SINCE : 2001.05.29
MOVED INTO HERE : 2006.01.01
遊星ゲームズ
FrontPage | RSS


1970/01/01 09:00

塵よりよみがえり
 読書

塵よりよみがえり
レイ・ブラッドベリ 中村融 河出書房新社

2003.3.15 てらしま

amazon
 ティム・バートンに映画化してほしい作品ナンバー1。
 と思ったが、考えてみればこっちの方が時代が先。してみると、すでにバートンはこの世界を映画化したわけか。たぶん『ビートルジュース』か『ナイトメアビフォアクリスマス』あたりで。
 内容はまさにティム・バートン映画の世界(もちろんブラッドベリの世界といいかえるべきだが)。幽霊や妖怪が出てくるけどあまり暗さがなく、賑やかで楽しい。
 人間の子供であるティモシーは、魔力を持つ「一族」に育てられた。一族というのは幽霊や魔女やミイラなんだが、本書の中では曖昧に「一族」という言葉で一括りにしてある。
 そんな環境で育ったティモシーは、自分が生きていることに劣等感を持ったりもする。死んでいれば魔力が使えたり空を飛んだりできるとくれば、その気持ちもわかるでしょう。
 そんなこんなで、ハロウィーンの夜に世界中から一族が集まってきたり、世界で戦争が始まったりして、いろいろ起こる。
『火星年代記』とかと同じような、いろんな短編の間を短編で埋めた形式の本になっている。だから筋道の通った一本の話というわけにはいかない。でもブラッドベリはおもしろい。小説のよさってストーリーじゃないなあと思う。
 ストーリーはないが、ブラッドベリ一流の詩情は健在だ。歳をとるにつれて詩的な文章に磨きがかかっている。
 詩的な表現は時に読みづらいほどで、個人的にはここまでやらなくてもいいとも思う。特に翻訳で読む立場としては、原語の表現が難しいほど翻訳の文章の質も落ちているわけだし。
 しかし、読んだ文章が頭の中で映像に翻訳される、この文章力はすごいと思う。たぶんこの本を読んだ人はみんな同じ映像を思い浮かべただろう。もしその人が、あとで初めて『ビートルジュース』を見たら、「どこかで見たことがある」と感じてしまうはず。


.コメント

1970/01/01 09:00

餓狼伝ⅩⅢ
 読書

餓狼伝ⅩⅢ
夢枕獏 FUTABA・NOVELS

2003.3.19 てらしま

amazon
 最近、グレート巽と聞いてアントニオ猪木を連想しなくなった。ではなにを連想するか。あたりまえといえばあたりまえなんだけど、グレート巽を連想するのである。
 絵として浮かんでくるのは、板垣恵介のマンガ版だ。現実のイノキよりも美男子タイプで、もう少し常識の範疇に入る性格をうかがわせる顔。口調は慇懃で、しかしいつでも奥でなにかをたくらんでいる。
 グレート巽のモデルはアントニオ猪木だったはずだ。事実、始めのうちはそのつもりで読んでいたし、違和感なかった。それなのに、今や私の中では、二人はまったく別の人物になってしまった。
 松尾象山についても同様。やはり絵としてはビデオや写真で見た大山倍達の顔ではなく、マンガ版のものが浮かぶ。
 それはつまり、この小説のキャラクターが独自の人格として、いつのまにか二足歩行を始めていたということだろう。
 ベストセラー小説に対して今さらなにをいっているのかとも思うが、しかしこれは重要だ。
 これからも、現実にいる(いた)格闘家をモデルとしてキャラクターが描かれるのは変わらないと思う。だがその扱われ方は変わるだろう。
 事実。本巻に登場した力王山と現実の力道山とは別人なのだ。これは読めばわかる。
 ちなみに、マンガ版とも違う。前巻のあとがきからすると、またストーリーの予定を変更した様子。
 さあ、こうなってくると油断できないのだ。格闘技経験や身体つきの描写を見れば、たいていは「あ、あいつかな」と連想される格闘家が現実にいる。しかし小説の中では、その格闘家たちの人生に、思いもよらない展開が起こったりする。
 そうすると、読んでいるこちらが揺らいでしまう。本当にこのキャラクターのモデルはあのプロレスラーなのか。実はモデルなんかいないんじゃないのか。そんなことを考えてしまうと、キャラクターのイメージが揺らいでしまうのだ。
 あたりまえの小説として、キャラクターはキャラクターだと思って読めばいい。そうは思うのだが、でもどうしたって、知っている格闘家に重ねてしまうのが人情というもの。しかもその格闘家がけっこう好きな選手だったらなおさらだ。
 さて。そんな話はおいといて。
 物語が進む速さは並の小説の五分の一くらい、というのが夢枕獏の特徴の一つだと思う。それでいうと、このシリーズ五冊で普通の長編一冊分くらいのストーリーになる。
 そこでちょっと考えてみた。『餓狼伝』を五冊読むのにさほどの時間はかからないが、その間に何人のキャラクターが登場するのだろう。
 これはけっこう、すごい人数になると思う。普通なら長編1冊で描ききれる数ではない。ではこのキャラクターたちは無駄なのか。ストーリーを追うためにキャラクターを減らし、丹波文七の周辺だけを追っていったら(本巻は10分の1ほどの尺になる)どうなるだろう?
 それはもう『餓狼伝』ではなくなってしまう。これほどの長さでありながら、『餓狼伝』を要約することはできないのだ。
『餓狼伝』に登場するキャラクターはそれぞれが重要だ。しかしストーリーに重要なのではない。キャラクターはキャラクターとして重要なのである。
 キャラクターが見たいから『餓狼伝』を読む。一冊を読むと、だいたい三回くらい、キャラクター対キャラクターの戦いが見れる。それで一度は満足するが、次に続く話が必ずあるので、先が待ち遠しい。
 これはもう小説を読んでいない。感覚としては、スポーツを観戦しているのだ。
 さらに、あえて、現実のスポーツに近いものをあげるなら。あたりまえだ、プロレスである。格闘だからという意味ではない。選手と選手の間の因縁があり、それに基づいてマッチメークが決まっていく、勝敗以外の部分に大きな意味を持たせている、という部分が、エンドレスで続く『餓狼伝』のような小説シリーズに似ている。
 アメリカのプロレス団体WWEは、低俗さとソープオペラで世界一の団体となった。あのショーにおいて、低俗さとソープオペラはどちらも重要だ。どちらも、我々大衆が常に求めるものだから。
『餓狼伝』は、このWWEの方程式と同じものを、さらに高いレベルで持っていると思う。暴力という低俗さは美や宗教感情にまで昇華されている。因縁のソープオペラは、そのキャラクターがおくってきた人生全体にまでおよぶ。
 結論としては、またあたりまえのことだが、『餓狼伝』は良質のプロレス小説だ。現実の、日本のプロレスでは、今では絶対に得られない満足を得られる、ユートピアのプロレスなのである。
 我々はテレビの前に座って、ギリシャ彫刻みたいな男たちの戦いを観戦している。『餓狼伝』を読むというのはそういうことだ。日本ではとっくに失われてしまっていた、しかし最近のブームで、桜庭やボブ・サップや吉田秀彦がとり戻しつつある、「強さ」というファンタジーを見せてくれる。私たち大衆は、いつだってそういうエンターテイメントを求めている。


.コメント

1970/01/01 09:00

モンスター・ドライヴイン
 読書

モンスター・ドライヴイン
ジョー・R・ランズデール 尾之上浩司訳 創元文庫SF

2003.4.9 てらしま

amazon
 いつものB級ホラーオールナイトでバカ騒ぎするため、ドライヴイン・シアターに集まった主人公たち。上映作品は『アルバート・ショック』『死霊のはらわた』『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド ゾンビの誕生』『大工道具箱連続殺人』『悪魔のいけにえ』の五本。しかしそこに血の色の彗星が落ちてきて、ドライヴインはB級ホラーそっくりの異世界になってしまった!
 どう異世界かというと、青い稲妻を浴びた人間がグロテスクな化け物に変身してしまったり暴徒と化した人間たちが人肉を喰らったり。そんな狂気の中、主人公たちは友情と人間性を武器に戦う。
 ひどいバカ話かと思っていたら、意外にまじめだ。B級ホラー風モンスターも、たくさん出てくるわけではない。
 プロットを見て思い出すのは『ロッキーホラーショー』とか『フロムダスク・ティルドーン』とか。もっと適切なのは『インベイジョンアース』か。しかしこれはもっとまともな話。げらげら笑えるバカ話を期待すると肩すかしを喰う。
 グロテスクなモンスターは、むしろ狂気にかられた人間たちで、周りの人間たちが人肉を喰ったり悪魔がくれるポップコーンを喰ったりしている中、主人公は人間の尊厳を信じようとして奮闘する。
 なるほど、青春小説だった。『ロッキーホラーショー』ではなく『バトルロワイアル』だったのである。とんでもない状況設定がウリのネタ小説かと思っていたら、実は青春小説としてそれなりに感動できてしまう、という構造には、なにか万国に共通のウケる要素があるんじゃないかとも思う。
 むろん、私個人の趣味としては徹底的にバカな方が好きだ。せっかくなら本物のゾンビやホッケーのマスクをかぶった怪人も出してしまえばいいのに。この本でいえば、私はそう思う。
 だが『バトルロワイアル』だって悪かなかったし、この本もけっこう面白かった。
 なんとなくだまされているような気もしないではない。B級ホラーというキャッチフレーズがなかったら、私だってこの本を手にとってはいないし。だが、面白いものは面白い。
 どんなに不当なやり方だとしても、キャッチセールスというのは実に有効な手段なのだと思う。もっともそれがゆるせるのは、それなりに面白い内容がともなう、この本のような商品に出会った時だけだろうけど。


.コメント

1970/01/01 09:00

ブルーローズ・ブルース
 読書

ブルーローズ・ブルース
久藤冬貴 集英社コバルト文庫

2003.4.11 てらしま

amazon
 前作『パーティーのその前に』が正直いって微妙だった。でもほら、好きか嫌いかというのはまた別の問題でさ。作品の完成度は「高い」というほどではないけど、私はわりと好き、というか気になる作品だったのだ。
 こだわりがない、気楽な文体だけど、その中にちょっとまじめな人間心理も描こうとするのがこの人のスタイル。でありながらどこかオタクっぽいのも、私が惹かれる理由なのかも。雑誌「コバルト」2002年10月号に載った「ソルジャー・シンドローム」が私的にかなりハマリで、それでこの作家に注目した。長編2作目の本作になって、とうとう久藤冬貴の真価が発揮されてきた気がする。
 舞台は大正時代。コバルト文庫なので(というか大正時代といえばって感じだが)、袴を着たハイカラ女学生が主人公である。
 銅山成金に嫁いだ親友が困っていると手紙をもらい、いてもたってもいられず山の別荘に向かう主人公。そこで色白の美少年に出会い恋に落ちてしまったり、タイトルにある青い薔薇が絡んだ陰謀が出てきたりする。
 余談だが、なんだか大正モノというのが一つのジャンルのようになってしまっている。でもこれはよく考えると面白い。大正時代はたったの十数年しかなかったはずで、時代のはざまであらゆるものがめまぐるしく変わっていくことこそが大正という時代であったはずだからだ。この時代をとりあげる最大の利点は袴姿の女学生だと(うーん)私は思うのだが、これだって流行していた時期はさほど長くない。
 まるで「大正」という時代が以前からずっと続いていたかのように描かれる作品すらある。この原因は、年号が変わっただけで「時代」と呼んでしまう日本の慣習にある気はする。
 こだわりのない文体で気楽なキャラクターたちが描かれる。そうでありながら主人公の少女が世の中の闇に触れてしまい、しかし絶望せずにがんばる。そういうのがこの作家がこれまで貫いてきたスタイルだ。時代の変革とともに人間たちの本音が表出せざるをえない(と想像できる)大正時代というのは、これに合っていると思う。
 前作『パーティーのその前に』が微妙だったとは最初に書いた。なぜかといえば、悪いことをすべておしつける「悪役」が登場していたためだ。このテーマで主人公ががんばるなら、悪役がいてはならないと思う。少なくとも主人公がそれを「悪」と断定してはならないんじゃないか。
 それが、本作では悪い奴が最後まで登場しない。愚かな人、不幸な人は登場するが、主人公が同情する余地を残してある。お気楽なキャラクターたちは読んでいて楽しいし、これはけっこう面白かった。
 あとは、この先大正の世に次々と訪れる変化をどう料理するか。もしシリーズが続くなら、そのへんにも注目したい。


.コメント

1970/01/01 09:00

マリア様がみてる 真夏の一ページ
 読書

マリア様がみてる 真夏の一ページ
今野緒雪 集英社コバルト文庫

2003.4.13 てらしま

amazon
既刊の評
マリア様がみてるシリーズ
マリア様がみてる レイニーブルー
マリア様がみてる パラソルをさして
マリア様がみてる 子羊たちの休暇
 三話入ってる、気楽なオムニバス。しかもまだ夏休みである。話はぜんぜん進まないが、ちょっとだけ次への伏線らしきものがちらほら。斬新な組み合わせの二人が対面を果たしたりとか。
 それにしてもこのシリーズ、もはや登場人物たちがふつーに生活してるだけでいいんだなあ。私もそれを喜んで読んでるわけだし。
 こう書いてしまうと簡単そうだが、たぶんこれは考える以上にすごいことだ。ふつーに生活している場面が充分面白いし、話が進まないからといって苦痛ではない。もっともこれは私の感想だ。私自身すでにファンになってしまっているので、公平な判断を下せているとは思わない方がいい。
 とはいえ、いつまでもこのままではないだろう。そういう信頼感を、このシリーズはすでに獲得している。それはたぶん、一巻に一ヶ月ずつ進む学園生活のためだ。高校生の生活には、ことに主人公が所属する生徒会の生活にはさまざまなイベントがある。好むと好まざるとに関わらず時間は過ぎ、イベントはやってくるのである。
 なにしろ順番でいくと次は一〇月。学園祭なわけで、今度こそは真面目な(?)新展開をしないわけにはいかないだろう。主人公の妹とか。
 その前の息継ぎと思えば、話が進まなくとも、あらぬ方向に脱線していっても耐えられる。ということかもしれない。
 まじめな話もあるが、へろへろとした話もある。このバランスがいい。
 たとえば前巻『子羊たちの休暇』と今回のような、お気楽で、本筋とはそれほど深く関わってこない話ばかりが延々と続いたら? もはやだいぶ安定期に入ってしまった人間関係には特別変化もなく、どのカップルもラブラブで、しあわせだなぁという話ばかりが繰り返されたら? そういうシリーズになってしまったとしたら、果たして読むだろうか?
 ……読むな。
 ああ、やっぱり俺はファンなんだ。ふーん。
 なにがいいたいかというと、しあわせな話をしあわせそうに書くというのはひどく難しいことだと思うわけで、それを続けている限り、私は今野緒雪を読み続けるだろうなあと思うわけである。
 たぶん今回のような幸せな瞬間の思い出のために高校という舞台があり、そのためにこそ人間関係のすれ違いやらなにやらが起こっていくわけで、それはここまでのところちゃんと成功している。だから別に事件がなにもなくたって、登場人物たちが思い出を作れていればいいんだろう。たぶん。


.コメント

FrontPageを



Copyright © 2001-2024 てらしま(terrasima @gmail.com)