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遊星ゲームズ
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1970/01/01 09:00

マリア様がみてる レイニーブルー
 読書

マリア様がみてる レイニーブルー
今野緒雪 集英社 コバルト文庫

2002.3.30 てらしま

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 やっぱりおもしれえなあ、とは素直に思ったのである。
 ただ、ちょっと不安なところもある。「この話、前に見たことあるぞ」と思ってしまったのだ。
 考えてみれば3年生が卒業して、このシリーズはキャラクターが減ったのである。基本的にキャラクター同士の人間関係の物語である以上、そろそろワンパターン気味になってしまっても不思議はない。だが、それとともに彼女たちも成長しているに違いないと思っていた読者としては……。
 シリーズの設定については、もう一度説明するのが面倒なので、前回までのレビューマリア様がみてるを見てください。
 前回から「紅薔薇の妹」となった主人公、祐巳だったが、ちかごろ、気分は晴れない。最近、「紅薔薇」祥子さまがつれないのだ。折しも季節は梅雨。陰気な天気が続いている……。
 今回の季節は梅雨。したがってこういう話になる。他にも、白と黄の姉妹の話がそれぞれある。
 意外だったのは。そろそろ主人公の妹となるキャラクターが登場するかと思っていたら、この予想が覆されたのだ。登場するのは、これまでの人たちだけ。学年が上がって新しい段階を迎えた、姉妹たちの関係というのがこの巻のテーマになっている。
 キャラクターの配置が変わったのだから、当然展開は変わってくる。しかし、主人公の悩みが以前とあまり変わりばえしないところが、少し残念ではあった。
 今回、気づいたことがある。実はこのシリーズ、百合版『めぞん一刻』なのである。
 もちろん、主人公は浪人生ではなく女子高校生だし、設定はほとんど似ていないのだが、要するにあれと同じ、ひたすらすれちがう人間関係の話なのだ。ここであえて『めぞん一刻』を挙げたのは、時間の流れと共に季節が移り変わり、その折々の季節感を題材として物語に絡めていくという手法が共通していたからである。
 黄金のワンパターン、というのがこれに加わりそうなのである。
 ただし、このシリーズの特徴はもちろん、「百合系」であること。主人公の憧れの人は同性なのだし、しかも彼女たちはレズビアンではない。したがって『めぞん』のようなゴールインはありえない。
 それに対し、一つの回答はシリーズの中にすでに示されている。憧れの人の、さらに憧れの人であった3年生たちが退場するときだ。雲の上の存在だった彼女たちは普通の少女になり、ノーマルな恋愛をして、あるいは未来に夢を抱いて卒業していく。
 おそらくは、たぶん、ずっと先のシリーズ最終回もその形を繰り返すことになるのだろう。
 というより、学園モノのエンディングというのはそういう形しかありえないかもしれないと私は思っているのだが、あまりそう思いこんでしまっては読む楽しみがなくなってしまう。
 考えてみれば、話の中ではまだ5月である。
 この姉妹関係は、あと10ヶ月続くのだ。これまでは1巻で1ヶ月ずつ時間が進んだから、それでいくと残りはまだ10巻分もある。そこで彼女たちはどんな過程をたどり、どんな答えにたどり着くのか。先は長い。
 提示されたまま解決されていない問題もあることだし、それを思えば、多少はワンパターンでも続きへの楽しみは減ってはいない。
 それに、まあ、私は充分に楽しんで読んでいる。
 ところで、少し、唐突な話になるが。
 一ヶ月延びた発売日が開幕戦の日で、そのためにどうも、この主人公を西武ライオンズのエース、松坂に重ねてしまったのである。
 誰よりも目の前の勝負にのめり込み、そしてひどく脆い。熱くなるあまり突然乱れる癖は、最多勝を重ねても治らない。そんないろいろなところが、似ている気がするのである。
 松坂は今回で3年連続開幕投手となったが、過去の2回はいずれも負けている。気合いが空回りして、力んでしまうのだ。
 試合は、ロッテの先発ミンチーとの投げ合いになった。いずれも、一歩も譲らない好勝負。そんな中、西武は4番カブレラの内野安打からヒットエンドランでチャンスを広げ、タイムリーヒットで先制点を入れる。松坂を勝たせてやりたい、松坂で勝ちたい、西武の思いが詰まったような攻撃だった。
 その後追加点もあり、3対0で迎えた9回表。しかし、やはりというか、松坂は引きこまれるようにヒットを打たれ、ロッテの代打攻勢によってたちまちのうちに2点をとられてしまったのである。
 試合を見ながら、ついでに、サッカーの元イタリア代表ロベルト・バッジョの歩みをまとめたビデオを思い出した。その中に、こんな場面がある。インタビュアーがイタリアの街で、通行人にこんな質問をする。「ロベルト・バッジョは神さまだと思いますか?」 例えばペレや、マラドーナのような?
 訊かれた人は誰もが首を振る。そしてこう答えるのである。「いいや。あれほど人間的な男を、見たことがないよ」
 ワールドカップの決勝でPKを外した男に対し、これほど愛のある言葉はない。
 1点差までつめよられたが、しかしそこから、松坂は踏んばった。ゲームセット。開幕の松坂、3年目の勝利だ。
 私は、松坂に勝ってほしかった。だからこの試合は楽しんだし、結果には喜んだのである。


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1970/01/01 09:00

天使のベースボール
 読書

天使のベースボール
野村美月 ファミ通文庫

2002.4.15 てらしま

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 箱入り娘だった主人公は、父親の会社のための政略結婚になんの疑問も持っていなかった。だがその見合いの席で、相手の男に「自主性のない女性はオレの好みではない」と断られてしまう。そしてその男は、地位を捨ててプロ野球選手になってしまった。
 父親がリストラされてしまった主人公は男子校の教師になってしまい、そこで野球部の顧問にさせられてしまう。
 ここまで紹介してやっと、本筋、野球の話になるわけである。とはいっても展開は速く小気味よく進むので、飽きてしまったりはしない。
 高校の野球部だから、これは高校野球の話なのである。しかし……。
 作中にひとつ、試合の場面がある。だがそれは別に甲子園の決勝でもないし、なにしろ主人公は顧問なのだから、青春がどうとかいう話にもならないのである。
 そこが、いいのだ。
「高校野球」なんて言葉では、誤解がある。むしろこれは、「草野球小説」といった方が近い。
 だが考えてみれば、スポーツはティーンエイジャーだけのものではないのだし、日本一を賭けたビッグゲームにしか価値がないということでもない。
 ともすれば私たちは、常にトップクラスの部分を中心にものごとを考えてしまう。サッカーでは日本代表、野球ならプロ野球の両リーグと、甲子園。これを書いている今だって、私はファミレスにいて、放映されている衛星放送でメジャーリーグの野茂をみている。
 しかしそれだけがスポーツの価値だとしたら、あまりに悲しい。
 そんなことを、この作品では草野球を描くことで思い返させてくれるのである。
 なにしろ主人公は運動などしたこともなくて、フライも捕れないお嬢様。野球部には部員が8人しかおらず、今度の試合は初めての試合だ。
 いまファミレスの大型モニターに展開されているダイナミックでシステマティックなベースボールに比べてしまうと、これはいったいなんという世界だろう。草野球といわずしてなんというのか。
 だが、草野球だって楽しいではないか。
 こんな試合にも緊迫感を演出し、楽しさを描くことができてしまうところは、まちがいなくこの作家、野村美月の力量である。
 甲子園やプロ野球と比べれば、レベルは低い。だがそんな野球にだって、スポーツの喜びはある。そういいきってみせることは、実はそれほど簡単ではないという気がするのだ。ひとつの才能、あるいは努力の成果が、この中にはあるはずだ。
 考えるほどにこの人、いま、私の注目の作家になりつつある。
 新人ではあるが、始めの数ページを読んだだけでぐぐっと惹きつけられてしまう文章は、本当に稀有なものだ。いってみればスケールの小さな話の中に、物語の楽しみを組み入れてしまうことができるセンスというのも、貴重ではないか。
 ただ少し、一冊全体の完成度という面では難点がある。前作『フォーマイダーリン!』は短編集のような形式だったのだが、あれのまとまりをみると、この人はきっと、得意な尺がまだ短いのだろう。
 しかしいずれ、長編の長さに馴れてきたら、きっとすごいものを書くに違いない。そんな気がするのだ。


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1970/01/01 09:00

ジャグラー
 読書

ジャグラー
山田正紀 講談社デュアル文庫

2002.4.28 てらしま

 新作ではなく、91年の作品の復刊である。
 冒頭、数ページも読むとスパイダーマンが死ぬ。そういえば映画公開直前だし、タイムリーなのかも。
 続いてスーパーマン、バットマンと、おなじみのスーパーヒーローたちが立て続けに死んでいく、ショッキングな場面が、オープニングなのである。
 思い出されるのは、ヒーローたちが抱える矛盾とノスタルジーを描き、彼らもまた人間であることを痛々しいまでに示してみせた傑作『ウォッチメン』だろうか。
 実際、テーマ的には近い部分もあるのだが、そうでない部分も多く、はっきりと「ジャグラー」イコール「ロールシャッハ」と断言してしまうことはできなそうではある。
 もちろんジャグラーは本作の主人公であるスーパーヒーロー。ロールシャッハとは『ウォッチメン』の主人公の名である。
 あらすじというか、設定を紹介してしまおう。
 コンピュータの演算能力には量子的な限界点があった。しかしこれは、実は霊的な現象であることが解明されてしまった。世界中の霊媒師が集められ、彼らの力によって製造される「量子効果コンピュータ」。これは霊に干渉できる力を持ち……。
 もういいだろうか。いや、これではまだ、アメコミ的原色世界の説明がまだだ。
 量子効果コンピュータを使えば、あの世を覗くことが可能になる。しかし、あの世からの情報は断片的で、それを人間の目に理解させるためには、コンピュータを使って映像を再構成してやる必要がある。結果、色も形もすべてが誇張されることになり……。
 あの世はアメコミのような原色俗悪世界なのである。
 まあ他にもいろいろあって、東京にあの世への扉が開いていたりもする。
 量子コンピュータというのは、万能の小道具の一つだ。効能としては「四次元ポケット」とさして変わらないのではないだろうか。これは山田正紀を読んでいる誰もが感じることに違いない。
 さて、主人公は「ジャグラー」と呼ばれているスーパーヒーロー。「五使徒」と呼ばれる悪役たちを一章に一人ずつ、次々と倒していくという構成は『地球・精神分析記録』あたりを思い起こさせるが、設定はもっと複雑で多層的だ。
 その分、まとまりに欠けるきらいはある。アクションなのかSFなのか、ナンセンスなのかオマージュなのか青春なのかと、読んでいるこちらがいろいろ考えてしまう。そのあたりが、とても山田正紀っぽいといえばまあそうなのだが。
 らしいといってしまえばこれほどらしい作品もない。パロディでありアクションであり、ナンセンスでありながらなおかつ、最後にはどうしようもなくSF。
 だから少なくとも、山田正紀のファンならば楽しいだろう。なにを隠そう、私も楽しかった。
 題材が題材だけに、アメコミ好きに薦めやすい本だ。とりあえず手に取れば、にやにや笑いながら読み始めてくれることだろう。でもそうやって読み進めていくと、後半は少し戸惑ってしまうのではないか(どう読んでも戸惑う気もするが)。そのあたりが、惜しいといえば惜しい。


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1970/01/01 09:00

スパイダーマン(映画)
 読書

スパイダーマン(映画)
サム・ライミ監督 コロンビアピクチャーズ

2002.5.20 てらしま

「大いなる力には大いなる責任がともなう」
 たしかにこれはスパイダーマンというヒーローのアイデンティティそのものたる言葉なのであり、なくてはならない要素だ。そのことを、サム・ライミ監督は充分に理解していた。たぶんそれが、少しだけ過剰だったのだろう。
 スパイダーマンの独特な、ダイナミックな身体の動きはかなり再現されていて、私の見た範囲ではゲーム『マーヴルスーパーヒーローズ』に次ぐ出来なのではないだろうか。実写でこれを実現したというのは、確かにすごいのである。もっとも、半分以上はCGの力によるものだが。
 したがって、アクションシーンは本当によかった。特に、次々とビルに糸をかけて飛び移っていく場面はかなり、癖になる。あれだけでも、「何度でも見たい」と本気で思わせる魅力を持っている。
 だから、この魅力をもっと全面に押し出していてほしかったのだ。
 放射能グモ(映画では遺伝子改造クモ)に噛まれてスーパーパワーを身につけたピーター・パーカーは、叔父の死から「大いなる責任」に気づく。あのなれそめの物語というのは、私自身もものすごく好きなところなのだが、映画にするには少々、地味だ。ここには宿敵も絡んでこないのだから、思い切って割愛する選択だってあったはずではないのか。
 だがそこは、長年のファンだというサム・ライミ監督。スパイダーマンの魅力を表現するためには、原作を踏襲する以外の方法を思いつけなかったのだろう。ファン(オタクといったっていいが)とは悲しい生き物なのである。
 しかしやはり、このオープニングストーリーの存在感というのは圧倒的で、この映画でもやはり、輝きを失ってはいなかった。先の展開なんか全部わかっているにも関わらず(このあたりは原作を知っていると損だと思うところだが)、不覚にも涙しそうになった。
 それが、不幸だった。
 原作でもそうだったが、ライバルが現れてスパイダーマンと戦う話がいくら繰り返されても、第一話のインパクトを超えられない。それほど読んでいるわけではないのであまりいえないが、私の場合、偶然古本屋で手に入れた光文社版の第一巻でこの第一話を読み、満足してしまったというのが本音だ。こんなにおもしろい漫画はない、とさえ、そのときは思ったわけだが……。
 要するに、グリーンゴブリンなのである。あの宿敵が、このオープニングを超えられるだけのポテンシャルを持っているかといえばそれは「否」。映画としては、しりすぼみになっていかざるをえない。
 少し、私の好みの話をさせていただこう。
 格闘家同士の試合では、格下が格上の周囲を動き回る。そんなことをいったのは『グラップラー刃牙』の板垣恵介だが、この言でいえば、ダイナミックに跳び回るスパイダーマンの魅力とは、常に「格下」であることだろう。
 つまりスパイダーマンがもっとも光り輝くのは、どっしりと構えた「格上」のライバルと戦うときのはず。スパイダーマンと戦った敵の中で、私が好きなのはベノムやキングピン。それは、こいつらがあまりアクティブに飛び回らないからなのである。
 しかし、グリーンゴブリンは飛ぶ敵の代表のような奴だ。私の好みとしては、嫌なタイプなのである。
 だったらもう、いっそのことアクションなどは省き、青春映画としてもっと練られたものになっていれば納得できたのに。
 ……
 私のこれだって、原作ファンのはしくれの意見である。純粋にアクション映画『スパイダーマン』を見た感想となっているかどうかについては、自信がない。
 ファンの性、オタクの性が、こんなところにも現れてしまう。監督もファン、観客もファン。そのために映画が純粋に楽しまれないとしたら、それはこれほどのファンを獲得してしまったスパイダーマン自身の罪だ。「大いなる力」とはこのことなのかもしれない。


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1970/01/01 09:00

微睡みのセフィロト
 読書

微睡みのセフィロト
冲方丁 徳間デュアル文庫

2002.5.31 てらしま

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 第四次元感応者(フォース・ディメンショナー)と呼ばれるすごい超能力者がたくさんいる世界。その中でも特にすごい力を持つ少女ラファエルと身体中サイボーグの巨漢刑事パットは、ある事件の真相を追うためコンビを組む。
『第四次元』という言葉を、小説の中で久しぶりに読んだという気がする。アインシュタインの理論が一般に広く知られるようになる以前は、てきとーにこの言葉を使っていればSFになった(たぶん)。たとえば『果てしなき流れの果に』(小松左京)の「四次元砂時計」とか。当時はそうでもなかったのだろうが、いま新たに読んでしまうと、なんとも時代錯誤の感がある。
 なにが変わったのかとも思うが、強いていえば、読者の知識が増えてしまったのだろうなあ。
 この作品では、なんとも自然に「四次元」といってしまう。このあたりに、抵抗のある人もいるだろうけれど。
 感応者(フォース)と感覚者(サード)との間には確執があるらしく、その理由については読み進むうちおいおい語られていくのだが、なにしろ主人公たちはフォースとサードのコンビなわけで、このへんに絡む世界観も物語の重要な骨組みになっていく。
 ところが、あんた……。
 少し納得がいかないところがあるのだけど、まあやめておこう。
 テンポがいいとはいい難いが、代わりに密度の濃い文章だ。『ニューロマンサー』を代表とする、そっち系の雰囲気をもっている。ごちゃごちゃといろいろな要素が語られていく感じは、その作品がよくできていれば、だんだんと気持ちよくなってくるものだ。
 第四次元のこともそうだが、SF的な整合性などはほとんど考慮されていない。フォースの能力についてはもともと説明もないし、きっと設定もされていないだろう。むしろ、そんなことは問題ではないし、まあ、これだけめちゃくちゃをやってしまっては無理だろう。
 それよりもキャラクターの活躍や心理を描くことに重点が置かれて、というよりそこにしか重点はあり得なくなっていくわけだが、なぜアメコミヒーローがソープオペラをやりたがるのか、理由がわかってくるような。
 帯にあるように「本格SF」は期待しない方がいいが、わりとすぐに気楽に読めるSFアクションとしてはいいのではないだろうか。
微睡みのセフィロト徳間デュアル文庫


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