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遊星ゲームズ
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2006/03/06 20:10

WEBで日記は書かないと
 日記

 日記はやらないと前に自分でいってた気がするのだけど、ブログ風《ふー》(風でしかなく)のテストに書いてみるかーみたいな。

 とはいえ、知人の日記とかブログとかは読んでいるんである。
 そうするとときどき、コメントしたくなるわけなのだけど、わたしはどうもコメントというのが苦手で、なぜかあそこに書こうとするとうまく書けなかったりする。
 そこで思ったのだ。自分でブログやってればトラックバックできるし、落ちついて自分とこで書けるし、いいかもじゃないか。

 ……ああ、みんなそうやってブログに堕ちていくんだなあ。

 でもトラックバックはどう実装するか考えてるのでまだだったり(いや、だから、自前で作る必要はないんだって)。

.モラルハザード

 という話題を、英-Ran氏のブログで見たんである。
 なんか疲れてて眠い時に見ると、コメントしたくなることが多い。それでコメントしたのだが、意味不明のことを書いて荒らしてしまった。反省している。
 なので自分のサイトで書いてみようかなと思ったんである。

 彼もいうとおり、モラルハザードというのは経済だか保険だかの専門用語らしい。「倫理崩壊」という意味ではない。でもそう思ってしまうのはしかたない。
 本当の意味は、これはぜひgoogleで調べてください。おもしろいから。アホみたいにいろんなページがかかります。
 そして、混乱してることもよくわかります。「ほんとはこういう意味なんだよー」と書いたページが複数あって、互いに矛盾してたり、しまくり。こりゃ騒ぎたくもなるね。
 さらに「モーラルハザード」だか「モラールハザード」だかという言葉もある。こっちの説明もいろいろ出てくるけど、これまたちゃんと理解してないサイトが多いらしく。
 だいたい、英語のmoralとmoraleなんて、英語圏の人にとってもe一個の違いでしかないわけで、eというのは英語でもっともありふれた文字なわけで、そんな違いをわざわざ使い分けようなんていう奴が出てくるんだから、日本に入ってきたところでもう混乱や誤解があったということだ。もともと、専門用語としてはまったくできの悪い言葉だったんである。

 moralという言葉はたぶん、根本的に、道徳という意味ではない。
 たとえ道徳としかいいようがないとしても、そもそもキリスト教の道徳と日本の道徳は、現在はもう表面上似たものになっているが、根本が違う。
 人間の意思決定を方向づける要素とか、そういう意味だとわたしは解釈している。(断っておくが、あくまで、語学がとっても苦手なわたしがそう考えているだけだけど)
 e一個の違いなんて英語圏の人だって区別してるわけない(と思う)し、moralとmoraleという二つの言葉はほぼ同じ意味と考えていいと思うのだ。

 だいたいわたしはボードゲームの人なので、これが倫理だの道徳だのとはまるで違う話だということはわかる。いや、わかってないのかもしれないから、そう理解している。
 例えば、トランプの「ババ抜き」で、ババを引いてしまうと不愉快だろうから、ババの裏だけ色を変えて、ストレスのない爽快なゲームを実現しようとしたとする。ってそんなゲームはもう爽快でもなんでもなく、誰もやらないんである。
 あるいはスゴロクで、1なんて振ったらストレスがたまるだろうから全部6ということにしようとか。
 まあ極端だけど、こういう話だと思っている。倫理が介在する余地はどこにもなく、プレイヤーはそれぞれが最適の行動をとっているだけだとしても、デザイナーが意図したものとは逆の効果を生んでしまうことがあるのだ。
 これは実際、ボードゲームにはよくあること。キツいゲームはウケないからダイスを振る場面を増やすのだが、増やしすぎてただの運勝負になっちゃったーみたいなゲームが、よくある。
「これはモラルハザード、これはダメ」という議論はずいぶん活発らしい。のだが、ちゃんと説明されているサイトを読んでも、例として挙げられているのが倫理感の欠如みたいな話だったりする。間違ってはいないのだろうが「誤解を助長しちゃいそうだなあ」という違和感がある。つまりどうしてもみんな、道徳という言葉に引っぱられているのだ。

 自分でウェブに文章を書いていると、言葉の無力さを実感してしまうことのほうが多いのだけど、それでもやっぱり、言葉には力がある。そんなことを思ってしまう。
 ってつまりわたしは、一つの言葉をめぐる現象としてのモラルハザードに興味があるだけで、本当の意味がどうとか、そういうことはまあ、どっちでもいいや。

2006/03/06 20:00

ゲシェンク
 ボードゲーム

2006.03.06 18:38 てらしま
ゲシェンク
Geschenkt
Amigo
Thorsten Gimmler
2005年
3-5人(5人)
30分

 一枚の数字カードが、場の中央にある。これを「誰に押しつけるか」を決めるゲームだ。傑作である。
 数字は引きとってしまうと必ずマイナスの得点になる。だから、できればほしくない。
 そこで、ほしくない人は手元からチップを一枚出して、場札の上に置き、次の人に回す。もちろん、チップがなければ引きとるしかない。
 カードを引きとったとき、その上にチップが乗っていれば、それも一緒にもらえるわけである。
 チップは1個あたり、プラス1点。始め、全員が11枚ずつ持っている。
 数字カードは3〜35の、33枚。だが、そこから9枚を除いてゲームを始める。
 単純だ。あっという間に理解できる。
 とってしまった数字カードは数字分のマイナスなのだが、連番だと、その続いた数字の一番下の数だけを計算する。
 例えば「18,19,20,21」と続けて持っていれば、これは全部でマイナス18点。
 つまり、大きな数字でもマイナスにならない人がいるかもしれない。たった一つの数字が書かれただけのカードだが、プレイヤーによって価値が違うのである。
 チップがなければ引きとるしかなくなるわけなので、一枚もとらずにゲームを終えることはまず不可能である。ということは、どの数字をとるのかが重要になる。
 10前後で連番を作っていければ強いが、しかし、それをやれるプレイヤーは一人だけ。誰か一人は、30をとらなければならない。
 だが、30をとらされてしまった人が不利かというとそうでもない。30はもちろんみんな嫌がるので、チップが溜まる。
 このゲームのチップはプラスの得点にもなるのだが、それよりも「パスする権利」としての役割が大きい。例えば15枚のチップが手元にあれば、それは15回パスできることを意味する。30をとって得たチップで、以後のゲーム中一回も引きとらないことができれば、勝利の可能性は充分にある。31か29が出ればさらにいい。
 基本的には、この「大きな数字をとって得たチップでパスする」作戦と「小さめの数字で積極的に連番を作る」作戦の2種類が、戦略だ。あるいはこの中間。自分はどれくらいの数字を軸にして、どれくらいの作戦をとろうかと、考えながらやるあたりは楽しい。
 もちろん他人のとっている数字とのかねあいがあり「このあたりの数字で連番を作れるだろうか」また「この数字でこのチップ枚数なら得だろうか」と、いろいろ考える。
 やることが「とるかとらないか」の2択だけというのもいい。

 ところが、単純で簡単なゲームなのに、実はキツいゲームでもある。
 誰か一人が、たった一回、不適切なプレイをするだけで、誰か他の人の勝利がなくなってしまうという面がある。
 なにしろ、連番を作れるか否かというのは直接勝敗に関わる重要な場面なのだが、誰かが「特に理由もないけど」それをとってしまう、なんてことが起こったら、ひどい目にあう。
 基本的にプレイヤーは、得点が加算されていくゲームには慣れていても、減算されるゲームには慣れていない。だから、プラスの得点であるチップの数に目が眩んでしまい、その下の数字がマイナスであることを忘れてしまいがちになる。
 このゲームは基本的に、マイナスの得点をどれだけ小さく抑えることができるかを競うゲーム。チップの枚数はプラスだが、自分の得点がプラスになるという事態はほぼ確実にない。
 ゲーム中盤以降に「チップが20枚乗った29」を、とっていいのかどうか。
 これをとっていい場合というのは、30か28を持っている場合と、自分がまだ数字をとっていない場合だけだろう。まあ手元のチップ枚数にもよるが、ほとんどの場合はとったら負けなのだ。
 そのあたりを実感として掴みきれていないときに、よくやってしまう。自分がそれをとると負け決定なのだが、とってしまうのだ。
 わかりにくい、といえばわかりにくい。そのあたりはこのゲームの弱点である。

 でも30分弱で終わるので、納得いかなければもう一回やればいい。3〜4回も続けてやれば、だんだんとわかってもくる。
 あと、特にミスしていなくても、やたらとツいているプレイヤーが一人いれば負けてしまうわけだけど、そのあたりもやっぱり「もう一回やろう」といってしまえばいい。
 なにより、くりかえし遊びたくなるなにかを持ったゲームだ。傑作。

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2006/02/28 01:53

Missing5~8
 読書

Missing3・4 首くくりの物語
甲田学人 電撃文庫

2006.02.27 19:44 てらしま

Missing2 呪いの物語
2006/01/31 23:33 読書
Missing3・4 首くくりの物語
2006/02/27 19:10 読書
Missing5~8
2006/02/28 01:53 読書
Missing 神隠しの物語
2006/01/24 18:01 読書

 というわけでへろへろ読んでます。一冊づつ書くの面倒なのでまとめちゃったり。
 印象としては、3・4巻がピークでその後はほぼ同じレベルを続けている感じである。
 毎回「〜の物語」と題されているくせに、5巻くらいからは完結する話ではなく、次に続く話がだいぶ入ってきている。
 続く話の問題点は、なにしろ「敵」が設定されちゃうところだ。怪談のおもしろさは見えないものへの怖さだろうのに、はっきりと敵が出ているんだから、だんだん怪談ではなくなっているわけである。
 魔術師たちの闘争が裏にあり、それに翻弄されているのが主人公たち。でもそろそろやばいので魔術師に反撃しよう、例の主人公「魔王様」はどうやらほんとに強い素質があるらしく、という話がだいぶ固まったのが8巻。
 暴力で戦う話ではない。基本的に、理屈を積み上げなければ怪異とは戦えないことになっている。だったら、敵に理性がなければどうしようもない。完全に狂っていて理屈が通用しない相手では、この話では戦いようがない。
 魔術師は異界に精神がとりこまれちゃってるので、基本的に狂っている。そういう設定だったはずだ。
 けれど「敵」である以上、狂いっぱなしでは話にならないのだ。狂った相手をやっつけるには殺すのが一番(あくまで物語の中では)だが、高校生である主人公たちにそういう力はないのである。
 で、実は魔術師たちもそれなりに目的があって行動していることが判明してくる。つかみどころがなかった人の姿が、少しずつ見えてきた。
 主人公たちにも対抗の手段ができてきた。
 ところが。そうなると、狂っていたはずの、その狂いっぷりがいいキャラクターだった人が、正常に見えてきてしまうのである。立っていたキャラクターが、少し揺らぎだしている。
 この小説の世界が持っていた闇の部分が、判明してきちゃったわけである。闇がなくなってきたのだ。もはやどんどん怪談をやれなくなっている。
 それに加え、なにしろもう何人も人が死んでいる話だ。この状況でどうなれば主人公の話が完結するのかも、まだよくわからない。
 とそんなあたりで不安が首をもたげてきたあたり。
 とはいえ「どーすんだこれ」と思うから先を読みたくなる面もあるし、実際ここまでは充分におもしろい。最近ライトノベルではろくでもないものばかり掴まされてきたせいかもしれないんだけど「傑作」の一つという気もしている。
 シリーズものの宿命で、ひずみが少しずつ見えはじめている。これを修正して、ちゃんと話を結論させる手段は、もう残っていないかもしれない。そういう不安が、特に8巻で強かった。

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.コメント

2006/02/27 19:10

Missing3・4 首くくりの物語
 読書

Missing3・4 首くくりの物語
甲田学人 電撃文庫

2006.02.25 00:29 てらしま

Missing2 呪いの物語
2006/01/31 23:33 読書
Missing3・4 首くくりの物語
2006/02/27 19:10 読書
Missing5~8
2006/02/28 01:53 読書
Missing 神隠しの物語
2006/01/24 18:01 読書

 基本的にわたしは、こんなもの書いてるくらいだから、本を好きな人が好きである。本好きに悪い奴は……多いが、これは個人の嗜好の問題なのでいいも悪いもない。
 というわけでこのシリーズ。「本」はかなり重要なテーマの一つなのだ。だから、基本的にはわたしも好きなのである。
 人間の思考や言葉は、力を持っている。他人の意識に影響し、場合によっては操ったり、殺したりすることもできるかもしれない。
 つまり、魔術だ。
 とそういう話。になってきた。
 本というのはつまり言葉の羅列なわけで、だったら、本を読むときはその言葉からなにかを得ようとしているわけである。
 逆に言葉を発するほうは、誰かになにかを与えたくて書いている。
 このシリーズに登場する「魔術」は、文章を書く人や読む人が必ず見る夢そのものだ。
 もしも自分の言葉で人を殺せるなら、それはすばらしいことなのではないかと、思ってしまわない人はいないと思う。
「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」
 という一言で人を殺してしまった話を書いたのは漱石だが、あれこそ魔術そのものだったことになる。けっきょく、本を読む人は少なからず言葉に影響されたくて読んでいるわけで、言葉の力を信じたいのだ。だから漱石のこの小説『こころ』は名作ということになったのだろう。小説というメディアだから評価されたのだともいえる。
 この巻では、そうした言葉の力を中心にした話が展開される。この話はアニメにもマンガにもしないほうがいい。
 今回の小道具は「呪いの本」である。そりゃもう、読んだら首を吊って死ぬくらい呪いだ。
 そういえば文芸部の主人公たち。幾度か登場するこの呪いの本を、わかっていても読む。死ぬと警告されているのに、必ず読む。
 ホラー映画でよくある場面である。物陰から物音がするかなにかして、化け物が出るとわかっているのに、一人で近づいていってしまう。そして案の定、襲われて殺される。
 B級映画なら笑いどころだが、よくできた映画なら、まああとで冷静に考えてみるとおかしいんじゃないかと思うことも多いが、だいたいは緊張感のある、その映画を象徴する場面の一つになる。
 つまり、観客はそれを求めているわけだ。怪物が出そうな場所を登場人物が素通りしてしまうのでは困るのである。
 もしもそこに「呪いの本」があれば、優秀な登場人物はそれを読まなければならないということだ。
 特にこれは小説。読者は言葉の力を信じたい。呪いの本の存在を信じたいと思っている。
 メタフィクションというほどあざといものではないけど、小説というメディアの特性をうまく使ったしかけだ。本当に魔術が存在するこの小説の世界は、本読みにとってはある種の理想郷なのだ。
 読んだら死ぬ呪いの本を、読んでみたいと、どこかで思っている。少なくとも、読んでしまう登場人物たちに共感することはできる。読者である以上、それは当然といえる。
 だから、こういう話はおもしろい。もちろん、ちゃんとまともに小説としてのできも悪くないからいえることだろうけど。
 ということで、テーマがはっきりしてきた。この巻で一つのブレイクスルーを迎えたんじゃないか感。まあ、単純におもしろくなってきてもいるけど。
 はじめのうちはあまりその気じゃなかったんだけど、これは最後まで読もうかな。
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.コメント

2006/02/21 22:01

鉛筆練習:06.02.21
 日記

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einrilyd20060221.jpg
 マビノギのキャラクターがモデル。ポーズもまんま。
 いかにもいろんなところがおかしい気がするけど、でももう飽きたのでこんなもんで。
 モデルはしょせんゲームのポリゴン。細かいところはやっぱりよくわからない。髪形とかも、もっとちゃんと考えなきゃよくわからん。
 とはいえ、やっぱりモデルがあると少しは楽だなあ。ポーズ集とか買ってくるべきかなあ。好きな絵師でも捜して模写するべきかなあ。
 とか考えながら、いまさら絵のための投資をする気にもなれず。

 それにしても、こんなてきとーな練習ばかりではちっとも上達しない気もしてきた。しかも月に1〜2枚じゃあなあ。
 それでも、他人の絵を見る眼が少し細かくなったくらいは収穫だろうか。

そういえば

 マビノギ関係でこんなの見つけた。これだけでけっこう楽しいかも。我が家のマシンだとバグるけど。
 こういうのを、全部フリー素材として公開してくれる人がどこかにいれば、絵の練習なんざ必要なくなるんだが(ぉ


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