2003.4.19 てらしま
これは面白いっすよ。
事故で船を失った蒸気船会社経営者アブナー・マーシュのもとに、ある日奇妙な男が現れる。その男はいった。「わたしの名前はジョシュア・アントン・ヨークです、船長。(略)いずれあなたとは、共同経営者ばかりではなく、友人になりたいと望んでいます」
ジョシュアはアブナーに莫大な金を出し、巨大な蒸気船フィーヴァードリーム号を建造する。不吉な響きのこの船の上で物語が展開していくわけだが、この部分、ミシシッピの船乗りたちの、粗野な世界が実にいい。
ところで、実はジョシュアは血を吸わなければ生きてゆけない吸血鬼。「ブラッドマスター」である彼の目的は、呪われた宿命から仲間たちを解放すること。一方、もう一人のブラッドマスターにして悪の化身ダモン・ジュリアンは非道の限りを尽くしつつアブナーたちに迫っていた。
こうして書いていても「どんな話だよ」と思う。でも読んでいけば、一つ一つの要素がしっかりと計算されていることがわかる。
『明日に向かって撃て!』『華麗なるヒコーキ野郎』日本の作品なら『紅の豚』みたいな、大筋はああいうものだと思えば、間違いではないと思う。荒々しくて、いいかげんで陽気な連中の世界を描き出し、しかし時代が変化していく中で彼らの居場所はなくなっていってしまう。でもあのころは楽しかったなあ、みたいなノスタルジーの話である。
しかしそこに吸血鬼が絡んでくる。
船乗りたちが船で競争しているミシシッピ河に、吸血鬼が出てくる。なんかもう大変なとりあわせだ。こりゃいったいどうなるんだろうと思ってしまうと、あとは好奇心に身を任せれば、いつの間にか読み終わっている。
太古から続く吸血鬼と人間の歴史が明らかにされていったりしながら、しかし物語の軸はあくまでアブナーとジョシュアの二人の関係に置かれる。この二人は種族が違うわけで、わかりあうのはなかなか難しいのだが、壮麗な蒸気船フィーヴァードリームをとおして友情が生まれていく。
蒸気船や吸血鬼という一つ一つの要素が魅力的で、別々にしたって面白い作品になるはずのものを、全部まとめてしまった。これは勇気ある決断だと思う。この本では、驚いたことにその全部が始めからそこにあったかのよう。
蒸気船乗りたちの世界を描き、吸血鬼たちの戦いを描き、人間と吸血鬼の友情を描き、変わりゆく時代を描く。でも読んでいる方は、ただ続きが読みたくて読んでいる。だから意識しないのだが、読み終わってみれば、数冊分の満足感があった。
あとで話を思いかえしてみれば、これは実はすごい小説だったんじゃないかと思えてくる。
あらすじを書けといわれたら、三つくらいのあらすじを平行で書かなければならないだろう。それなのにそれぞれの話が別にあるわけではなく、どれも同じように魅力的で重要なのだ。「テーマが絞れていない」とか、作品の評ではよく使われる言葉だ。しかしこの本については、それは批判の言葉にならない。反論はこういえばいい。「じゃあつまらなかったわけ?」
たしかに、メタファーだのなんだのといえばいろんな読み方ができる。そういう深みがあることが、さらに話の魅力を増している。でも私がもっとも気に入っているのは、ただ面白いからというだけで読める、エンターテイメントであったというところだ。
2003.5.10 てらしま
既刊の評
ブルーローズ・ブルース
私的に注目の作家、久藤冬貴の新作。こんなに早く出るとは思わなかった、『ブルーローズ・ブルース』の続編である。
前作に登場した商家のお嬢様、芙美は書生の風見と婚約することになってしまっている。それはそれとして、女学校の同級生が婚約したのだが、彼女には別の思い人がいるらしく、芙美に相談を持ちかけたその日に失踪してしまう。
それを捜してかけずり回る話ということになるのだが。もはや内容は可もなく不可もなくという感じである。前作とほとんど同じ雰囲気で、想像したままの完成度の話が読める。読んで損はしない。
この人の作風は、前作で一度完成してしまったのだと思う。なんとなくコバルトにはそういう作家が多いが、安定した完成度の高いスタイルで、読めば充分満足できるのだが、がっかりすることも新発見もない。買っても損しないことが始めからわかっているから安心できる。
こういう恋愛モノでは、主人公の周囲にさまざまな事件が起こるけど主人公とその思い人との関係には進展も後退もない。たぶんそうすることでシリーズを続けられるからなんだろう。そういう作家に、久藤冬貴もなろうとしている気がする。
それはそれでけっこうなことだ。私はそういう作品はけっこう好きである。だが、一作目から新人に注目して追っているファンの一人としては、作家が形を決めてまとまっていってしまうのがなんか残念なような。しかもその変化がまたやけに速いし。
2003.5.18 てらしま
注目のサイモン・クーパーが書いた、2002年ワールドカップの観戦記。
いろんな雑誌に書かれたコラムをまとめたものなので、一冊の本としてはまとまりに欠けるし、当時の「速報記事」であったものを今さら読むのも少し興ざめしてしまうという部分はあるが、しかしやっぱりサイモン・クーパーはおもしろい。
基本的には差別なく多くの国を紹介する。だがやはり、どうしたって偏りが出てしまう。この人、経歴を見るとかなりいろいろな国に住んだ経験があるらしいが、とはいってもアジアにいたことはないわけだし、住んだことのある国の記事が他より詳しくなってしまうのは当然だ。
あの狂乱の一ヶ月に、たぶん恐ろしく多忙だったはずのジャーナリストが書いていたコラムである。もう忘れかけていたワールドカップ当時の空気がよく表れていて、興味深い。一方、やはり調査などに費やす時間はなかったのだろう、ほとんどが彼自身の個人的な感想のようになっており、まあいってみれば、金子達仁がNumberに連載してる、好き放題いってるやつと大差ない。エッセイだから、その人がなにを考えるのかというところに興味がなければ読んでもしかたない。
サイモン・クーパーは『サッカーの敵』を書いた人だ。サッカーが政治や人々の心にどんな影響を及ぼすのかということをずっと考えてきて、たぶんよく理解している。この本にしても、ただのサッカー好きが書いたエッセイといえばそれまで。でもサイモン・クーパーが書いたエッセイだと思えば、価値が生まれる。
つまり、『サッカーの敵』を読まずにこの本を読んでしまうことには少しの意味もないが、『サッカーの敵』の補足としてなら意味がある。
サイモン・クーパーの価値とは、その国際性と独特の視点だ。いきすぎたサッカーファンはサッカーにとって敵である。ある視点からはこれほど明らかなこともないのだが、これは普段、あえて見ぬふりをされている事実なんじゃないか。
そして一方、サッカーはあくまでサッカーにすぎないことを、この人は必ず強調する。サッカーは人々の意識に影響を与えるが、政治は普通、理念よりも利益のために動く。だから、たとえばアルゼンチンがワールドカップで優勝していたとしたって、あの国が立ち直ることはなかった。
だが、サッカーがその国の状況をよく表現してしまうことは、サイモン・クーパーも認める。この人はたぶん、サッカーの力を誰よりも強く信じたいのじゃないか。この本のように多忙な中で書かれた文章では、時おり作家の本音がちらちらと顔を出す。
サッカーには人々の意識を動かす力がある。だがそれはけっきょく、国を(もしくは人間を)変える力とは別のものだ。そんな二律背反を認識し、描き出してみせるジャーナリストは、サイモン・クーパーしか知らない。
もう一つ。日本はやはり極東、Far Eastの国だ。ヨーロッパからはあまりに遠い。たとえば日本サッカーの現状をこの本から読みとろうとすることはできないと思う。たぶん、日本のことは日本にいる我々が一番よく知っている。
ところで、本の題名である『ナノ・フットボールの時代』だが、なんとも内容とかけ離れたタイトルで、始めはよく意味がわからなかった。最後まで読んでやっとわかったが、これはクーパーの意見を恣意的に曲解した立場によるものだとしか思えなかった。本の内容とも印象が全然違う。いい題名とはとてもいえない。
サッカー本の翻訳ではこういうことがよくある。出版側の人間が自分の意見を勝手につけ足したり、原本の作家がさほど意図していなかった部分を強調してしまったり。この本の場合はだいぶましな方なのだが、とはいえ、サイモン・クーパーさえもがついに犠牲になってしまったと考えると悲しくなる。
2003.5.22 てらしま
東洋風の異世界で、七つの国が覇権を競っている。そのうちの一つ、七宮カセンのお姫さまに祭り上げられた一二歳の少女の話。
印象としては、よくできた同人小説という感じである。それも、ウェブに公開されているたぐいのものだ。頻繁な改行、改段のしかたもそうしたものを思い起こさせる。行間に<p>や<br>などのタグが見えてきそう。
自分でもオリジナル小説を公開している手前、あまりいってもしかたないが、ウェブ小説でおもしろいものに出会うことは滅多にない。プロじゃない人たちが勝手に公開しているんだから、これは当然である。
そんな中で、なぜか、ウェブ小説には傾向があると思う。十二国記風とでもいうか、どこか異世界を舞台にしたファンタジーで、王女や王など各国の要人が主要な登場人物に名を連ねており、主人公はその世界の歴史の流れの中で数奇な人生を送る。そうした内容の小説が、なぜかとても多い。こうなると、もはや「ウェブ小説」というジャンルを一つ設立してしまってもかまわないんじゃないかとさえ思う。
しかし、やはり同人なので、平均的なレベルは低い。このジャンルから傑作が生まれる可能性は少ない。
私自身はさほどウェブで小説を読むことが好きなわけでもなく、さほどの思い入れもない。しかし、もったいないとは思うのだ。日本でこれだけ書かれている分野は他にないのだから。
そこで、この『七姫物語』である。別にこの小説が特別な世界設定を持っているわけでもなく、キャラクターに目を引かれるわけでもない。しかし、私個人の感想として、あるていど出来のいいウェブ小説に出会えたと思うと少しだけうれしかったのだ。
2003.5.26 てらしま
それにしてもてきとーな話だった。悪ノリして友だちと話すバカ話を、ほんとに小説にしてしまったという感じである。しかしこの本のテーマはまさにその友情にあるわけで、そう思うと実はうまい気がする。
大学で友だちと作った非公認の合唱サークル。単位を省みず友だちとの時間を過ごしてしまう主人公たち。彼女たちの、いちいちいきあたりばったりな行動ぶり。てきとーででたらめで陽気。たしかに大学ってこういうところだよねと思う。
話はあまり紹介してもしかたないので書かないのだが、無軌道な主人公たちと同じように予想もつかない展開をみせる。それが楽しい。
私が思い出したのは、同じように大学生の独特な世界を描いた『匣の中の失楽』(竹本健治 講談社ノベルス)だった。さまざまな若者が集まった無法地帯である大学は、映画で描かれる西部時代に似ている。『匣の中の失楽』はタイトルからも明らかなように、そうした世界の楽しさとその崩壊を描いた小説だった。使われた手法がややこしすぎて、テーマがかすんでしまっている気もしたが。
卓球小説ではない。なにしろ主人公たちのサークルは合唱部なんだし。だから、スポ根も出てこない。スポーツを題材にした作品では、けっきょく最後に根性を説いてしまうことが多いが、それを「やらないことができる」ところが、野村美月の面白いところだ。
発行された順序が逆だが『天使のベースボール』もそうだった。スポーツの楽しさを描くのだが、それが技術論や根性論に向かうことはない。読むたびに、いったいこの人はなにをやりたいのかと思う。
基本的には、まじめなことはいわないバカ話だ。というか、デビュー作である本作はとんでもなくバカなのである。しかしそれが、狙ったあざとさを感じさせない。普通,発行順を逆に読んでしまうと、後から読んだデビュー作には拍子抜けしてしまうことが多い。最初に読んだものがつまらなかったらその作家の他の作品を読もうと思わないのだから、これは当然だ。しかし野村美月の場合はまったくそんなことがなかった。
前に読んだのも面白かった。でも後から読んだデビュー作はもっと面白かった。思った以上にスケールの大きい作家なのかもしれない。