2002.2.13 てらしま
あとがきを先に読み、少々複雑な作品の成立経緯を予断としていれてしまってから、読んだ。
梶原一騎が『あしたのジョー』に納得していなかったというのは有名な話。梶原一騎とちばてつやとの間には意見の相違があったらしく、『BSマンガ夜話』で、そのあたりがマンガの中にも顕れているのだということが詳しく説明されていて、これが実に説得力のある解説で面白かったのだが……。
原作者が納得していなかろうが、偶然の産物だったにせよ、『あしたのジョー』はあの形が理想だった。私にはそう思える。しかし梶原一騎は、どうしてもあきらめきれなかったようだ。
みんなが感動したのだから、それでいいじゃないか、というのは読者の意見。それでも納得できないというのは、物語作家の傲慢か理想か……。
とはいえ、矢吹丈の物語はもう描けない。だったらまったく新しいジョーを創りだしてやろう。そういう意図から、『ふたりのジョー』のシノプシスだけが書かれた。
だがこれは日の目を見ず、遺作として実弟である真樹日佐夫の手に渡る……。
とまあいろいろな経緯がある。らしい。
巡り巡って、結局この物語を書いたのは小説では処女作になる木村光一。処女作の瑞々しさと勢いがうまく作用して、ジョーの世界を彩って……くれればよかったのだが、これについては半分成功、半分失敗というところか。
登場人物たちがそれぞれにボクシングに関わっていく中で、主人公である二人のボクサー、結城譲と赤峰丈は運命に導かれるように出会い、交錯していく。
というようなストーリー。物語は、二人がボクサーとしてデビューする以前から始まり、その後の人生を追っていく。
登場人物たちの心情が、ときに面映ゆいほどストレートに語られる文体。そのへんがいかにも処女作っぽいのだが、それが、梶原一騎に一流の、あのひねくれた、本音を語らない世界観からは次元を異にしてしまっている感がある。
少々急ぎすぎの展開は、まあたぶん長い話だったんだろう原作のプロットをこなすためには仕方ないだろう。だが物語の最大の山場となるはずのボクシングシーンが奇妙に思えるほど少なかったり、登場人物が次々と長い台詞で自分の心情を吐露してしまうあたりなどは、ちょっといただけない部分。(梶原一騎的でもない)
また、物語が盛り上がって感極まってくると必ず泣く登場人物たちのワンパターンにも、ちょっと食傷気味だ。
しかし、ヘタにあしたのジョーの二次創作めいた作品を見せられるよりは、この方がよかったのだろうという気もする。
少なくとも前半、話が急ぎ始める前の、二人のデビュー戦までは面白かった。これは梶原一騎ではなく作者の力といえるだろう。きっとこの部分では、それほど原作を意識していなかったのに違いない。
総じて、『ふたりのジョー』という物語のためにこれが理想の姿だったかといえば、それには首を傾げざるをえない。
だが……。じゃあどうすりゃよかったの? と訊かれると答えられない気もする。どうやったって、ジョーの物語が『あしたのジョー』を超えることなど不可能だ。
2001.3.1 てらしま
読んでいてストレスはなかった。
つまり、一つ一つのシーンは面白いのだと思う。少なくとも、次に、次に、と読みたくなる文章のうまさはあった気がする。
それぞれの登場人物の特徴もちゃんと描かれる。シリーズになるということだから、次に引き渡されたところは大きいが、それ以外の部分はきっちりと解決する。ストーリー自体に破綻は見あたらず、信頼して、安心して読ませてくれる。
安心して読める、というのは重要ではないか。これほど大事なことも他にないという気もする。
だから、私はもちろん、この作品が嫌いなわけではない。
ストーリーはまあ、文庫のカバーを読んでもらうのがわかりやすいだろう。魔がうごめく平安京に、陰陽の術を使って活躍する人々の話である。鬼や精霊の類が、なんのてらいもなく普通に登場する、アクション小説というところである。
もちろん、こうした小説でもっとも重要なのはキャラクター、特に主人公だろう。
この点に関する限り、陰陽道を捨てて文筆の道を選んだ、しかし天才的な才能を持つ主人公というのはいい。お人好しだが、実は秘密の力がありそう、という部分も面白かった。脇役に関しては、ときどきイメージと違うことをしてしまう人がいたり、印象の薄い人がいたりもするのだが。
だが、一冊の読後感の一つとして、なぜか「誤魔化された」という感覚がある。
エピローグを読んで「あれ? そんな話だったの?」と思ってしまう。
主人公の心情に注目すればいいのか、悪役なのか、人間関係なのか。その焦点が、最後まで定まらない。だから、話が終わった読後になにを考えていいのか、わからないのである。
活劇として、楽しく読めたのは確かだ。エピソードの一つ一つは悪くない。しかし、その裏に通底するはずのテーマが一体どこにあるのか、明確にならない。
だから私は、読んだあとに戸惑ってしまった。
シリーズが続いているようである。だからこうしたところは、続きを読めば解消されるのかもしれない。
もしもそうなれば、いいシリーズになるだろう。今後に期待はするつもりでいる。
2002.3.12 てらしま
今さら、ゲームボーイアドバンス版をプレイした。いやまったく、本当に面白かった。
もちろん、竜を育てるRPGである。
主人公はHP150のまま成長せず竜だけが成長するとか、敵を倒したらそれを喰うとか、いろいろとヘンなシステムで話題になった。などはここに紹介する必要もない。
主人公はある日、長老の宝だった竜の卵を盗み、村を出る。だがそれは、実はダチョウの卵だった!
これがオープニング。システムだけでなく、ストーリーもだいぶヘンだ。
それから、次々と現れるお使いイベントに奔走させられることになるのは普通のRPGと同じである。
しかしここに、なぜか、どこか他のゲームとは違うプレイ感覚があった。
これは一体なんだろう? と考えているうち、自分がこの主人公にかなり感情移入をしていることに気づいた。実のところ、これまでにプレイした他のゲームに、これほど共感した主人公はいなかったと思う。
感情移入、であって、主人公=プレイヤーではないところが違う。ウィザードリィやドラクエ(初期)では、主人公は常に自分だった。ファイナルファンタジーなど、ストーリー性を重視とかなんとかがウリのゲームでは、主人公はストーリーを追うための存在で、感情移入の対象ではない(と思う)。
言ってみれば、この両者の中間的な位置に、プレイヤーの心情が放りこまれてしまうのがサンサーラ・ナーガというゲームだという気がする。
試しに、主人公が喋らないのがドラクエ、喋るのがFFとしてみると、サンサーラ・ナーガの主人公というのはちょっと微妙な位置にいることになる。基本的には喋らないのだが、ときどき、ストーリーの要所などで、ほんの一言だけ、喋るのである。
プレイヤーの意図を離れて喋る以上、彼女(男女を選べるのだが、私は女性を選択した)は私ではなさそうだ。だがそのくせ、ふだん口を開かないときは私自身であるかのように振る舞う。
かといって混乱するかといえばそんなこともないのである。
竜を育てるゲームといいながら、なかなか卵は孵らない。孵ってからも、託児所に預けて餌を運んでやらねばならず、仲間になるまでにはけっこうな時間がかかる。
「めんどくさい」と感じながらこれをプレイするわけなのだが、このとき同時に持った感想は「竜使いって大変だなあ」。
自分が大変なわけではないし、かといって他人ごとでもないのだが、プレイ中はこの感覚を自然に受け入れられていた。
この微妙なバランスの出所はもう、監督の押井守に求めるしかない。考えてみると、押井守の映画というのはずっと、そうしたものを求めているようにも思う。
常に一言足りないところでメッセージを終わらせ、冗談で笑って誤魔化してしまう。この方法論が意図するものは、「物語は観客のもの」とする信念ではないだろうか。
映画の方では、これがやっと結実したのが『Avalon』だったと私は思う。しかし、私は知らなかったのだが、実はコンピュータゲームで、すでに実現の一つの形を見せていたわけだ。
つまり、私のこのゲームに対する評価はそこまで高い。
だが、『Avalon』は多くの人の賛同を得ることができなかった。押井守にしては誤魔化しをひかえ、かなりの真っ向勝負をしていたとは思うのだが、それでも「名作」とされるには舌足らずだったようだ。
このサンサーラ・ナーガのストーリーにも、同じことがいえる。
私は素晴らしいと思ったが、そうでない人がいても不思議ではないし、責められないと思う。
そもそもである。人の宝物をかっぱらって竜使いになろうとする、アナーキズムにも似た主人公の行動に、動機はまったく与えられない。これはつまり、プレイヤーは、こんな彼女に初めから共感を覚える必要があるということ。社会的モラルをまっとうに備えた常識人には、なかなか難しいにちがいない。
もっともゲームのことだから、必ずしもストーリーに注目する必要はないのだし、竜を育てるのが楽しいという立場があってもいい。しかし私が感動したのは竜使いのストーリーと、それをプレイヤーのものとすべく作られたシステムだった。虚構と現実の狭間にあるゲームというものの性質について、少し考えてしまいたくなる体験だったかもしれない。
2002.3.20 てらしま
「いいかい、サッカーは、世界を舞台にくり広げられる命がけのマリオネットなのだ」
すべてが、この言葉の中に集約される。
主人公佐藤は、外国のサッカー雑誌を取り寄せて読みふけった少年時代から大学を経て、読売クラブに就職した。語学が堪能だった佐藤はチームの外国人選手や監督の通訳をしながら、強化スタッフのような仕事もするようになっていく。
草創期の、まだJリーグもできていない頃から話が始まるのである。松木安太郎やジョージ与那城が現役だったというのだから、少し目が眩みそうになる。
佐藤はそれから、チームの重要なスタッフとなって様々な人間と出会い、日本サッカーのプロ化を目の当たりにし、読売ヴェルディの発足と黄金時代を間近で体験していく。
冒頭に挙げたのは、プロ化前夜に読売クラブのコーチとして選手たちを指導していた、元ブラジル代表ジノ・サニの言葉。「神様」ペレがさらに神様と崇めるこの人の言葉は、四半世紀にわたる佐藤の物語に、ひとつの大きな山場となる瞬間に登場する。
サッカーを動かしているのは、スタッフと、GMやマネージャーだ。そう考えようとする誇りがある。そしてその向こうにあるもの……彼らでさえ、さらに巨大な操り糸に動かされているかもしれないという事実……までも、この「神様の神様」は示唆していたように思える。
そうやって、日本のサッカーは様々な人間の意志をわずかずつ反映しながら膨れあがっていったという、これはそういう話なのだろう。
行動主義というか、事実のみを淡々と語る語り口ながら、ノンフィクションであるにもかかわらず、あまりに面白い。「よくできている」などと、的外れな感想をも抱いてしまう。取材対象の人生が面白いのか、エピソードを語る順番と分量を調整する構成の妙なのか。おそらくはその両方だろう。
運命の糸という言葉を使いたくなる、出会いと別れが繰り返される。チームディレクターとして必死に奔走するが、うまくいくときもあればそうでないときもある。サッカーに翻弄される佐藤たちの人生そのものが、複雑で巨大なマリオネットの一部だ。
「跳ぼう」
そう決意して、佐藤は読売ヴェルディを退団し、当時低迷を極めていた浦和レッズに新天地を求める。その胸には、ジノ・サニに贈られた言葉がある。
レッズで最下位からの飛躍に尽力した後、一度はヴェルディに戻るが、ラモスらが活躍していた黄金期の面影はもう残っていなかった。
読者としては、私はヴェルディの黄金期を知るほど昔から、サッカーが好きだったわけではない。私が知っているヴェルディというのは、過去の栄光とノスタルジーに浸りながら、チーム力そのものの強化という基本を忘れた名門、という現在だけ。この姿を見れば、佐藤でなくとも失望するだろう。
しかしこのチームには私の知らない黄金時代があって、そのころの遺産が現在の日本サッカーに礎となっていったのもまた確かなことなのだ。走り続けた後、一線を退いた形となった佐藤は果たして、過去への郷愁に思いを馳せるだろうか。そのあたりのことは、本書ではあまりはっきりと語られない。
佐藤たちが奮闘した時代の上に、現在がある。ただでさえ人間の動きが激しいスポーツの世界にあって、彼らが生きたのはさらに激動の時代だった。
そうした時代のあらゆるものをからめとって、今年、日本にワールドカップがやってくる。それが終わったとき、この物語にはもう一つくらい、語られるべきエピソードが追加されるのではないかと思う。
2002.3.25 てらしま
これはたぶん私の性癖なので理由はわからないのだが、お茶を飲む場面が出てくると途端にその作品が面白そうに見えてくる。
誰かがお茶を煎れて、お茶菓子などを摘みながら仲間たちと歓談する。サボテンの生えた荒野のまん中で、たき火を囲んでコーヒーでもいいし、喫茶店でパフェをつつきながらでもいいわけだが、とにかくなぜか、そんなシーンに弱い。
映画で、ショーン・コネりーの顔が出てくるだけで画面が引き締まる気がするというのと、似たようなものだろうか。サッカーなら、ロベルト・バッジォがボールを持っただけでなにかを期待してしまう、というようなものである。そういうファンタジーアに似たものを、「お茶を飲む場面」に感じてしまうのである。
この小説にも、そうした場面が出てくる。
幼なじみの超美形騎士サマに振り向いてほしい主人公は、「キレイになるっ!」ために魔法美容師のもとにおしかけ、弟子になる。そういう話なのだが、この師匠がなぜか十歳の眼鏡っ娘にしか見えない容姿をしていて、十時と三時にお茶を飲むのが習慣なのである。主人公は毎日、お茶を煎れ、スコーンを焼いてこの相手をしなければならないのだ。
これがなかったら、私はこの本を読んだかどうか……。
あらすじを見てしまうといかにもアレな感じなのだが、私のどーでもいいフェティシズムのことはおいても、小説自体はとても面白かった。
なにより、テンポのいい文章がいい。 文字の大きさや太さもしょっちゅうかわるし、なんというか、変なこだわりは感じられない文章だ。
基本的に全編が、元気な十六歳の女の子である主人公を追う視点で語られる。言わずもがなの心理描写などはあまりなく、小気味よく話が進んでいくので、ストレスなくページをめくれる。
主人公は幼なじみに振り向いてもらいたいという一心で、本当にそれしか考えていない。ところが彼の方はどうも感情が希薄な人物で、想いはなかなか通じない。師匠はどうやら本当に凄い魔法使いだけど、守銭奴で……。
と、主人公をとりまく状況も、すべてがわかりやすい。
ふつーに魔法があり、魔法使いは街にいる。そういう世界なのだが、話に登場するのはなぜか、「魔法美容師」と呼ばれる魔法使いばかり。世界観はあまり細部までは語られず、どこか大ざっぱなまま。しかしそれで充分だし、あまりまじめにやられても、こちらが白けてしまうだろう。
気楽で、テンポよく、わかりやすい。それが命。エンターテイメントなのだから、こんなに大事なこともないと思うのである。そこにもう一つ、自分にヒットするものがあればもっと楽しめる。私の場合はそれが、お茶のシーンだったと。