト。この文字数、行数、厚さで500円というのは高いと感じてしまうほどだ。
 しかしこれほど短かかったとは思えないほど、それぞれの登場人物たちが活き活きと思い返せる。ミステリーとしてはなんということもない、起伏も少ない話なのだが、読後になんとも味わい深い余韻が残った。


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1970/01/01 09:00

オフサイドはなぜ反則か
 読書

オフサイドはなぜ反則か
中村敏雄 平凡社ライブラリー

2002.1.30 てらしま

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 オフサイドはなぜ反則なのか。
 私の場合だが、少年時代に近所の公園でサッカーをやりながら、徐々にルールを憶えていったという時期がある。もちろん最初には「手を使ってはいけない」「ゴールにボールを入れたら1点」あたりを憶える。これはサッカーをサッカーたらしめている、サッカーのアイデンティティそのものといっていいルールなのであり、最初にこれがくるのは自然なことだろう。
 その後、ゴールキーパーは手を使っていいのだとか、スローインとか、そういうルールに発展していく。こうした過程というのは、男の子ならば誰でも経験してきたことに違いない。
 そしておそらく、その最後に憶えたルールが「オフサイド」だったのではないだろうか。
 サッカー(本書でとりあげられているのはフットボール全般だが)は本能的なスポーツだ。野生を残していると言っても過言ではないと思う。そのルールの中にあって唯一、人造物の香り漂うのが、オフサイドである。ゴールに向かわなければならないのに前にボールを蹴ってはいけない。不自然。不条理。
 子供心にこのルールを知ったとき。それまで持っていた幻想が崩され、純粋さが汚された気がした。「これが大人の世界か」と、苦い唾を吐き捨てたかもしれない。
 オフサイドは確かに不条理なルールだ。なんらかの人間の意図が介在しているとしか思えない。
 しかし、スポーツのルールはもともとすべて人間が作ったものなのだ。そこには当然、歴史があり意図があるはず。そうしたことが、少年ではなくなった今ならば理解できる。
 よく知られているように、フットボールはイギリスで生まれた。
 もともとは、一つの村が総出で行う祭りだった。村の北と南の端にゴールがあり、ボールを相手側のゴールに持っていった方が勝ち。ここでは手を使ってもいいし、馬や武器を使ってもよかった。
 一点先取である。だから、どちらかがゴールに辿り着いてしまったらその時点でゲームは終了。しかしこのフットボールは、ゲームであると同時に祭りだった。その間は無礼講が許される、呑んだり喰ったり皆で騒ぐことができる時間なのである。
 ゲームの終了は祭りの終了を意味した。すぐに終わってしまったら、それはつまらない。
 得点が入りづらくするオフサイドというルールの源流には、祭りの時間を長引かせようとする当時の民衆の意図が反映されているのだ、と本書は主張する。
 スポーツの背後には歴史があり、文化がある。そこから、フットボール全般にはオフサイドというルールが残された。それを自然と感じるか不条理と感じるかは、受けとる側の問題でしかなかった。
「サッカーは奇跡のスポーツだ」と村上龍が書いていた。サッカーは非常に得点の入りにくいスポーツである。だから、一つ一つの得点には奇跡の趣がある。
 それもそのはず。フットボールの源流は、神に捧げる祭りだったのだから。意識されていたか否かはともかく、「フットボール祭り」に参加する民衆は、どこかで神の恵みと奇跡を求めてはいなかっただろうか。
 ひとときでも日常を離れ、祭りに参加する民衆の思いは純粋なものだ。サッカーの純粋さは汚されてなどいない。むしろ過去の人々の思いを昇華し、偶然にしろ美しき「奇跡のスポーツ」となっている。
 少年時代の私に、これを教えたい。彼は本書をどう受けとるだろうか。


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1970/01/01 09:00

オウン・ゴール
 読書

オウン・ゴール
フィル・アンドリュース 玉木亨訳 角川文庫

2002.2.2 てらしま

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 無職で離婚手続き中。そんな冴えない中年男が主人公。プレミアリーグに所属する地元サッカークラブから、チームを陥れようとする陰謀の調査を依頼され、「レイモンド・チャンドラーの書いたものなら、買い物リストにいたるまで、すべて読破していた」彼は、憧れの私立探偵となって愛する地元クラブを救おうと奮闘する。
 作品の雰囲気を紹介するため、作品中から少々引用する。
『「アウェイの試合での得点は二倍に数えられるのよ」
 女性がブラウスのボタンを外してくれと催促する文句としては、これまで聞いたなかでいちばんわかりやすかった。
 二時間後、彼女のベッドのなかで、わたしはいった。「選手について、いろいろ教えてもらいたいっていったのを、おぼえているかい?」
「男って、みんなおなじね」と、キャロルがいった。「セックスが終わるとすぐに、唯一、ほんとうに関心がある話題に戻っていくんだから。サッカーに」』
 つまりそういう話なのである。
 それこそどのページを見ても、英国人一流のユーモアだかウィットだかに富んだ文句がちりばめられており、教養のない日本人の立場からはときどき(しばしば)理解しづらい。だがそれがだんだん小気味よく感じられ、楽しくなってくる。
 サッカークラブの背後に絡むどす黒い金の世界。これはいかにもありそうな話だ。実際にモデルがあるわけではないだろうが、「どこかで聞いたことのある」ような陰謀のためにチームは窮地に追いこまれていく。
 その一方で貧しい労働者階級の人々の生活も描かれ、地元サッカークラブを中心としたイングランドの空気が感じられた。
 テレビ業界が牛耳る金欲のるつぼと化した地元クラブを嘆きながらも、やはりファンでい続ける人々。いかにして儲けようかと常に策略を巡らす株主、代理人。その中心にいる「アイドル」選手たち。
 そうした人々に会い、話を聞きながら、徐々に真実に近づく一方、探偵として成長していく主人公。
 サッカーの実情と、そこに漂う生活臭やノスタルジー。そうしたものがうまく活用された、冗談交じりのハードボイルドだ。
 サッカーにまったく興味がないとどうなのかわからないのだが、楽しく読んだ。


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