2人用ゲームは、ゲームを作ること自体はマルチゲームより簡単だ。マルチゲームに特有のいろいろな問題を考えなくてすむから。2人用ゲームをデザインする方法と、3人以上のゲームをデザインする方法とではまったく違う。
そのため、ゲームの内容、雰囲気などの面でも違いが出ている。2人専用ゲームと3人用ゲームとでは、趣がだいぶ違うのだ。
たとえば、戦闘をテーマにしたゲームは2人用のほうが作りやすい。2人用では、相手の損は必ず自分の得だ。だから、攻撃をすればそれはそのまま勝利につながる。マルチゲームでは、第3者プレイヤーがいるからこうはいかない。
名作『バトルライン』などは、まさに2人用であることに依存した戦闘ゲームといえるだろう。またマジック:ザ・ギャザリングや他のいろいろなトレーディングカードゲームなどは、だいたいのものが戦闘をテーマにしている。
しかし、マルチゲームでは素直に戦闘をテーマにできない。
そのため、マルチゲームはいろいろな紆余曲折をたどって試行錯誤を続けてきた。オークション、ワーカープレイスメント、などなどの新システムが生み出されたのもそのためといえる。2人用ゲームだけでいいのなら、そんな努力は必要なかったのだ。
あと、2人用はアブストラクトが多いという面もある。この理由ははっきりとはわからないが、たぶん、システムとテーマとの兼ね合いのためだろう。
オークションやワーカープレイスメントや、そういう複雑なシステムを採用したら、それを説明するために世界観が必要になる。だから、マルチゲームではテーマが必要なのだ。
逆に、はるかにシンプルなシステムで成立してしまう2人用ゲームでは、世界観をつける必要がない。いやむしろ、たぶん、シンプルすぎてテーマになかなか結びつかない。だから、アブストラクトが多くなる。
戦闘と、アブストラクト。2人用ゲームを、わたしはおおむねそういう風に理解していた。
しかし最近、2人用ゲームもいろいろやってるんだなということに気づきはじめた。
2人用でも、マルチゲーム的なプレイ感をとりこもうという流れを、少し感じるのだ。
たとえばマルチゲームでいういわゆる「ソロプレイ感」を軸とした箱庭ゲームのプレイ感は、2人用には不要のモノだった。また、ワーカープレイスメントのように、直接の殴り合いではない間接的なインタラクションも、2人用には必要ない。
しかし、そうしたマルチゲームで生まれたデザインは、なにしろおもしろいのだ。だったら2人用ゲームにだって、という、そういう流れがあるんじゃないかと、思うんである。
具体的には、テーマを大事にすること、インタラクションを直接の攻撃ではなくすこと、というあたりだろうか。
ドラゴンの心臓は、とにかくテーマが明解だ。ボード上に勇者がいて、お姫様がいて、ドラゴンがいる。そして、ゲーム内容もまさにボードに描かれているとおり。
手札から1種類のカードを選び、ボード上の同じ絵が描かれたマスに置く。そうすると、そのカードの能力を発動できる。
「ヒーロー」は、ボード上に置かれている「トロル」か「プリンセス」のカードを獲得する。「プリンセス」は「宝箱」か「石化ドラゴン」を獲得する。
弓を構えた「ドラゴンハンター」は、空を飛ぶ「ファイアードラゴン」を獲得する。
そのあたりは、ボードにちゃんと矢印が描かれている。わかりやすい。
カードをプレイしないことはできないのだけど、たとえば宝箱をプレイしたら次の相手のターンにプリンセスでとられてしまうかもしれない。そういう、なんとなくかけひき的なものもあり。
しかしなにより思うのは、このゲーム、直接殴りあうゲームではないんである。このテーマなら、素直に作れば、ドラゴン側と勇者側に分かれて殴りあうゲームでもよかったはずなのに。
それで、さっき書いたようなことを感じたのだ。
ボード上に配置するカードを通しての、まあ攻撃というイメージではない間接的なインタラクションがゲームを成り立たせている。これは、マルチゲームで発達したデザインに近いように思える。
2人用らしくシンプルなシステム、だが、ルールが少ないわけではない。アブストラクトゲームよりはだいぶ多い。なにしろ、カードの効果がそれぞれ違うのだ。
そのために、世界観が必要になっている。これがただのアイコンやカードの色だったらちょっと難しいゲームになっているだろうが、誰でもわかるテーマをあてはめることで、プレイアビリティを確保することに成功している。
2人用ゲームのそういう流れは、少し前からあったかと思う。というか実のところ、2人用ゲームを積極的に買うほうではないので、もっと前からやっていたのだろうと思うのだけど。
『大聖堂の建設』あたりで、ちょっと気になりはじめた。この『ドラゴンの心臓』で、これは本当に無視できないのかもしれないと思いはじめている。
はっくる -2010/12/01 14:18
場を介して相手とやり取りをするという意味ではジャイプールに通じるものがあるのでしょうか?
ジャイプールはそこまで複雑なルールではないですけどね^^;
てらしま -2010/12/04 19:29
そうですねー。もっとゆるい感じかもです。カードの種類も枚数も多いので、けっこう運が強くなってて、わりといい感じに気軽かなと思います。
ジャイプールもおもしろいですね。
作ってます。新しいやつ。
テーブルゲームフェスティバル2010にもコミックマーケットにも申し込んでます。どちらもまだ確定してないので、どうなるんだろうという感じだけど。
今度のゲームは、建物を建てたりするゲームの予定。プエルトリコとかサンファンとか、ほかいろいろみたいな? 建物タイルがあって、それを獲得すると強くなったりするやつ。
というかいま毎日一人で回して調整中なのです。建物ゲーの調整はいろいろ大変ですね。なかなか決まりませんねー。
印刷して切って、一人で回してみて、をずっとくりかえしてます。先にプログラムで作ってみちゃったほうが早かった気になる……。
そんなわたしよりも苦労してるのは絵描きなわけですが(笑)。
はじめてから1ヶ月半くらい? 毎日そんなことやってたけど。だいぶまとまってきた気がする。はじめのうちは「うーん、これ作るのかなあ」とか悩んでたけど、やっぱりね、調整が進んでくると、少しずつ自信が出てきたりもする。
テーブルゲームフェスティバル2010でもし見かけたら、ちょっと見てやってください。
やりやがった。やりやがった。
わたしはですね。ガンダム00が好きなわけです。一番好きなガンダムは? と訊かれれば00と答えます。
しかし、出来がいいかといえば欠点は多い。おすすめかといわれればそんなことはぜんぜんない。
それでも、好きなのは00なわけです。
まあたぶん、軌道エレベータが出てきたり「アメリカ」という単語が登場する世界からはじまって本当に時代が進んでいく感じとか、主人公側よりも世界全体の科学技術がすごい勢いで発展していったり、あとハリ・セルダン(アシモフ『ファウンデーション』シリーズに登場する天才科学者)みたいなのがでてきたり、いや、出てくりゃいいというわけではないのだけど、そういうところがたぶん。
じっさい、現実世界の延長上としてありえなくもない(ように見えなくもない)未来を
どうしようもない生理反応のひとつとして好きなわけです。そういうものもあると思うのです。
で、その映画を観てきた。
これもう、おもしろかったともつまらなかったともいいません。出来がよかったかどうかとか、あのへんがよくなかったとかよかったとか、そんなこともいいません。
とりあえず、ずっとにやにやしながら観てた。
わたしのような人間が予想した、そのとおりの方向に、まっすぐ突っ走ってました。さすがに驚いた。こういうの、やりたくてもやれない人たちがたくさんいるだろう。たぶん市場の要請的に、ガンダムだからやれた。マクロスでさえやらなかった宙域まで踏みこんでる。なんだろうなあ。とりあえず「おめでとう」とか?
ガンダムらしくない? 意味がわからない? なにあの○○? そうかもしれないけど。それでも、ガンダムはこれで、本来くるべき場所にきたと感じてる。30年かかってようやく。勝手な言い分だけど。
T-ruth -2010/09/23 07:08
見てきて思いました。まったく同意します。
なかた -2010/09/24 11:40
でも市場の要請的には「ガンダム」って名前を冠した大地雷映画だと思うなあ。
ただ、ガンダムであることには意味があって、少なくともガンダムが最初に提示したものを突き詰めたらこうなる、っていうベクトルには乗ってる。あと、ガンダム的なリアリズムの要請があるが故に、エウレカセブンになってしまわずに踏みとどまれた、という感じもした(エウレカセブンは、あれはあれで一貫していて素晴らしいけど)。
いろんなところがアンバランスで、教科書的にはどうしようもないかもだけど、でも成すべき突破はきちんと成した。もうその一点だけで大絶賛すべきだと思う。
twitterでこれまでに見かけた中で屈指の名言と思っているのが、これ。
アプリ開発者は、自分の作っているものが、キュウリ味のペプシよりユーザーを幸せにできるか、常に自問し続けることが大事だと思います。
ボードゲームにあてはめると、こうなる。
ゲームデザイナーは、自分の作っているものが、でじこの人生ゲームよりプレイヤーを幸せにできるか、常に自問し続けることが大事だと思います。
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PYTHON-OPOLYなどで置きかえてもいい。
じっさいこれ、ものすごく大事なことだと思う。いや本気で。
キュウリ味のペプシは、少なくともユーザを不幸にはしない。飲めば不幸になる人もいるかもしれないけど、それだって、キュウリ味とわかって飲んだのだ。不味かったとしても、話のネタにはなる。おそらく多くのユーザが、それくらいのつもりで飲むものだろう。
キュウリ味のペプシに勝っているなら。少なくともユーザを不幸にはしない。これだけでも大変な価値があるんじゃないか。
話のネタ、というのは強力な概念だ。キュウリ味のペプシはその点で、世の中のあらゆる無価値なものと、マイナスの価値を持つものを上回る。
ボードゲームでキュウリ味のペプシに相当するものとして、でじこの人生ゲームというゲームを挙げることができる。
でじこの人生ゲームは、なにしろベースからして人生ゲームだし、そこにてきとうにキャラクターをあてて、てきとうにカードの効果を書き、じつにてきとうに作られたゲームだ。バランスは完全に破綻しており、ゴールするころには半数以上のプレイヤーが破産している。
そんなゲームでも。デ・ジ・キャラットと人生ゲームを知っていれば、話のネタにはできる。キュウリ味のペプシ同様である。
たとえばの話。
ゲームルールが機能しておらず、プレイ不可能なゲームがあったとする。
これはもう、あきらかに、でじこの人生ゲーム以下だろう。人生ゲームはプレイ可能だからだ。
プレイ可能だとしても。インタフェースが考慮されておらず、プレイが困難なほどわかりにくかったりとか。
ゲームになっていない、という場合もある。たとえば、明らかにわかる「1番手必勝」とか。プレイヤーの選択に関わらずサイコロ次第とか。
そういう、そもそも成立していないものでは、でじこの人生ゲームに勝てない。
でじこの人生ゲームは、少なくともプレイ可能だ。ルーレットを回して、ゲラゲラ笑うこともできる。楽しみかたはあるのだ。ゲームとしてではないとしても。
また、たとえば。
既存の有名ゲームのクローンを作ったとしよう。ただ、そのままではなんだから、ちょっとした追加要素、例えば「キャラクターカード」かなにかを追加したとする。
他のルールはそのままだ。さてこのゲーム、でじこの人生ゲームに勝っているだろうか?
おそらくは、オリジナルの有名ゲームより優れたゲームにはなっていないだろう。追加することでゲームがよくなることはない。
そして、わたしはオリジナルを知っている。わたしなら、でじこの人生ゲームを選ぶ。でじこがいるぶん、少しだけ、あちらに分がある。
ただ、これはテーマにしたキャラクター次第かもしれない。デ・ジ・キャラットか、他のキャラクターかの違いだ。
この場合は「でじこの人生ゲーム並み」くらいになっているのかもしれない。
既存のゲームに、一箇所でも勝っているか? 畢竟、そういうことになるんじゃないかと思う。
あらゆる面でカタンに負けているゲームがあったとしたら。プレイヤーにとっては、カタンをやればいいことになる。
カタンのバリアントにはあまりいいものがなく、わりと現実にそんな事態になっている気もするけど……。
(そう思っていたら、傑作もあると聞いたけど)
もちろん、違うゲームになっているならいい。既存のゲームと違うロジックがあり、機能しているのなら、それはきっとプレイする理由になる(追加しただけではだいたいダメだ)。
既存のなにかの組み合わせだとしても、見たことのない組み合わせなら大丈夫。それはうまいニッチを探りあてたといえるだろう。
だが、すべてあらゆる面で、あるひとつのゲームに負けているのだったら。そのゲームは、でじこの人生ゲームに劣るのだ。
でじこの人生ゲーム(あるいはキュウリ味のペプシ)、意外と強敵だと思う。
好きなタイプのゲームのようなんだけど。しょうじきなところ、あまりいいことは書けない。単純にデベロップ不足だろう。
いろいろと挑戦しているのだが、あまり機能していないという印象がしょうじきなところだ。
でも、好きなタイプのゲームだし挑戦は評価したいみたいな気もする。気にはなるゲームである。
昔のアステカの話。カカオをケツァルコアトル神に捧げるらしい。チョコラトルというのはケツァルコアトルのことで、チョコレートの語源らしいですよ。
カカオを収穫する、ピラミッドを造る、カカオを調理する、あとTachliとかいうスポーツをやる、という、なんとも支離滅裂な内容なのだけど。
ゲームは「カカオカード」をつかった入札が主になる。1枚ずつ配られるプレイヤーボードに描かれた6つのアクションに、裏向きで2枚ずつ入札する(手札は12枚)。
各アクションで、高い入札をしたプレイヤーが、そのアクションを実行できる。というわけで。
カードがワーカーだと思えば、ワーカープレイスメントっぽいともいえる。でもまあ、違う。配置することに意味があるとはいえないから。いわゆるブラインドオークションともとれる。でもそれも違う。各アクションに配置する枚数は固定で2枚。誰がどこを優先したのかという、情報がない。
まあそのあたり、既存のシステムに沿わなければならないということではないのだけど。まあ少々、中途半端になっちゃったかなあと思う。
あとちなみに、手札のカードは0から12の数字が書かれているのだけど。これを2枚ずつ配置というのは、あまり意味がない。手札は6枚でよかっただろうなあと思う。
……ボードゲームというのはけっこう、デザイナーにとって残酷なところもあって。こういうシステム上の無駄は、ひとつでもわりと許されない。ゲーム的に意味があれば(戦略の木が分岐すれば)まあ、いいのだけど。
6つのアクションへの入札方法は3種類あって、ラウンドごとに変わる。トップの得点によって決まるのだが。
「全部配置する」「1個ずつ公開しながら配置する」「まず全部に1枚ずつ入札してから公開し、2枚目を置いていく」という感じで、微妙に置きかたが変わる。
これ、挑戦は認めたいけど。実質上ほぼ意味をなさないルールになってたり……。
他にも、不満はいろいろあるのだけど。
なんかこう、わざとやってるんじゃないかと思うくらい、無駄が多い。ルールを読んでいて、いちいちツッコミどころがあるのだ。
個々の要素はちゃんと作られているし、コンポーネントも手を抜いた感じではない。だから、なんでこうなってるんだろうと思う。
とはいえ、無駄といっても不備があるわけではないし、ちゃんとルールを運用すればおもしろくないわけでもない。
なので、とりあえずシステム上の無駄は気にしないことにすると。
このゲーム、バランス面でも、少しふつうじゃないことをやっている。
家をつくるとか、手札を強化するとか。けっこう、生産力を向上するための選択肢がある。それも、強力だ。
しかし、直悦得点を得るアクションの効率は序盤ほど高い。生産力への投資をすれば生産が拡大するかと思えば……、たしかに強くなるのだけど、そのころにはもう盤面に得点が残っていない。
拡大再生産に見せかけた、叙述トリックみたいなものだ。はじめから生産力に投資しないほうがたぶん強い、というような、奇妙なバランスになっている。
ついでにいえば。これは悪いところではないのだけど。サイコロをつかう。
出た目の数だけ得点とか、そんな感じの使いかただ。乱暴といえば乱暴なダイスだけど。
じつは、これ自体はぜんぜんかまわない。上に書いたような他の欠点のように、ロジックが破綻してはいない。
でも、かまわないのだけど、サイコロを無闇に嫌う人も多いから……。ただでさえデベロップ不足のところに、さらに損してるなあと思う。
あーやっぱり悪いことばっかり書いてるなあ。
でも、じつはそれほど嫌いじゃないのですよ。中途半端ではあるけど、アクションに入札するシステムは(無駄を気にしなければ)楽しいし。なにしろやっていることは入札だ。入札とかオークションというのはプレイヤーがバランスをちょうせいすつから、ゲームにはなる。
評価はできないが、やっていてつまらないということでもないというか。