2003.7.27 てらしま
要するにバイオレンスジャックなんだが、関東を大地震が襲った未来世界である。
《ホームレス》と呼ばれる人々は日本の国民であると認められていない。彼らには基本的人権もない。日本は彼らを切り捨てることで震災後の復興を成し遂げてきた、というのがこの世界の理屈だ。
で、人間としての扱いさえされないホームレスの世界を支配する戦闘集団が《女子高生》である。おいおい。
現実の世界でも、相手が誰でも友だちと同じように話す女子高生たちには驚かされてしまう。いま日本に、彼女たちほど屈託なく街をわがもの顔で歩く連中はいない。「強い」といえば確かに強い。
それをちょっとSFにしてやると、女子高生は無法地帯の支配者になってしまったのだ。そんな《女子高生》集団の中でも最大のグループのリーダーが主人公。名前はアムロ。バカ小説である。
この世界では女子高生とともにカラスの群がかなりの勢力を誇っていたりもする。「いまの日本を風刺した」とか、言ってみたりすればいいのだろうか。
関東に起こった大地震というネタは、始めにも書いたが『バイオレンスジャック』そのまま。《女子高生》やカラスといった凶暴な生物たちがなわばり争いを繰り広げる世界は『銀河-流れ星銀-』あたりを彷彿とさせる。そういった昔の少年マンガの雰囲気で、全編が貫かれている。
番長でも犬でも天使でも、プロレスラーでもかまわない。とにかく戦うのである。そうした思想に基づいた一連の少年マンガ群というのがあったと思う。この本では、その主人公が《女子高生》なのだ。
話の作りもまるっきり同じ。世界設定に緻密さは求めず、次々と現れる危機に翻弄されるうちに勢いで話を進めてしまう。
後半になると本当に立て続けにアクションシーンが現れ、なにか巨大な敵がいたりこの世界の秘密が語られたりしていたようなのだが、そんなことはどうでもよくなってくる。あとで考えてみるとだいぶ疑問が残っていたりもするのだが、読み終わった瞬間には特に気にならなかった。
もっとも、あとになって考えさせてしまった分だけ、まだ勢いが足りなかったのかもしれない。
つまり懐かしい少年マンガの、戦いの世界を再現した小説であって、風刺的な要素はあまり関係なかった。そのわりに『《女子高生》が、オジサンとの約束を守るわけないじゃないか』なんて一文が、抗争相手の一つであるヤクザのモノローグの中にあったりして、中途半端なところがある。いきなり知らない人の視点に変わってしまう語り口も、話にはあまり関係ない場面が多く、読んでいるこちらの気分が醒めてしまってよくない。しかしそういう欠点はみんな、少年マンガもまた抱えていたものであって、要は面白ければすべて許されてしまうものなのである。果たしてこの本。すべてとはいわないが、ある程度の穴はBダッシュで駆け抜けられるくらいの力はあった。
2003.8.31 てらしま
既刊の評
Kishin-姫神-Ⅰ・Ⅱ
Kishin-姫神-Ⅲ
3巻から顕著に現れてきたことなのだが、キャラクターがみんな「自分らしくない」行動をとるのである。しかも、みんなそれを自覚している。まあ重要なところでそれをやるなら見せ場にもなるんだろうが、そればっかりやられてしまうと、嫌いな言葉だが、キャラが立たない。
登場人物が多いこともあり、そのあたりが最大の弱点だと思うわけだが、つまりキャラクターものと思わなければわりと好きな話なのだ。
日巫女が作った神の世を人の手に渡すという話である。それを、日本にやっと起こり始めた国を統一して大和国を起こすという、まあ歴史になぞらえて見せる。主人公の台与(トヤ)は人として最初の王になるべき存在というわけで、史料に残る事実に精神世界の出来事をなぞらえるやりかたは、読者として嫌いではない。
そういう方面の描写は、シリーズを通してけっこう面白かった。存在するのかどうか現代人の我々には怪しいが、神代に生きる当時の人々には現実だったという位置づけになる神々の超能力だが、そういうものにもわりと存在感があり、まあありえないんだけどありそうと思わせる一線の中を越えていない。
神々とはいうが、彼らはけっきょく人として描かれている。それこそがこのシリーズの要点だ。
でも神さまなので、登場人物たちは山海の自然とつながっていかなければならない。古代日本の国土風景は登場人物が立つ場所というだけではなく、彼らそのものでもなければならない。おそらく、そういうあいまいさを目指した小説だったはずである。
だから、キャラクターの行動は物語と切り離して考えられるものではない。そのキャラクターが立っていないというのは致命的といえる。特にね、最終巻で重要な役割を演ずる多紀理などはいけない。神さまにはとても見えないふつーの女性だし、感情移入が一番できない人だった。
そういう登場人物が多く登場してしまうわけで、つまり弱点が大きいわけで、文句なく面白いということはちょっとできないんだが「古事記の世界を題材とした伝奇ファンタジー」というものの魅力に支えられているという感じだろうか。けっきょく私はこの言葉に引っぱられて5冊買ったわけだし。
最後まで、読む価値がないと思わせてしまうラインは越えなかった。ここは評価すべき点。たくさんの登場人物を出しながら、曖昧な精神世界と史実を重ねて見せなければならない、もとより難しいスタイルへの挑戦である。これを成し遂げてしまえる作家というのは、私は何人も思いつけない。
正確にスタージョンの法則(世の作品の9割はクズである)をなぞっていると思われるヤングアダルト文庫の世界では、「当たり」に分類していい。それはたしかだよ、うん。けっきょく私は楽しんだし、神代と人の世の狭間という世界は魅力的だった。描かれない部分を想像で補うことはできるし、それをさせるくらいの喚起力はあったわけだ。
2003.9.2 てらしま
プロレスのスター選手が試合中に死亡。強くなりたいと一心に願う新人レスラーが犯人を捜す話。
もちろん私はミステリーよりはプロレスの方に興味があるわけで、プロレスの話を中心に据えてくれなければ納得しないところだ。探偵をプロレスラーに置き換えただけの小説なら、わざわざ江戸川乱歩賞を受賞し「格闘技ミステリー」などと銘打ってしまう必要はない。プロレスラーの肉体を持った役者がいないから火曜サスペンスでは無理だろうが、殺人事件があって謎がある、それだけの物語に魅力を感じることは、私にはできないのだ。
さて『マッチメイク』はプロレス小説だった。けっこうおすすめなのである。
なにしろ主人公は「ケーフェイ」という言葉の意味も知らない新人レスラー。プロレスへの幻想が頭を支配している。そんな主人公が、ミスター高橋が暴いたようなプロレスの真の姿を知らされていく。その中で、最強を目指すプロレスラーとしてどんな人生を選んでいくのかというのが本筋である。
ミステリーとしての謎解きの部分は拍子抜けするほどどうってことない。これでよく謎になったなというくらいのものだが、犯人の動機やそれと関わる主人公の心象は納得のいくもので、おもしろかった。
まあ、今どきプレスラーを目指す人間がプロレスのファンタジーを信じていたというあたりはちょっとどうかと思ったが、それをいうとこの話が成立しない。2,30年前の物語なのだと考えて納得しようと思っても、携帯電話が平気で出てきたりするし。プロレスはショーだと始めから知っている、私のような年代の読者が読むべきではなかったかもしれない。江戸川乱歩賞を読む人たちの年代が何歳くらいなのかは知らないけど、選考委員の年代は知れてくるような。
主人公の周囲にはいろいろな人間が登場する。ちょっと多すぎるくらいの登場人物がいるのだが、誰が誰だかわからなくなるようなことはなく、それぞれに魅力がある。その彼らが、一つ一つ主人公のプロレス人生に影響を与えていく。この過程にも無理がないし、魅力がある。
ただこの部分は、ミステリーとしては微妙だ。謎解きに関係ない人間関係が多く、世界が開いているのだ。謎を解いた、殺人事件を解決したカタルシスはまったく希薄で、焦点は主人公の成長のほうに向けられている。
中盤、プロレスのケーフェイの世界を知らされた主人公は「門番」の道を選び、トレーニングを始める。燃える展開である。この展開がすべてといっていい。
例えばトレーニングや試合の描写でいえば、先人の格闘技小説たちに遠く及ばない。しかし、プロレスの世界の酸いも甘いもこれほど正面から受けとめた姿勢は独特のものだ。ノンフィクションではこういう感覚のものを読んだこともあるが、やはり小説で改めてやられると気分がいいのである。バイオレンス小説の一派ではなく、推理小説として書かれたことがよかったのだろう。
小説として完成度の低い部分を指摘すればあるだろう。しかし主人公の一人称で語られるプロレスの世界はあくまで個人の思いに収束し、そのためにかえってプロレスに対する客観的な、だが愛情のこもった視線を崩さず、ノンフィクションに近い立場を獲得している。「最強とはなにか?」などの禅問答をはじめたりもしない。なかなかにさわやかなのである。
2003.10.2 てらしま
近ごろ、日本のSF関連作品の中に富士山型をした宇宙船を見かけたことはないだろうか。例えば、アニメ『宇宙のステルヴィア』に登場した宇宙往還旅客機「フジヤマ」である。
最初の発表がSF大会。そのときは「まだ秘密」ということだったのだが、その講演が大変に興味深かったこともあり、SF関係の小説や、コミック、アニメの世界に大きな影響を与えたプロジェクトである。それが、本書の題材「ふじ」構想だ。
まずは公式ページを見てください。これも非常に面白い。
なんかいいのである。熱意が感じられるし、日本人としてはやはり「アメリカのマネではない」というところには魅力を感じてしまう。いかにも日本らしい、プロジェクトXに出てきそうな、中島みゆきが似合いそうな計画ではないか。そういうのに、私たちは惹かれてしまうようにできている。
最初に創作を生業とする人たちが注目したというのも、わかる気がする。なにしろ発想は『ロケットガール』(野尻抱介、富士見ファンタジア文庫)と同じなのだ。
説明をしていなかった。
まず、一番最初に「宇宙へ行きたい」という本能がある。あえて人間の本能と断定させてもらう。しかし、現状では厳しい訓練を経ていない一般人が宇宙へ行くことは不可能である。それに、金がかかりすぎる。
それはなぜか。そりゃあそうなのだ。今有人で宇宙に行くことができる宇宙機といえばスペースシャトルだが、あれはいかにもでかい。
宇宙へ行くだけのことならば、本当にあんな大仰なものを飛ばす必要があるのか?
誰だか忘れたが、宇宙開発の歴史上重要な人物がこんなことをいったことがあるそうだ。「例えば人ひとりが座れる椅子の下にロケットをつければ、それで宇宙に行くことができる」。つまり、現在のロケットの技術をもってすれば、宇宙へ行くこと自体は難しくない。
そこで、今すぐに実現できる技術だけを使って有人で宇宙へ行くためにはどれだけ小さなシステムでいいのだろうか、ということを考えたのが、宇宙開発事業団の野田篤司だ。日本製ロケットであるH2Aを使い、人が乗れる使い捨てのカプセル型宇宙船を打ち上げるというのである。
スペースシャトルは宇宙を往還し再利用されることを前提に作られた。だからあんなに大きな翼が必要だ。再突入して地上まで降りてくるには、空力を使った翼が必要だから。しかし、大きな翼は打ち上げには邪魔な重量でしかない。
実は今の技術では、すべてを使い捨てにした方が安上がりなんではないか。
最小限の大きさの、使い捨てカプセル型宇宙船。それが結論である。
この計画が面白いのは、価値観を覆す思考実験だからである。
「ふじ」が実現するかどうかはわからない。宇宙開発を毛嫌いしている人たちはかなり多いようだ。「それより海を研究しろ」なんて、的はずれな指摘がまかり通ってしまったりもする。「宇宙開発なんてただの無駄遣いだよ」と斜に構えてみるのがかっこいいという風潮が、どこかにある気もする。
不景気でもある。しかも人の命がかかった「有人」だ。だから、ちょっと実現は難しいかもしれないと思う。
しかし「ふじ」構想は宇宙開発に疑問を投げかけた。本当にスペースシャトルでいいのか? 他にもさまざまな宇宙往還システムの構想はある(スペースプレーン、リニアカタパルトなど)が、しかし、なぜ今使える技術ではいけないのか?
ツィオルコフスキーの公式をもう一度眺めてみたらいい。この本はそういっている。宇宙へ行くなんて簡単なことじゃないか。なぜそれをやらない?
そういう思考実験として、読んでみる価値はあると思う。
2003.10.14 てらしま
シュワルツェネッガーは州知事になるには筋肉が足りないと思っていた。しかしそれは間違いだった。僕らにとってのシュワルツェネッガーとは、ターミネーターであり、コナン・ザ・グレートであり、今でもビデオで見ることができるあのマッスルだからだ。彼の記憶は映画として残っているのであり、現在の姿は関係ない。全盛期に撮られた映像が無党派層をとりこみ、シュワルツェネッガーを州知事にした。現代の選挙戦はこうあるべきなのかもしれない。
選挙公約とか、中身はどうだっていいのである。重要なのは見た目と、イメージだ。さて、そうしたものを専門としている人たちがいる。アクション俳優だ。
この本は、アクション俳優のためのアクション指南書。なにを読んでるんだという感じだが、こういう世界もあるのかと思えばまあ興味深くはある。
本物の格闘技では相手に悟られない動きが必要だが、アクションでは逆だ、とこの本はいう。パンチを繰り出すにも、あえて大振りでやらなければならない。そのとおりである。大振りで、わかりやすく「パンチだ」と思っているところにパンチがくるから視聴者は楽しいのである。本物の格闘技の、わかりにくい動きでは映像としておもしろくなくなってしまう。
ボブ・サップはなぜ人気があるのか。それは、サップのパンチが大振りでわかりやすいからだと思う。彼はアクション俳優と同じことを、本物の格闘技のリングでやっている。振りかぶり、パンチだと誰もが思うところにパンチがくるからおもしろいのである。
観客のカタルシスを促すためにどう動いたらいいかを解説するのがこの本だ。パンチがくりだされた、それがあたって敵がのけぞった、そういう一つ一つの動作を、いかにわかりやすく観客に伝えるかということを専門とするアクション俳優のための本。
紹介されるのは日曜日の朝に見慣れた動きばかり。あの動きにはこんな意図があったのかと、いろいろと発見があっておもしろかった。また、このアクションにはこんな危険があるというようなことがいちいち書かれており、なんというか、アクションを見る目が変わりそうなのである。ただ漫然と見ていたアクションに、血が通ってくる思いがした。
教科書として出来がいいとはいえない。説明が少し独善的というか、親切とはいえないからだ。そのため、ときどきなにを書いてあるのかわからなくなって困った。しょせんアクション俳優が書いた本だからしょうがないとはいいたくないのだが、もう少し読者のことを考えてほしかったかな。
でも紹介される一つ一つの技の写真には説得力がある。というか、全部見たことのある(日曜朝に)動きだから、私の脳が勝手に補完しているのかもしれないが、そうだとしても、こうして写真で、動き方のコツなどと一緒に紹介されるとまた新鮮な感覚がある。
完全に非現実のものと軽く見がちなアクションシーンだが、あれも人間がやってるんである。