ボードゲームの紹介です。もちろんドイツ製が中心。
ゲームのデータは公式ではなく、執筆者の主観です。てらしまはけっこう考えるスタイルのようなので、特にプレイ時間は長めになっています。でもメンツによって違うわね。
なんか昔のゲームのリメイクらしいが、そちらはやっていない。
闘技場に、8匹のモンスターがいる。プレイヤーたちはどのモンスターが生き残るかを予想して、賭けをしている。
一匹のモンスターにもっとも多く賭けているプレイヤーはその「パトロン」となり、モンスターがそれぞれに持つ特殊能力を使えたりする。
けっこう説明がめんどくさいのだが……。
プレイヤーはターンが回ってくると、モンスターの戦闘カードというものを場に出す。カードには0から10の数字が書かれており、それが、そのラウンドのモンスターの活躍度になる。
カードはすでに置かれているところにも置くことができる。その場合は、下のカードの数字は無視されて新たなカードに上書きされる。
そうしてカードを出しながら、賭けもやる。5枚ずつ渡されているコインをモンスターに賭けていく。
ラウンドが終わると、もっとも数字の小さいモンスターが敗北して、いなくなる。もちろん死んだモンスターに賭けられていたコインは無駄になるので、そうならないようにがんばるわけだ。
ちなみにラウンドの終了条件は、すべてのモンスターに戦闘カードが置かれること。すでに置かれているカードの上にも置けるので、このラウンド終了をいつ起こすのかというところが非常に重要な要素になる。
これを5ラウンドくり返し、つまり3体のモンスターが生き残ったところでゲーム終了。生き残ったモンスターに賭けられたコインの所有者に得点が入る。得点の高いプレイヤーが勝ちである。
モンスターの特殊能力に関するルールなどが少し煩雑で、しかもその割に、特殊能力を使う機会はあまりない。
ルールブックの日本語訳とにらめっこしながらやることになるのだが、しかし実は、ありがちだが、最も重要なのは特殊能力なんかではなく手番のタイミングだったりする。だからといってそんなものをコントロールしきれるはずはなく、モンスターの能力もうまく使えば強力なものがあり、しかしそれでまたラウンド終了タイミングがずれて……といった、まあボードゲーマーならば誰でも知っている思考過程を踏むことになるゲームだ。
要するにラウンドを終わらせたプレイヤーが非常に有利になるのだが、いいタイミングでそういう盤面が回ってくるようにコントロールすることはとても難しいのである。
こういったこともまあ考えてやるべきだし、それもつまらなくはないのだが、やはり「コロッサルアリーナ」という題材からは離れたところにある。考えれば考えるほど雰囲気が失われてしまう。そこがちょっと残念。
けっきょく、手番順(あるいは得点計算タイミング)の問題というのは、あらゆるゲームデザイナーが考えなければならないところだと思う。手番順が勝敗に寄与する部分というのはたいてい、非常に大きい。必死に独自のゲームシステムを構築しても、ともすればそのすべてが吸収されてしまう。だから、名作と呼ばれるゲームには必ずといっていいほど、この問題をクリアするための工夫がなされている。
このゲームは典型的な、システムが手番順に吸収されてしまっているゲームである。わたしは嫌いじゃないのだが、要するに、手番順をコントロールしなければならないゲームはみんな同じといってもいいわけなのである。
カタンの新作バリアント。正直、この会社の製品はファーストカタン以外にいいゲームを知らないわけで、全然期待できない。
アフリカに発祥した人類が全世界に広がっていく過程が今回のテーマ。なかなかおもしろいネタだとは思う。
カタンと同じように、毎ターンサイコロを振って資源を生産し、それを使って技術を進歩させたり部族を定住させたりする。そうするうちに、スタートする場所であるアフリカが次第に荒廃して砂漠になっていく。
荒廃すると砂漠になるので、資源が生産できなくなる。だからその前に他の大陸に新たな部族を作っていかなければならない。カタンでいう都市(2倍生産できる)もないので、実はゲーム中盤を過ぎても生産が拡大しない。
拡大再生産がカタンの特徴だったはずだが、どうやら制作者はそれをわかっていなかったようだ。このゲームではむしろ生産は漸減する。生産だけではない。基本的にボード上に配置された勝利点チップを集めるのが目的なのだが、これももちろん、とればなくなっていく。カタンのくせに、限られた資源を奪い合うゲームになってしまっているのである。
そのくせ勝利条件が中途半端で、一度も盛り上がることのないままゲームが終わってしまう。なにがしたかったんだという感じだ。知人は「この手のカタンバリアントではいい方」とか言っていた。まあそうは思うが、やっていて面白さを感じないのではしかたない。
我々ボードゲームプレイヤーも、そろそろカタンというブランドに踊らされるのをやめた方がいいと思う。カタンはブランドではなく、たぶん神の手が作ったゲームだった。もうこのさい、そう思っていた方がよさそうだ。
とてもいいゲームである。ボードゲームマニアには自信をもって勧められる。絶対にハマってくれるからだ。もっとも、そういう人はすでにプエルトリコの戦略について一家言もっているだろうけど。
いいゲームなのだが、マニアじゃない人間にはとても勧められない。コマは細かくてたくさんあるし、資源の種類も、3時間ほどで終わるゲームとは思えないほど多い。システムもマニアックで、これまでのボードゲームの歴史を知らない人間には理解しがたいものがあると思う。
これまでに発売されたいろいろなゲームの要素をとりこんでまとめたという感じになっている。しかも、参考にしたと思われるゲームはどれも、当時「斬新」だったキワモノばかり。
具体的には、『操り人形』と『原始スープ』を合わせたようなものと考えればいいと思う。こう聞いて身を乗り出さない人というのは、「うげー」と思ったか、全然知らないかのどちらかだろう。そういう人は、なにもこんなゲームに手を出さなくていいと思う。
プエルトリコにやってきた植民者たちが、農場や街を経営するゲームだ。管理するリソースは、人、建物、プランテーション、金、商品と、嫌になるくらいある。実際、さほどボードゲーム好きではない人にゲームを説明して「もうやめてくれー」といわれたことがある。本当は説明が一番大変なわけで、始めてみれば思ったほど面倒くさくはないのだが、でもやっぱり、細かいチットを何百個も箱から出されるとひいてしまう気持ちもわかる。
ゲームの流れを少し説明しよう。
自分のターンが回ってきたら、そこでどのフェイズを起こすか選ぶ。例えば生産フェイズならプランテーションから商品が生産され、建設フェイズなら街に建物を建てる。
金を稼ぎ、プランテーションに人を配置し、商品を生産し、旧大陸に輸出する。そういったいろいろな行動を、プレイヤーが順番にフェイズを選ぶことでこなしていく。
毎ラウンド、起こるフェイズとその順番をコントロールすることでプレイヤー間に差をつけていくゲームといえる。マニアックなのだ。
選んだフェイズを全員がプレイするので、すべてちゃんと考えてやらないと大変なことになる。というより、考えないプレイヤーが一人いるとその瞬間にゲームが壊れるので、全員に迷惑がかかってしまう。このあたりも敷居を高くしているところだろう。
ボードゲームには常につきまとう問題がある。それは手番の問題である。たとえば、互いに干渉することなく自分の得点だけを追っていくゲームなら、最初の手番のプレイヤーが明らかに有利だ。他人を妨害しようとするときは、たいていのゲームでは上家からやるのがやりやすい。そういう意味で、おざなりにされやすい最初の席決めは、実はもっとも重要なゲームの選択の一つといえる。
プエルトリコは、その手番順の効果を減らすのではなく、逆に最大限に生かそうとしている。例えば、生産した商品を売るフェイズ。売る相手である商人は同じ商品を2つ買おうとせず、しかも全部で4つしか買ってくれない。5人でプレイした場合、一人は売れないわけで、順番を考えて誰が売れて誰が売れないのか、そういうことを常に考えなければならない。このゲームでは、一事が万事そういう選択になる。
ターン制ゲームの理不尽な部分、ボードゲームの闇であったところにあえて光をあてた、挑戦的な作品といえるかもしれない。そういうゲームの本質に、興味があればおもしろい。コスティキャンのゲーム論とかを読んで喜んでるような危ない奴には、ぜひこのゲームをやらせたい。中毒性がありとにかくはまるし、定石研究が熱いし、近年で一番のおすすめゲームなのである。
すぐ終わる気軽なゲームだが、気軽にやるというわけにいかない。音がうるさいから。ゲームが複数の卓で立っている場所でこれをやると、少し前のゲームセンターで、パンチゲームが眉をひそめられていたような風景を思い出す。
各プレイヤーに、サイコロが5個ずつ配られる。これを付属の壺に入れてふり、自分だけがその目を見る。このとき、自分のサイコロを手で隠しながら見る、というあたりのアナログさが楽しい。
あとは、プレイヤー全員で、どの目が何個出ているかをあてる。
時計回りに宣言をしていくが、宣言は前の人よりも目の高い方、数の大きい方にしかできないので、そのうち、とんでもない数になったりする。全部で30個しかサイコロがないのに、「5が20個」とか。そんなときは、宣言の代わりに「ブラフ」という。すると壺が開けられ、宣言が実際の数を上回っていたら宣言者のダメージ、逆ならブラフといった人にダメージ。ちょうどなら、宣言者以外の全員にダメージ。
ちなみに、ダメージと書いたのはサイコロが減るということ。当然そうなれば、以後のゲームが著しく不利になる。
どんどんプレイヤーを脱落させていくゲームなのだ。すぐ終わらなければ不愉快なゲームになっていただろうが、これくらいのプレイ時間なら逆に「もう一度」と言いたくなる。負けたときの不愉快さがほどよい。
サイコロを使う、音がうるさい、というあたりもそうだが、ゲームの全体的な雰囲気がやけにアナクロで、なんだかチンチロ博打でもやっているような気分。微妙に後ろめたいような、ちょっとした昂揚感が味わえなくもない。ただやっているだけで場が盛り上がるゲームと、気分が冷静に冷めていくゲームとがあるが、これは前者なのである。
欠点はとにかく音がうるさいこと。麻雀と同じくらいの騒音と思っていい。プラスチック製の壺にサイコロを入れて一斉にガラガラやる、このときの音がかなり大きい。深夜の安アパートではあまりやりたくない。
ゲームの方は、単純だが奥深く、なかなかいいゲームである。特によく知った相手とやると「あいつはこういう性格だからこれは嘘だろう」とか考えるようになるので、さらに深みが増す。嘘をつきあうゲームだから、セオリーが存在しないのだ。某マンガのアカギさんにやらせたらきっとおそろしく強いに違いないと、誰かが言っていた。
しかし、残り人数が減ってサイコロの数が少なくなると、次第に運に左右される部分が強くなってくる。残り二人、サイコロは一個ずつ、なんて状況はもう完全に、その人がどんな星のもとに生まれたかの勝負。相手が嘘をついているか否かだけが選択を分ける、単なるジャンケンになってしまうのだ。
戦略として、トップになる可能性を上げるには、残り二人になったときにサイコロを相手より多く残しておかなければならないことになる。つまり最下位(サイコロが一番少ない人)ではなく2位をたたき落とすプレイを心がける必要があるのだろうが、もちろんそううまくはいかない。どうやっても、普通はサイコロが減った人から脱落していくからだ。このあたりは欠点といえるかもしれない。
ちなみに、私はこのゲーム、あまり勝てない。宣言の8割がウソというプレイスタイルで、けっこうな確率で残り二人まで生き残るのだが、そこで力つきる。悔しい負け方だ。実はけっこう悩みの種なのである。
人数にも融通が利き、わりとゲームとゲームの合間にプレイする機会が多い。騒々しいから耳目を集めてもしまう。それだけに、できれば勝てるようになりたいと思うのだが、どうもうまくいかないのである。困った。
一つ、重大な欠点がある。それをのぞけば、よくまとまったいいゲームだ。
鉄道ゲームの伝統をふまえた上で簡潔にまとめられている。カタン以後のボードゲームのトレンドに合わせ、プレイ時間も2時間以内に収まっている。
舞台はアメリカ。鉄道網を敷くことで株券を獲得し、配当が起こると、11社ある鉄道会社のそれぞれについて、株券所持数の上位プレイヤーに、敷かれた鉄道の長さに応じて配当金が出る。とてもスタンダードで、違和感のないルールだ。
配当はいつ起こるかわからず(このあたりもゲームが盛り上がる要素になっている)、4回目の配当が行われた時点でゲームは終了。
しかしもちろん、それだけではない。このゲーム独自のシステムが、タイトルにも使われている「ユニオンパシフィック株」である。
この会社は鉄道を持たない。株だけの存在で、配当も鉄道網によらず独自のものになる。配当は2回目からと決められているのだが、けっこう高い配当金をもらえる。
最初に書いた欠点というのはこのユニオンパシフィック株のこと。これが圧倒的に強いのだ。
鉄道を持たないということはそれだけ手間をかけずに配当を得られるということ。しかもこのゲーム、各会社の株券に上限枚数が設定されている。つまり、一度株券枚数でトップに立ってしまえば、以後もずっとトップの可能性が高い。しかも、残りの株券がなくなってしまえば、もはや邪魔することは不可能になる。
ユニオンパシフィック株でトップに立ったプレイヤーが、ゲームの勝者になる。そう言いきってしまえるほどの強さである。事実、私がプレイした10数回のゲームでは、たぶんすべてこの法則どおりになっている。
この事実を知らない人とやれば、99パーセント勝つ自信がある。
これは非常に大きな欠陥だ。残念としかいいようがない。
ただ、だからといってゲームが壊れているとはいいきれないだろう。ユニオンパシフィック株の所持枚数トップがゲームに勝つのなら、それを複数人にすればいい。解決法の可能性はあるのだ。
ユニオンパシフィック株は、他の鉄道会社の株券を捨てることで、1ターンに1枚得ることができる。誰にでも、いつでも得ることができるルールなので、プレイヤー全員が考えて、誰と誰をトップにするか決めればいいのではないか。
けっきょくのところ、ゲーム開始から数ターンはユニオンパシフィック株の分配に費やされることになる。それで、うまく3人か4人の所持枚数を同じにできたら、そこから初めて鉄道を敷きあうゲームが始まる。
そういうプレイスタイルを確立できるメンバーで遊べば、まともなゲームになるかもしれないと思う。なかなか、試してみる機会がないので真偽は定かでないのだけど。
普通にプレイしていれば、普通に楽しい。鉄道ゲームは、ボード上に鉄道網を作っていく過程が楽しいのである。これは大事なことだ。初プレイで感じた直感が、そのままゲームの戦略として間違っていないのなら、これはゲームの理想の一つだと思う。
残念ながらこのゲームには、直感的に理解できる以上の戦略が存在する。
一度必勝法に気づいてしまえば、ゲームプレイヤーとしては、もう普通にやることはできなくなってしまう。直感でプレイしている部分から逸脱して勝利点を得られる方法があるから、不自然に見えてもそれをやってしまう。初心者とやりづらくなってしまうのだ。
ユニオンパシフィックというルールは蛇足だった。全体を見れば非常によくできているだけに、惜しい。
ジャケ買いしたゲームなのだが、意外にも面白かった。なんでもそうだが、一つの趣味を続けているとそういうこともある。
西部劇が好きなのである。レンタルビデオ屋で、西部劇の棚に並んでいるビデオを左側から順番に借りていったこともある。そういう人間にとっては、無視することができなかったゲームなのだ。だから、全然評判を聞いていなかったのに買った。
賞金稼ぎになって、ウォンテッドを捕まえ、賞金を稼ぐゲームだ。
「保安官カード」を使うと賞金首の犯罪が明らかになるのか、賞金が上がったりする。つまり賞金稼ぎたちは賞金首が犯罪を重ねるのを待っているのか?
「指名手配」「西部一の早撃ち」「銀行強盗」「ワイアットアープ」などのカードを駆使して賞金を上げ、捕まえる。賞金首は西部時代、現実にいた悪党ども。けっこう雰囲気が出ている。
悪党がどんな奴だったのか、知っているとさらに面白くなる。別にゲーム的に差はないのだが、やっぱりジェシー・ジェームズが一番大物だから、賞金稼ぎたちにも人気があるかもな、とか、余計なことを考えられるのが楽しい。
全体的にだるくなることがなく、適度に運の要素が含まれた、気楽なゲーム。数回遊ぶと飽きるが、さらに何度もやっているとまた面白くなってくる。
さて、プレイヤーは賞金稼ぎと書いたが、どうもそのあたりには疑問がある。
「ワイアットアープ」カードはきっと、ワイアットアープに助けを求めるカードだろう。ということは、プレイヤーはワイアットアープではない。それでいくと、「保安官カード」とは保安官に協力させるカードなのか。じゃあプレイヤーは保安官ではない。しかしまるで保安官に命令するかのように指名手配させたりする。
だが、カードでお尋ね者に犯罪を犯させることもできる。これはどういうことなのか。
場のデザインとしては、西部時代の酒場でバーボンを飲みながら賭けポーカーをやってるような感じになっている。そこからすると、ひょっとしてプレイヤーはただの酔っぱらいの大ぼらふきたちで、「俺は昔あいつを捕まえたんだぜ!」とか見栄を張り合っているんじゃないか。
「俺が捕まえたあいつはひどい悪党でなぁ。西部一の早撃ちで、銀行強盗もやった。俺は相棒のワイアット・アープと一緒にあいつを追いつめたのさ……」
そんな与太話を主張しあう金鉱掘りたち、というのが一番、このゲームにふさわしい設定かもしれない、とか、友人と話した結論がそんなことだった。
ゲーム自体も佳作以上といっていい出来だが、そういう想像力を喚起させる雰囲気のよさがいい。私は、ゲーム性とプロダクトデザインとは切り離せないと思っている。コマの形がかわいいからゲームをやる、ということだってある。場を囲んだ雰囲気がいかにも西部。少なくとも西部劇好きには楽しい。
メディチやラーなど、ビッド(競り)ゲームの系列に入ると思う。しかし、ビッドゲームとはいえない。紆余曲折の進化を遂げてきた結果、競りの部分を排除してしまったのがこのゲームだからだ。
ゲームタイトルが、それを表している。ドイツ語で意味があるのかどうかは知らないが、もしないとしたら、colorを元にした造語なのだろう。つまり、このゲームは他の言葉で表せるものではない、このゲームのみを表すシンプルな名前が与えられるべきだと、そういう意図が感じられるような気がする。少なくとも名前の上では、チェスとか、囲碁とか、そういうものと同列に語られるべきゲームなのである。
カードゲームなのだが、このカードがすごい。一枚のカードに与えられたパラメータはたった一つ、色だけなのである。最初に箱を開けたとき、これには驚いた。
7色のカードが、9枚ずつある。場には人数分の列がある。ターンが回ってきたとき、プレイヤーの選択肢は二つ。カードをめくって列のどこかに置くか、一つの列にあるカードをすべてとるか。
一つの列には3枚までしかカードを置けない。山の下から16枚目に入っている最終ラウンドカードがめくられたら、そのラウンドでゲーム終了。
そしてゲーム終了時、カードの枚数によって得点を計算する。集めたカードのうち3色を選んでプラスの得点とし、残りの4色をマイナスの得点として合計する。
この「残りをマイナス」という部分が、すべてといっていい。このたった一つのアイデアが、ゲーム性のすべてを決定づけている。
同じ色が1枚なら1点。2枚で3点、以下、6点、10点、15点、21点と増えていく。なにしろマイナス得点もこれで数えるわけだから、いかにたくさんのカードを集めつつ色を少なくするか、というジレンマがゲームの根幹なのである。
実はこれは、これまでのビッドゲームと、まったく同じ構造なのだと思う。カードを集めなければ得点にならないのは明らかだが、ビッドゲームの場合、それをいかに少ない出費で手に入れるかというジレンマがあった。
このゲームの場合、ゲームのリソースをカードだけに絞ったにも関わらず、これまでのビッドゲームがなしえなかった上質のジレンマを実現している。
なるほど、このルールの単純さと奥深さには、たった一つの単語を与えるのがふさわしいと思う。実にいいゲームである。
難点は、あまりに抽象的すぎるということだ。もはやゲームの題材というものもない。ただゲームのために生まれてきたゲームだ。こういうゲームは、人によっては「なんとなく乗り気になれない」のではないだろうか(ちなみに、私は全然抵抗がない)。華がない、ということである。
自慢じゃないが、私がまだ一度も負けたことのないゲーム。だが残念ながら、これはほんとに自慢にならない。
ルールはめちゃめちゃ簡単。ボードの上に4体のロボットが配置されている。このロボットは、一度動き始めたら壁か他のロボットにぶつかるまで直進する。
ターンが始まるとタイルをめくり、それで、マップ上に示された目的地と、そこに誘導すべきロボットが決まる。4体のロボットをどの順番で、どう動かしてもかまわないから、何度移動すれば目的地に入れるかを考え、言う。誰が言わなければならないということもない。プレイヤーのターンというのもないので、思いついたらすぐその数字を言う。
すると砂時計(1分)が返る。一分以内に、プレイヤーはいろいろな数字を主張する。
砂時計が落ちきったら、一番低い数字を主張した人から、実際に実演してみせる。見事ロボットを目的地に誘導できたら、その人に1点。
プレイヤー人数は2−∞と書いてある。たしかにそうだ。それどころか、途中参加だって平気でできる。
ボードは4枚の正方形を組み合わせるようになっており、裏表を使える。ロボットの初期配置も適当に決めるので、事実上無限といっていいバリエーションで遊べる。
ルールがあまりに簡単なのである。
だから誰でも、憶えたらすぐにマスターしてしまう。そこから先、勝敗を決めるのは個人の資質の問題、ということになってしまうのだ。
ゲームのプレイヤーにもいろいろなタイプがある。理屈を積み上げて自分の中に定石を作っていく人、その場の直感でプレイを選択する人、大きな声を武器に他人を誘導する人など、さまざまだ。ボードゲームをやる楽しみは、そういう人間の言動を観察することにもあると思う。
ハイパーロボットに強いプレイヤーは、どんなゲームをやっても緻密な計算はせず、常にその時の盤面から感じた自分の印象を元にプレイするタイプだと思う。長期の戦略や定石についてはあまり考えていないから、そういうものが必要なゲームには弱いだろう。
人間の性質の問題なのであって、このゲームに勝っても、その人がハイパーロボットに向いていたということを表しているにすぎない。要するに、どうしたら勝てるかを必死に考えるのではなく、息抜きにわいわい楽しむべきゲームだ。
ちょっと時間が余ったからロボットでもやるか、とか、人数が合わないしロボットやってるかとか、たいていはそういう扱いになる。そういうゲームには他に6ニムトがあるが、ある意味では貴重な存在だ。
途中参加もできるので、ゲームをやる集まりで人待ちをしているときに最適。ロボットをやっている間に人数がそろったら、さあ今度は本気のゲームをやるかと。ただ私の場合、ロボットをやって「ロボット脳」モードになっていると勝てなくなるゲームがある。これは注意が必要かも。