2004.6.4 てらしま
たしかにこの文章力は、高校生が書いたと思うとすごいと思う。それは、自分が高校生だったときのことを考えるからだろうか。でもこの感想は間違っているし、意味がない。
高校生だったときに甲子園でノーヒットノーランを達成した松坂を見て、すごいと思うのは、彼が野球選手として絶対的にすごいからだ。相対的に、他の高校生と比べてすごかったのではない。彼はプロ選手と比べてもすごかった。いや、あの投球には、他の野球選手を知らなくても引きこまれるものが、たしかにあった。
そういう意味で、この『黒冷水』はまあ、普通のレベルの小説だった。少年犯罪が世間を騒がしている時勢の後押しがなければ、文学賞には値しないと思う。最後に加えられた蛇足としか思えない展開も、変にメタフィクションを好むプロ評論家たちの目に留まる原因の一つにはなっただろうが、作品の価値を高めることには失敗している。
高校生の主人公は、自分が家を空けた時間に、弟が自分の部屋を漁っていることに気づいている。弟は怪物的に陰湿な性格で兄の部屋を漁り、アダルト雑誌やら動画の入ったCDやらを漁ってはほくそ笑んでいる。これに仕返しするため、兄は弟に罠をしかけ……。
というような話。
個人的に、なんとなく、嫌悪感を抱いた。全体的な描写の上滑り感が、わたしには非常にイヤだったのだ。
弟の怪物的な人物描写の中に、「弟はオタクだ」というようなことが書かれている。それを理由の一つとして兄は弟を嫌悪する。しかし、そのくせこの兄も、オタクにしか見えなかったりする。それはつまり作者がオタク、もしくはオタクの世界への憧れを持っているということだろうが、しかし、そうした部分が、細かく描写されるほどに説得力を失っていくのだ。
そもそも、オタクだから嫌いという理屈にも説得力がない。むろん兄弟関係の話なので、嫌悪する本当の理由はもっと深いところに用意されているわけなのだが、少なくとも読者として、主人公である兄の方には少しも感情移入ができなかった。
どこか、知識だけで書いているという印象が拭えない。登場人物たちの行動にも、ストーリー上の要請が強く働き、キャラクターとして立ってはいない。
狭い舞台での話だけに、登場人物たちの生活について事細かに書かれるのだが、そうしたものの一つ一つが、書かれるほどに立体感を失っていくのだ。
これは文章力の問題ではない。知識、あるいは想像力が足りないのだと思う。おそらく、やけにうんちくを語る登場人物たちのセリフの中身は、この作者がWebで検索して調べた結果そのままだろう。
なるほど、現代の小説なのではある。文章力の面で、同人小説よりは全然レベルが上だが、しかし、やはりプロが書いた小説ではない。「情報を入手することが簡単になり、そのために深い洞察を必要としなくなった時代なのだ」などと偉そうなことを断言する人は嫌いだが、でもそのとおりかもしれない。
「史上最年少で文学賞を受賞」という旗はまあ売りにすべきだが、それを読者が認めるかといえばそうではなかろう。
2004.6.19 てらしま
ばんぶーぱいんで紹介されていて、ちと気になったので買った。そうしたところが、見事にハマったんである。青梅くんありがとう。
寄宿舎のある女子校が舞台の、ほぼ女の子しか出てこない話だ。校舎も寄宿舎もかなり旧い建物で、霊のようなものやなにやらがいろいろ棲んでいる。
が、それは実は霊ではなく、過去の生徒たちの思い出がそこかしこに残っているのだ、というまあファンタジーである。
連作短編というような形式で、時間もいったりきたりするし、主人公はいるが出てこない話もある。こういう話には合った形式だと思う。
プロットだけ見ればなにやらブラッドベリあたりが書きそうなSFファンタジーと見えないでもない。わたしがハマるものなんてきまってそんなものだ。
まず、とりあえず絵がいいんである。同人上がりらしいのだが、こういう人はとにかくひたすら絵を練習してきてるので、とてもきれいな絵を描く。絵のきれいさでいえばプロより同人作家の方がきれいなのが最近のあたりまえになっていると思う。ただもちろん、きれいな絵がマンガ表現として正しいかといえばそうでもないわけで、この『ひみつの階段』でも、ちょっとわかりにくいところがあったり、書き文字の使い方に疑問があったりはするのだが。
知人に読ませたところ「この絵がダメ」といわれた。それはそういうところなのだろう。
この人はやはり同人作家らしく短編中心に書いてきている様子だが、現在手に入る本の中に長編が一つある。
Cottonというのがそれなのだが、こちらはやはり、短編のおもしろさと比べるとイマイチ。逆に短編集
夜の童話などはこれももう『ひみつの階段』と並ぶわたしのお気に入りだ。この表現はストーリーを語るには向かないのかもしれない。というより、こぎれいな絵それ自体が長編に向かないという気も、最近の同人上がり作家連中の作品を見回していて思う。
寄宿舎や校舎に染みついた少女たちの思い出には悪意がまったくなく、全編とおして生ぬるい世界が描かれていくわけで、わたしはこういうのも好きだ。というか「絵が苦手」とかでなければ、けっきょくこういうのが嫌いな人はいないだろうと思う。少しファンタジーを加えた『マリア様がみてる』だと思ってみると、そういえばおもしろがってマリみてのとなりにこの本を置いていた本屋があったなあ。
いろいろな時間が混じり合う女子校の不思議な空間は異常なのだが心地よく、しかも建物に染みた思い出には少女時代しか存在しないというあたりの設定はスマッシュヒットだ。そして最終話でそれが外の世界と繋がる、これも見事。やっぱりこれもSFだね。いいぞー。
2004.7.13 てらしま
いつもどおりである。さわがしいキャラクターがごちゃごちゃと暴れる話だ。
野村美月のおもしろいところは、キャラクター一人一人にちゃんと愛情が注がれているところだ。大きく話に絡まなくても、余計な場面になってしまってもちゃんとキャラクターは登場させ、期待通りの動きをさせる。そのせいでまとまりがなくなっているようでいて、しかしメインの話を忘れないところがいい。
もっとも、もともと短編でできる量の話にそうやって肉づけして文庫一冊分にしているという印象もないではないが、それもできない小説が多い中、野村美月のパフォーマンスは非常に安定しているのである。
このシリーズ、キャラクターの行動パターンはもう完全に固定されている。3巻目ともなると、そのパターンから外れる場面はほとんどない。主人公のパパのことが好きなミュゼットは基本的にパパの横にしか登場しないのである。そういうあたりがこの安定感の原因なのだろうか。
ただ、やはり3巻目。これだけどの登場人物も期待を裏切らないでいると、逆に飽きてもくる。物語としては2巻を一回り小さくしたような印象の巻だったと思う。
しかも、これまでの巻と同じ調子で、謎も増える一方。そして次巻がもう完結編らしい。どうなるんだこの話。むろん、これくらいの量の謎は、解決しようと思えば文庫一冊で終わらせることができるだろう。でもそれをやってキャラクターの描写が減ったら野村美月じゃない。第3巻の今でさえ、ページ数の半分くらいはキャラクターの顔見せなのに、この調子できれいに終わらせるには、なにか、推理小説のような「ああっそうだったのか」のような展開が必要になる気がする。この人がそれをやるのか。やるんだろうな。
2004.8.5 てらしま
そういえば、というか自分で信じられないのだが、3巻をまだ読んでいなかったのである。2000年に発行され、今に至っても続刊が発表されていない(2巻から3巻の間にも8年ほど間があった)、当時そのことがすでに予想されたということが一つ。しかしそれ以上に、あまりにスケールの大きい話だけに、こちらが身構えてしまうというか、全身全霊でそういう気分になったときでないと読めないという気分があった。
ずいぶん時間がかかった。その間にわたしは、少女小説にはまったりホームページを作ったりといろいろな嗜好の変化を経験してきたわけなのだが、けっきょく、わたしという人間は小松左京を大きな原体験として生まれてきたのだと再認識した。
この上もなくスケールの大きな話である。この巻になって、話がついに、具体的に宇宙全体にまで及んできた。
スケールの大きい話というのはそれだけで魅力的だ。だが、スケールの大きさというのはただ単に宇宙船の大きさが1キロメートルだとかカメハメ波一発で地球を吹き飛ばせるとか、言葉で書いても表現できるものではない。人間の描写から始まり、人間が一つ一つ宇宙を見ていくことでしか表現できないと思う。
まあこの『虚無回廊』、登場する宇宙船のスケールは光年単位なのだが、そういう意味ではない。1巻の、人工知能、宇宙船の開発に関わる人間たちの描写に始まり、そうした人々の力がようやく宇宙に届いて、初めてこの物語が始まる、そういうものが必要だと思うのだ。
そういう意味で、わたしが知るもっとも大きなスケールの話の一つが、この『虚無回廊』である。
ちなみに、わたしの中でこれと双璧をなすのが『ファイブスター物語』だ。手法、メディア、表現の違いこそあれ、宇宙そのものを正面から描こうとしている姿勢には共通するものがある。
どちらも、話としておもしろいかというと微妙、だが一つ一つの描写の迫力だけでもうおもしろい。
ただ、描かれている描写のレベルはさすがに違う。特にこうした宇宙モノでは無視されてしまいがちな相対論や量子論など物理法則の制約からも逃げていない『虚無回廊』の方が、数歩上にいるのは確かだ。でもどちらも好きである。
宇宙を描くことは人間を描くことである。つまり、人間を描くことで宇宙を描くことができる。この東洋的な考え方が、しかしわたしのような日本人SFファンには真理と思える。
普通の話では、この問題からは目を背けている。当然だ、そんなことをいい始めたらきりがない。際限なく拡がっていく話を一つ一つ、文章をタイプするという地道な作業で表現していかなければならない。一人の人間のライフワーク、であることを要求されるタイプの話である。
いや、たぶん、ファイブスター物語にしても虚無回廊にしても、作者が生きている間に完結できるとは思えない。そういう話だからこそ、多少(大きな)瑕疵が見えたとしても、読者は「読まなければならない」と思ってしまう。
わたしにとってはまさに『虚無回廊』は読まなければならない物語だ。人間が読まなければならない物語、に近いところにあるとさえ思う。
2004.8.6 てらしま
養老孟司はあまり好きではないのだが、どうもこの人は面白いネタにばかり首を突っ込んで本を出す。なんか悔しいのだが、この本も面白い、というか興味深かった。
養老孟司はいつもいろんな人にインタビューをしているが、これもいつも、相手より自分の方がよく喋る。しかもそれをそのまま本に載せてしまう。主張の強い人なんだろうなあと思う。わたしのような小説読みからしてみると、こういう人がインタビュー記事を書くのは、なんというかフェアでないと思ってしまう。小説を書くべきじゃないのかと思うのだ。
がまあそれはともかく、インタビュー形式というのは文章の出来に依存しないので読みやすい。古武術とはなんだったのか、現代の理屈で否定するのではなく肯定的に、なお科学的にとらえてそれを実践する甲野善紀という人は、いつも非常に面白いことをいう人で、わたしもこの人に興味があったから読んだ。いろんな話が展開するが、どれも興味深かった。例によって養老孟司がときどき的を外れたことをいうのが欠点だが。
甲野善紀という人は、巨人の桑田が師事を受けたことで有名になった。「捻らない、うねらない、タメない」という、現代のスポーツの常識とは反対の立場で人間の身体の可能性を語る人である。
余談だが、どうやら格闘技の突きには2つの方向性があった。
一つは、インパクトの瞬間に身体中の関節を固定する方法。詳しく知らないが、これは空手などで信じられている思想らしい。そうすることで、打撃に乗る換算質量を大きくとり、力積を稼ぐ方法だ。
そしてもう一つが、逆に身体中の関節の動きを使って、拳の先端の速度を大きくする方法。全身を使って加速し、最も遠い足から順に、今度は動きを静止させていく。一つ前の関節が止まることでその分の運動量が先に伝わっていく。鞭の動き、唐竿の動きである。ボクシングなどで「パンチは足で打つ」などといった場合、このことをいっていると思われる。
現代日本における最も重要な格闘技啓蒙書である(?)『グラップラー刃牙』でいうなら、前者は「剛体術」、後者は「音速拳」である。
だが今は、この後者の「鞭の動き」の方が優位にあるようだ。ハンマー投げの室伏の身体の使い方がまさにこれで、彼は体格的に劣っているにもかかわらず、事実上の世界最高記録を持っている。
ところが、甲野善紀の主張はこのどちらでもない。「第3の」考え方だと思う。
それは後半の、甲野が「最近発見した」という極意に関する話によく表れている。
「平行四辺形」「マジックハンド」などと表現されている。つまり、身体中の関節を、予告なく、同時に動かすという考え方だ。
上にも書いた「剛体」「鞭」のいずれにもない特徴が、ここにはある。つまり、相手に動きを悟らせないことができるという点だ。
普通、突きを撃つときはまず腰やら胸やらが動く。これについて甲野は「情報が漏れる」という表現をしていて、これは実におもしろいと思った。
その、攻撃の前に漏れた情報に反応して、相手はガードすることができるのだ。
それが、この「平行四辺形の動き」を使えば予兆を消すことができる、ということだと思う。
これは相手がいてこその考え方で、相手がいない、百メートル走やハンマー投げなどの陸上競技では通用しない。そういった競技ではおそらく、上に書いた「鞭」の動きの方に優位があるだろう。
しかし、そうした西洋的な競技が、日本では発達してこなかった。相手がいるため一つの軸では語れない、格闘技のようなものばかりが発達した。
そのあたりが、この本の主旨だ。インタビュー形式ゆえ結論はないが、日本人は単純な競い合いで結論を出すのが嫌いなんじゃないかというような意見も出ている。
日本人はその文化の中で「身体」をどう使ってきたのか、身体の使い方にだって文化は影響するのだ、という、あたりまえだがそれほど認められていない考え方が新鮮だった。