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遊星ゲームズ
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1970/01/01 09:00

イノセンス
 読書

イノセンス
山田正紀 徳間書店

2004.9.3 てらしま

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 昔『アフターマン』という本があった。あれをわたしが読んだのはいつだったか。中学生のころだと思う。
 人類が滅びた後、数億年間の地球の生命を想像してみよう、という、とてもかっこいい内容の本である。ペンギンが巨大化してクジラのようになっているとか、ドブネズミたちは強靭な生命力で生き残って、さまざまに分岐して進化し、ついにはゾウみたいなのになったりとか、そういう話が、イラストつきで検証された本だ。
 当時のわたしは多少腑に落ちないものを感じながらも、その本にいたく感銘を受けた。そういう感触が残っている。わたしのSF原体験、の一つではあったのではないかと、今になってみれば思う。
 ところで、こうした体験を持つ人はわたしだけではないらしい。というのは、いろいろとウェブを眺めていると、アフターマン復刊(したのだ)についての話題がけっこう出ていることから思うのだが、やはりあの「人類が滅びた後」というのがなんとも衝撃的で、普段は考える必要もない未来のことを人間が想像するということのかっこよさ、認識の枠を大きく揺さぶられることの不快な快感というか、そういうものに影響を受けていた人は多かったようである。
『FUTURE IS WILD』は、現代流にもう一度、アフターマンを再構成してみよう、という本である。
 たしかに、アフターマンよりも検証が細かくなっている。まず各時代の地球の地形や気候を想定し、そこから、条件に合う生物を考えていく。このダイナミズムはアフターマンよりもおもしろくなっている。
 そして、もっとも違う点は、この本では完全に人間から離れたというところだ。アフターマンはあくまでアフターマンであって「人間後の世界」であった。しかしこの本は『FUTURE IS WILD』(未来は野蛮?)である。WILDなのであって、そこには人間の希望が関与する必要がなくなっている。
 人間は人間が滅びた後も人間が信じる世界が続いてほしいと願う。人間が信じる世界とは、人間が獲得した知性や文化である。
『アフターマン』では、ドブネズミから紆余曲折を経て進化した知的哺乳類が、群れの中でのコミュニケーション手段として表情(特に笑顔)を獲得し、微笑みに満ちた豊かな世界を作っていくだろう、というところが最終章だった。
 ちょっと不満があった。けっきょく哺乳類だし、収斂進化という言葉があるとはいえ、人間と同じように二足歩行をし、脳の容積を肥大化させた生物が結論ではいまいちだなあと、当時わたしは感じたのだ。いや、まだたぶん中学生だったわたしがそこまで考えたかというと疑問だが、どこか腑に落ちないというような、オチのない落語を聞かされたような感覚を持った。けっきょくまた人間かよと。
 しかしこの本は違う。現代の、世界的な支配思想の変化も影響しているだろう(つまりそれほど人間に期待できなくなっている)し、前回よりも金がかかっていそうなこの本、いろいろ調べた結果、より大胆な予測をたてられたのかもしれない。なにしろこの本の最後に登場するのは、イカの子孫なのである。
 イカだ。海に棲むあのイカが、地上を闊歩するのだ。
 他にも、空を飛ぶサカナとか、ジャンプするカタツムリとか、くだらない、いや興味深いものがいろいろ登場する。このダイナミックさは完全にアフターマンを越えていて、とりあえずおもしろくなっていると思う。ちょっとおもしろすぎなのだが。
 しかし、だからといってこの本の内容を信じるわけではない。それができないくらいには、私自身、純粋さをなくしてしまった。むしろ、信じてはいけないと思う。
 たとえば、この本ではやけに現代の海生生物の子孫が登場する。それはなぜかと考えてみればいい。
 むろん、ショッキングさを演出するためだろう。人間にとってサカナの類というのは、心情的にかなりかけ離れた存在で、それが人間が滅びた後の世界を支配するというのは、話としてショッキングだからだ。
 学者が多数集まって、真剣に検証して各時代の環境に合った生物を考え出してできたのがこの本だ。それは確かだろう。だがそれは、地殻の移動や気候の変化から想定される決定論で、イカが地上に上がるだろうことが導き出されたということではない。とりあえずどこかの段階でイカが地上に上がるというストーリーラインができあがり、それについて検証してみた、というのが正解だろうと思う。
 本は気候の話から理屈を積み上げていくが、実は逆だと思う。つまりSF小説の手法である。まずおもしろい話があり、そこに理屈をつけていくのだ。
 それがよくわかるのが、一億年後の世界に登場する「オーシャンファントム」である。群体生活(多数の同種の生物が集まり、個々が役割分担することで一つの個体のようになる)するクラゲで、現代のものよりも多様な器官を発達させて巨大化している。海上には風を受けて移動するための帆があり、海面下には獲物を捕らえるための触手があり、という具合だ。これらはもともと一つ一つが別の個体のクラゲなのだが、神経をつなげて、まるで一つの巨大な生物のようになっている。
 そういう生物なのだが、これは見る人が見ればすぐにわかる。『遥かなる地球の歌』などアーサー・C・クラーク作品に、ほとんど同じものが登場しているのだ。
 クラークの予言能力がそれだけ精密だったというよりは、これは、クラーク作品がそれだけ魅力的だったというべきだろう。
 そうしたところが、悪いとはもちろんいわない。これでいいのである。少なくとも、アフターマンにあった不満はなくなっているではないか。
「二億年後の地上を支配するのはなんとイカの子孫!」といわれた方が「哺乳類がまた人間に似た生物を生んだ」といわれるよりも納得できる。二億年という時間のスケールに、その方が合致しているように思えるからだ。この場合、現実がどうであっても関係ない。読者として、その方が納得のいくストーリーなのである。
 そういう意味で、アフターマンよりも完成度を増しているといえる。ただし、やはりアフターマンを読んだときよりもショックは減じた。それはむろん、わたしがすでにアフターマンを読んでしまった後だからだ。今の中学生に『FUTURE IS WILD』を読ませてみたいと思う。

2004.9.3

イノセンス
山田正紀 徳間書店

 人間は人形を作り、それを愛でる。その感情は人間が人間を愛することに通じるが、それよりもイノセンスな感情なのではないか。この映画ではそれをさらに進め、つまり、人形は人間よりもイノセンスに近いのではないかということになっている。
 人間が感じる愛情やらなにやらから不純物を一切とりはらったらなにが残るのか。この映画は、なにも残らないかもしれないという。殻だけの、人形が残るのだ。人間性はイノセンスと関係がない。
 だがそれと同時に、サイボーグであるバトーが去っていった素子を思う感情、というか「祈り」が残っている。これもまたイノセンスなのではないか。
 とそういうような映画だった(のだと思う)。なにしろ余計な情報が40億円分もつぎこまれていて、中からテーマを拾い出すのは一苦労なのだが、たぶんそんな感じになるのではないかと思う。しかも、これも内容からではなくタイトルから推察した考察だ。
 さて、しかしこれは攻殻機動隊でもある。
 この世界には「ゴースト」というものがある。データとしての記憶や情報処理の中にある魂のようなものなのだが、まだはっきりと解明されてはいない、そういう存在のことだ。
 これは脳までを機械化した人間が、しかしまだ人間であることを確保するための、つまり人間性がすべて解明されてしまわないために唯一残っていた小道具だったわけだが、さて、そこに人形がからんでくるとはどういうことか。
 映画ではあまり、そのことについてくわしくは語られない。ゴーストは人形を愛でるのか。アンドロイドは電気羊の夢を見るか、である。
 あの映画には、人間性を失った人間たちの、おぞましくも憎めない活動が描かれていた。
 それは祭りの場面に表れている。あそこにはなぜか、人の姿が非常に希薄だ。いても、人形と区別がつかない描かれ方をされている。人形が笑いながら人形を作り、祭りをする。しかし人形の祭りは空虚で、華やかなのに賑やかさがない。
 一番の問題は、そうした表現が、魂のない映像の空虚さと区別がつかないというところだが。
 祭りは神に捧げられるものだ。人間はほとんど人形になっても祈りを忘れられず、どこかが歪んだ愚かしい祭りという形でイノセンスを表現している。むろん、あの祭りは素子に捧げられたものだったわけだ。
 それはそのまま、魂を失った映画に残されたものを表現しているように思われたり。でもそういう喪失感は、考えてみれば押井守がずっと試みてきたことだ。あの映画はひどく怪しげなシロモノだったが、実は失敗作ではなかったのかもしれない(うーん、どうだろう)。
 ここにはもうゴーストの存在は必要なくなっている。人間性を肯定するための装置は、かえって邪魔になっているのだ。人間は人間でなくなってもイノセンスを残すのだから。
 ……でもまあ、実はそんなことはどうでもいい。そんな怪しげな映画に40億円がつかわれた、そういうことがあったってことである。
 で、この本である。
 映画のノベライズというか、あの映画の前夜の物語である。
 バトーはバセットハウンドを飼っている。その犬が、失踪した。バトーは、サイボーグである自分には魂がなく、だから犬が離れていったのではないかという不安を感じながら、犬を捜す。そのうち、どうやら、犬は誘拐されたらしいという話になる。
 イノセンス、つまりあらゆる雑多な要素をすべて排除したあとになお残るものはどこにあるのか。犬を愛する心にはそれがあるのか。
 この小説では「ゴースト」という言葉はあえて使われず、かわりに「ソウル」が使われる。それはつまり、攻殻機動隊の否定であり、攻殻機動隊にイノセンスはなかったということだろうと思う。
 きっと映画の監督である押井守もそう感じていたに違いなく、その意味では映画のノベライズとして正しい小説だった。
 そういえばもともとの原作者だった士郎正宗は、イノセンスになど興味を示していないように感じる。人間が機械と融合し、ネットの海に身を沈める。『攻殻機動隊2』ではその巨大な複雑さの中から、生物の次の進化が見えてくる。マンガの視点はあくまで、複雑さ(エントロピー)を体現する素子にあり、ここで、押井守-山田正紀と士郎正宗との間に大きな齟齬があるのだろう。原作と似ても似つかない世界が生まれてくるのは当然なのだ。
 余談になるが、攻殻機動隊2のこの結論というのはSFとして非常におもしろいと思う。ちょうどよい比較として、グレッグ・ベアが書いたスタートレック小説『コロナ』というのがあるのだが、ここでは、恒星生物が人間とのコミュニケーションをとおして得た結論が「生命の目的はエントロピーの増大に抵抗すること」となっていた。これはもう、スタートレック小説に登場させてしまうには惜しいくらい、非常にいい言葉なのである。これまでSFに描かれてきたテーマの大半をいい表してしまっている言葉なんじゃないかとさえ思う。
 しかし士郎正宗は、それとはまったく逆の考え方を持っている。エントロピーを効率よく増大させることこそが生命の意義であり、進化とは、さらに効率のよいエントロピー増大装置を発明することなのだ。いやはや、これだけでも攻殻機動隊がSF史中の重要な位置を占める権利を持っているといえると思う。
 しかし、この思想はちょっとエキゾチックすぎたんだろう。押井守と山田正紀には反対されてしまったということか。
 でつまり、おもしろかったかというと、まあまあ。あの映画をちゃんと理解してノベライズを書いちゃったあたりは、山田正紀にしかできなかったことかもしれないと思う。たしかに『攻殻』のノベルではなく『イノセンス』のノベライズだったのだ。この点は評価するべきだろう。


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1970/01/01 09:00

マリア様がみてる 特別でないただの一日
 読書

マリア様がみてる 特別でないただの一日
<a href="shohyou2004.html#chaosorerra">マリア様がみてる チャオ ソレッラ!</a> 今野緒雪 集英社 コバルト文庫

2004.10.17 てらしま

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マリア様がみてるシリーズ 今野緒雪 集英社 コバルト文庫

マリア様がみてる レイニーブルー 今野緒雪 集英社 コバルト文庫

マリア様がみてる パラソルをさして 今野緒雪 集英社 コバルト文庫

マリア様がみてる 子羊たちの休暇 今野緒雪 集英社 コバルト文庫

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マリア様がみてる 涼風さつさつ 今野緒雪 集英社 コバルト文庫

マリア様がみてる レディ、GO! 今野緒雪 集英社 コバルト文庫

マリア様がみてる バラエティギフト 今野緒雪 集英社 コバルト文庫

マリア様がみてる チャオ ソレッラ! 今野緒雪 集英社 コバルト文庫

 とうとう学園祭なのである。
 まあこのさい、妹の話が学園祭でやられようがそうでなかろうがどちらでもいいのだが、とりあえず読者はそのつもりで読まざるをえなかったわけで、それを「特別でない」という言葉でかわしてみせる今野緒雪のあまのじゃくなエンターテイナーぶりはやはりえらく、一回一回に感動はしなくとも先が気になるので読ませるという、こうなるとこれは、結果的には、平日昼間にテレビでやっている石鹸会社をスポンサーにしたドロドロドラマと手法としては差がなくなってきており、それはつまりなんだ、書評といっても書くことがなくなってきたのである。
 あ。ネタバレ書いちゃってる? ごめんなさい。このシリーズについてだけは許してください。もう内容に踏みこまなければレビューを書けないのです。
 三角関係があり、主人公がどちらを選ぶのかというところをじりじりと引き延ばす。王道である。このシリーズの場合、あくまで同性同士の友情関係にすぎないわけだが、姉妹(スール)という制度で三角関係を実現している形だ。考えてみれば、今まで三角関係の話がなかったことの方が不思議なくらいなのだ。
 それはそうなのだが、それにそんな荒技が自然に実現できるところがこのシリーズのおもしろいところなのだが、しかしこれはあくまで王道であって、それをやってしまうと作品の特殊性が薄れてしまうという弊害もある。
 わたしがレビューを書けなくなってきたのも、そういうことだろう。同じようなソープオペラを延々とやっていることで有名なのはWWEだが、WWEのストーリーに関して真面目に評を与えてもしかたがないのである。客を飽きさせないためにはなんでもやるということを観客全員が知っており、クソ真面目にキャラクター間の関係やら構造やらを解析したところで、特番の度に覆されることがわかっているからだ。しかしそれをわかっていても、キャラクターの魅力と、なにが起こるかわからないから先が気になるという部分で、観客はWWEを見るのである。
 そういえば、最近読んだ少女マンガ『NANA』(矢沢あい)がまさにそんな感じだった。しかもあのマンガ、ものすごく売れている。あれを名作という人はいないとわたしは思うのだが、でも主人公のバカ女がなにをしでかすかわからないから、気になって読者が離れないのだと思う。連載が終わったらブックオフに大量に流れるタイプのマンガはああいうものだろう。後まで人々の記憶に残るわけではなく、いずれ忘れ去られるだろうが、連載中の評価が高い、そういうタイプの話があるのである。
 むろん、マリみてがそこまでの域に達しているとはいわない。まだ大丈夫だ。この手法を使った上で名作と評価されている作品だっていくつもあるし、そうなる要素はまだ残っていると思う。
 ところで、またネタバレに近いことを書くが。
 登場人物が泣くときというのは、その登場人物の扱いがもうどうしようもなくなってしまったときに、無理矢理決着をつけるときだと思う。
 いくら描写を重ねてもキャラクターが立ってこず、しかし張ってしまった伏線はいつか解決しなければならない。そういう歪みが臨界に達して、ついには、それを解決しなければ本筋が進められなくなってしまう。長いシリーズではそういう瞬間があるのではないかと感じることがある。
 少年マンガならば、そのキャラクターに特攻でもさせて、見せ場を作ってから殺してしまえばいいかもしれない。しかしマリみてのような話ではもちろんそういうわけにはいかない。それで残された最終手段が、泣くことなんじゃないかと思うのだ。
 いや、別に、泣く場面が必ずダメというわけではもちろんない。しかしこの巻の場合のように、読者がぜんぜんついてきていない状況で泣かれるとどうも、そういう勘ぐりをしたくなるわけである。
 まあ、わたし個人の感想ならば、あのキャラクターにはどうしても馴染めなかったわけで、ここで決着がついてしまうのならばむしろ歓迎なのだが。


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1970/01/01 09:00

電車男
 読書

電車男
中野独人 新潮社

2004.12.21 てらしま

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2004.12.21

電車男
中野独人 新潮社

 こんな本を読んではいけない。読んだら負けである。この「負け」という感覚を別の言葉で説明するのは非常に難しいのだが、わかってくれよ。内容がおもしろかったかどうかではなく、ともかく読んだら負けだろーがよ。
 これだけ売れてりゃあ、こんなところで説明するまでもない。2ちゃんねるの板で実際に起こったできごとをほぼそのまま本にした、ノンフィクションである。
 アキバ系のオタクと自覚している男がある日、なぜかふと起こしてしまった正義感。そこから始まる恋。ああもうなんつーか、あらすじ書きたくもねーけど。ともかくこの主人公は、通勤中の電車で暴れる酔っ払いを咎めてみたのだ。
 で、そこにいあわせた若い女性とどーのこーの。
 余談になるが、本には必ず部門コードというものがある。大抵は本の裏表紙に書いてある、「C0079」とかそういう数字の、下2桁の数字がそれで、「79」ならマンガ、「93」なら日本人作家の小説、「36」はドキュメントとかそういう風に、おおまかなジャンル分けができるようになっている。
 さてこの本、経緯を考えればノンフィクションなのだから、36あたりが妥当かと思えるのだが、実際につけられたコードは93。小説扱いだ。ノンフィクションともいいきれないということだろうか。しょせん2ちゃんねるの書きこみだ、全部が作り話という可能性だってあるとそういう意味だろうか、なんて思ってみたくなる。
 なにしろ2ちゃんねるである。まったく意味不明の日本語や意図的な誤変換が平気で使われていたり、2ちゃんねらーにしか理解できないだろう用語や感性があったりするわけなのだが、この本はそうしたものを、大して編集もせずに載せてしまっている。一番のウリはそこである。実際にあったことだという事前情報とあいまって、読者はここに臨場感と一体感を感じることができる。下手に編集してしまわなかった出版社の慧眼は評価していいだろう。
 ってそんなまじめに書評を書くのもばかばかしーやね。
 いや、別に、おもしろくないわけではない。これはつまり、巨大なネットワーク内に偶然生まれた都市伝説か、妖怪か、そういったたぐいのものだ。この現象のおもしろさはつまりニューロマンサーなのであり、サイバーパンクSFの一部分が現実になってしまった、そのことがおもしろいのである。つまり現象がおもしろいのであって、恋愛がどうのこうのとかそんな話はどうでもいい。ただ、これが「伝説」となるために必要な要素であった「奇跡」を演出するには、男女の出会いというのは最上の小道具ではあった。
 この掲示板に参加している連中の意識というのもあるだろう。このとき、彼らは「伝説」にいあわせたことに興奮し、一種のトランス状態になっていた。2ch用語でなくとも「祭り」だった。彼らはこの物語が伝説となることを望み、書き込みを連ねていった。おそらくは、電車男本人も同じだったのではないかと思える。物語そのものを書き進めたのは電車男本人だが、そこに肉付けしたのは祭りに参加した、何人いるかわからない2ちゃんねらーたちである。彼らが望む結果が得られた偶然からこの話は伝説になったのだが、同時に、この物語は彼らが皆で作り上げたものでもある。
 不特定多数の意識が無意識に結束して一つの物語を作り上げていく。しかも彼らはそのために集まったわけではない。いってみれば集団意識が生んだ、まさに伝説、妖怪としてこの世に生まれた物語というわけで、また2ch風にいえば祭りによって「神」が降臨した(誰かが神というわけではなく、皆の結束した祈りが具体化したという意味で)瞬間でもあったわけで、この過程は現象として、サイバーパンクとしておもしろいのだ。
 でもねえ、そんな醒めた見方をしてみても、負けは負けだ。くりかえすが、読んだら負けである。わたしは負けた。
「2ちゃんねるなんて読んでんじゃねーよ」とか普段はそんなことをいっているわたしなのだが、しかし一方で、観客として、巨大なネットワークの中に伝説が生まれていく過程に興味を持ってしまう。ひろゆきが裁判に負けたら2ちゃんねるは消滅してしまうかもしれない、そのことを残念だと思っている。しかもあぁた、こんな生ぬるいロマンスを読んじまって、もうなんともいいようがなく、負けなのだ。


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1970/01/01 09:00

マリア様がみてる イン・ライブラリー
 読書

マリア様がみてる イン・ライブラリー
<a href="shohyou2004.html#tokubetudenaitadanoitiniti">マリア様がみてる 特別でないただの一日</a> 今野緒雪 集英社 コバルト文庫

2005.1.4 てらしま

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マリア様がみてるシリーズ 今野緒雪 集英社 コバルト文庫

マリア様がみてる レイニーブルー 今野緒雪 集英社 コバルト文庫

マリア様がみてる パラソルをさして 今野緒雪 集英社 コバルト文庫

マリア様がみてる 子羊たちの休暇 今野緒雪 集英社 コバルト文庫

マリア様がみてる 真夏の一ページ 今野緒雪 集英社 コバルト文庫

マリア様がみてる 涼風さつさつ 今野緒雪 集英社 コバルト文庫

マリア様がみてる レディ、GO! 今野緒雪 集英社 コバルト文庫

マリア様がみてる バラエティギフト 今野緒雪 集英社 コバルト文庫

マリア様がみてる チャオ ソレッラ! 今野緒雪 集英社 コバルト文庫

マリア様がみてる 特別でないただの一日 今野緒雪 集英社 コバルト文庫

 また番外短編集である。ちかごろではこういう番外編の方がおもしろくなってきた。
 タイトルにあるとおり、本に関する短編ということになる。といってもまあ、雑誌コバルトに適当に書いていったものを集めるにあたって共通する小道具を捜したら本だったということのようで、さほど本の話ばかりしているわけではない。
 考えてみれば、この登場人物たちは意外に読書家ばかりである。これまで登場した本を挙げれば、『剣客商売』、少女小説文庫、『源氏物語』など活字ばかりで、いまどきの高校生なのにマンガの話も流行歌手の話も出てこない。
 世界観自体が、どこか古臭いのである。別に本を読むことが古いわけではなかろうが、しかしこの微妙に現代とは違う世界には、浜崎あゆみを追いかける少女ではそぐわないのだ。
 これには、この作品の下敷きとなっている(であろう)昔の少女マンガの世界が影響している、と思う。
 竹宮恵子や萩尾望都の描いたギムナジウムの世界が、マリみての源流にはある。閉鎖された異常な空間で青春時代を送る少年少女たちは、どこか怪物じみた、しかし純粋な感性を持っている。それを表現するために少年同士の恋愛を描いた30年前の少女マンガの世界が受け継がれているのが、マリみてなのだ。
『風木』の世界にマンガやCDがあるはずもない。だから、傍流とはいえその子孫であるマリみてもそれに準じている。というより、そうした雰囲気を維持するためには、あまり新しいものを描いてしまうわけにいかないのだろう。
 というあたりで、本を題材にとったことは「当たり」である。CDという言葉ですら登場したら違和感があるだろうマリみてワールドにあっては、少女たちの趣味は本、であるべきだった。まあ詩集をひもといてみせるのはやりすぎとでも思ったのか、源氏物語という選択もいい。
 コンピュータは多少出てきたが携帯は出てこない。学園祭の出し物が日本の古典文学。少女たちは、近頃のやけに過激なフラワーコミックスなど知りもせず、図書室に入り浸る。そんな、実は現実には存在しなかった「永遠の昭和」とでもいうべき世界こそ、このシリーズの価値なのかもしれないのである。


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1970/01/01 09:00

Bad! Daddy4 やっぱり!とっても!パパが好き!
 読書

Bad! Daddy4 やっぱり!とっても!パパが好き!
野村美月 ファミ通文庫

2005.1.7 てらしま

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 いや、思ったよりきれいに終わった。もちろん、多すぎる登場人物の中には充分に解決されなかった人もいるのだが、そこはまあ、主人公とパパの話がちゃんと解決されたからそれでいい。
 同じ4巻シリーズとしては、卓球シリーズほどのきらめきはなくなっている気もするのだが、それでもこれだけのおもしろさがあるのだ。今さらだが、新人賞にありがちなフロックではなかったわけである。
 サッカーではそうなんだが、しっかりと見てきた大きな大会の決勝戦にはもう書くことがなくなってしまう。決勝に進んだチームはすでにたくさんのエピソードを連ねており、その中で見事に勝ってきたチームなのである。決勝戦はすでに双方が勝者だ。そんなチームに、今さらなにを書いてもしかたない。
 スポーツでいえば、寺山修司の言葉「勝者にはなにも与えるな」には大いに賛同してしまう。だから、決勝戦についていくら言葉を重ねても無意味に感じられてしまうのだ。
 それと同じような意味で、この巻についてもあまり書くことがない。どーしようもなかったから書くことがない、というのとは違う。ちゃんと納得できる形で終わってしまったものに、批評がなにを書いても意味がないではないか。
 強いていえば。読んでいない人に「読め」というくらいか。
 ともかく楽しめたシリーズだった。野村美月を薦めるならむろん卓球シリーズを推すが、卓球シリーズが好きだという人がこのシリーズを読んでいないならそれはもったいない。


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