明日のコミケは出展しないんですが、GameDeepという本に寄稿してます。売り子も手伝ってると思います。
ゲームに関するいろいろな話を書いてる同人誌です。
今回はだいたいIngressの本みたいですが、わたしはコントラクトブリッジとカタンの話かなにか書いてます。
明日のGameDeepの新刊のようなもの 東W-29a GameDeep だいたいIngress本です pic.twitter.com/VfaWfO1csU
— 中田吉法 (@ynakata) August 12, 2015
気が向いたらなにかのついでにでも見にきてやってください。興味あれば、既刊も置いてあると思いますよ。
しかし暑そうだな……。
ゲームを論ずるとき「成立していない」という言葉をよく使う。「ゲームになっていない」に近い意味だが、それよりは弛い意味になるだろう。評価が低い順に並べるなら、こうだ。
よく使うとはいいながら、なかなかにずるい表現だ。なにしろ、なにが成立していないのか、目的語を省いている。つまり場合により意味を変えて使うことができてしまう。
でも、このあたりの微妙なニュアンスが必要な場合というのは多い。言葉の意味としちゃ「ゲームになっていない」と大差ない気もするのだけど、あえて言葉を変えて少し和らげたのだから、なにか気分が違うということだ。
問題ある言葉ではあるんだけど、他人の口から聞くのも嫌いではない。少なくとも「おもしろい」「つまらない」の二元論に陥りたくないという気概が、間違いなくある、そうでなくば出てこない言葉だ。
と、こんなことを書いていても、伝わらないと思うのだ。昔この言葉を使ったとき、わからないといわれてはたと気づいたことがある。自分ではそれなりに明確と思っていたのだけど、考えてみればそんなことはない。
だから具体例を挙げたい。『ヒュペルボレア』というゲームがある。
このゲーム、あまり高く評価できるものではない。その理由は、ゲームシステムが成立していないからだ。
最近なんだか流行のいわゆるバッグビルディング、つまりカードの代わりにコマを使い、デッキの代わりに巾着袋を使ってデッキと同じことをやるゲームなのだけど。この肝心のバッグ構築部分のシステムが、ほぼ機能していないという、なんとも問題作だ。
このシステムが機能していないということを「成立していない」と呼んでいる。
(ちなみに、他の人は別の意味で使っているかもしれないから注意してほしい)
機能していないとはどういうことか。このゲーム、デッキを構築することで自分が有利にならない。巾着袋にコマを投入していくのだけど、どう計算しても、ほとんどの局面で、巾着袋内のコマが増えると損をする。
デッキ構築ゲームを知っているプレイヤーならわかると思う。コマは6色ほどありそれぞれ機能が違うのだけど、強さに差がない。つまりすべてのコマが、ドミニオンでいう銅貨だ。機能の差こそあれ。銅貨をいくら増やしてもデッキは強くならない。デッキ構築ゲームには銀貨が必要なのだ。
その上。一般的なデッキ構築ゲームと同じくヒュペルボレアも、山札が尽きたら捨て札を山札にするのだけど、このとき、さらにボード上の行動済みのフィギュアを未行動状態に戻すことができる。つまり、山札(巾着袋内のコマ)が尽きるたびに追加のアクションが与えられる。早く尽きたほうが得なのだ。巾着袋にコマを投入したらシャッフルの間隔が長くなるわけで、やはり、損だということになる。
わざわざ採用したシステム、しかも誰の目にもゲームのコアに見えるメカニクスが、まるごと、意味をなしていないのである。はっきりいえば、計算ができていない。ゲームデザインにどうしても必要な素養としての数学が、足りていない。そうでなければ、こんなシロモノができあがるはずがない。
成立していないゲームはたくさんあるものの、ここまで明確なものは珍しい。そういう意味では稀有だと思うし、そんなところが、じつは好きだったりもするのだけど。
なんとなく、わかるだろうか。成立していないという言葉の意味はそんなところだ。
ゲーム全体が成立していなければ、たぶん「ゲームになっていない」という。そうではなく「成立していない」というのは「ルールの一部がゲームに寄与していない」といいたい場合が多いと思う。自分の場合たぶん。
脇道だけど。人はゲームを遊んだとき「おもしろい」「つまらない」のどちらかを使う。これ、たいていは、ゲームに向けられた言葉ではないと思っている。実際の意味は、その人にとって「味方」か「敵」かだろう。
「敵」になる要因は、ゲーム外にもいくらでもある。作者が嫌い、ジャンルが嫌い、見た目が嫌い、同卓したプレイヤーが嫌い、ネットで悪評を見た、○○さんがつまらないといっていた……。
特に、複数人で顔を突き合わせて会話しながら遊ぶのがボードゲーム。ゲームに触れると同時に他人の評価にも触れてしまうというのは、危険な環境だ。影響されるなというほうが難しい。
言葉少なに語られるそうした感想は、ほとんどの場合、おもしろさもつまらなさも示していないと思う。政治や宗教の話くらいに考えたほうが近い。
ゲームを表現する言葉は、そんな単純な二元論ではないはず。あるいは、ゲームを示す表現であることを証明するためには、どうしてもある程度以上の長さの文章が必要になる。
そういえば「ノットフォーミー」という言葉もある。
言葉の中に「me」があるとおり、最初からゲームの話を拒否し自分の話をしている。もともと自分の感想でしかないのなら、絶対評価のように「つまらない」を使うよりはるかにフェアだろう。そういう意味で、使い方を間違えなければいい言葉かもしれないと思う。
でも、二元論として使うのなら同じことだ。ゲームではなく政治か宗教の話。
どんな言葉でも同じ。「バランスが悪い」も「クソゲー」も、二元論つまり敵味方の判別として使われてしまったら、すべてが同じ意味になってしまう。
ゲームを語るには語彙がいる。
「成立していない」は、その語彙の一部だ。
ここでなにがいいたいかというと。敵味方の判別のために言葉を使うつもりはないということだ。
長々と余計な話を書いたけど、やっと本題に入る。それでもわたしはヒュペルボレアが楽しいのだと、そういう話をしたい。
ヒュペルボレアには問題がある。それは上に書いたとおり。だが楽しみかたはある。バッグビルディングを無視することだ。
巾着袋の中のコマは、ゲーム終了時に1個1点になる。だから無駄ではない。ただ、ゲーム序盤にやってしまうと損をする。だから、ゲーム終了間際になるまでは決してコマを増やさない(正確にいうと、調整のために少しだけ増やしたりはする)。
さらに。技術カードもあまり取らないほうがいい。技術カードを獲得することでできるアクションが増えるのだけど、そうすると代わりに灰色のコマが1個巾着袋に投入されてしまう。灰色のコマは能力を持たない、ドミニオンでいう「呪い」だ。そしてこのゲーム、コマを取り除く手段、いわゆる圧縮が極めて少ない。
技術カードは全体に弱すぎる。灰色のコマが1個増えるリスクに釣り合う能力はほとんどない。このあたりも、ゲームデザインとしての計算を間違えている。本当に強いごく一部のカード以外は取らないほうがいいのだ。
罠、という言葉をよく使う。たとえばドミニオンでアクションカードを取りすぎてしまうというような、初心者がついやってしまうのだけどじつは勝利を遠ざけるプレイのことだ。その罠が、ヒュペルボレアには極端に多い。しかもメカニクスの根幹から罠なのだから始末に負えない。
でもプレイヤーとしては、罠と認識したならそれを避ければいい。ドミニオンだってテラミスティカだって、プエルトリコだってカタンだって罠はある。罠があるからといって傑作ゲームになれないわけではない。じつは少しあるくらいのほうが、攻略する楽しみは大きくなったりもする。
罠ルートを回避し、コマは最終ターンまで増やさない、技術は吟味した数枚以外とらない、そういう戦略をセオリーとしてしまえば、ヒュペルボレアは意外と成立している。ちゃんと楽しめるのだ。
考えてみれば、ずいぶんと余分なルールがあったものだ。バッグビルディングと技術カードという大きなメカニクスを省いても、まだゲームが成立しうるだけの内容が残っているのだ。
ボード上のフィギュアを増やし、動かし、亡霊に支配された都市や遺跡を占領する。そうすることで追加のアクションを得たり、勝利点を得たりする。他のプレイヤーを攻撃してもいい。シヴィライゼーションのような4Xゲームとしての体裁はちゃんとあるし、じつのところ、攻撃の報酬などよくできている部分もある気がする。
フィギュアを街に送りアクションを行うシステムはおもしろいし、遺跡で見つけた財宝に一喜一憂するのも楽しい。地形と他のプレイヤーの動きを見て進出ルートを考えるのも楽しい。さらに、プレイヤーごとに違う種族能力もある。バッグビルディング部分は、構築としての意味は大部分が損なわれているのだけど、手番ごとの行動にランダム性を与えままならなくする意味はあり、機能してもいる。
わたしには、これが楽しい。このゲームにしかない体験もあると感じている。
成立しているけど楽しめないゲームはたくさんある。成立していない上に楽しめないゲームはもっとある。そして、ルールの大半が成立していないが楽しめるゲームというのも世の中にはある。自分にとってヒュペルボレアはそういうものだ。
5点満点で評価するなら、1点。はっきりいえばクソゲーだ。でも嫌いじゃない。ゲームは敵でも味方でもない。そういうことを表現するために、いろんな言葉を使うよねという話。
ちなみに。そうしてけっこうな手間をかけて楽しめる状態になったヒュペルボレアというゲームは「バランスが悪い」のだけど、それもまた一興。
『王への請願』というゲームがある。非常にいいゲームで、昔けっこう流行った。最近日本語版が出て、また遊ぶ機会が増えている。
遊びやすくリプレイ欲求も高く、いろいろな場面で重宝するタイプのゲームだ。またゲーム史上でも、後にいくつかのフォロワーを生み、ひとつのパラダイムを作ったといっていいかもしれない。その魅力はいまも色あせていない。
この王への請願について、先日ちょっとおもしろい話を聞いた。6面ダイスの代わりに10面ダイスを使うとおもしろいというのだ。
背景から説明する必要があると思う。
『王への請願』は非常にいいゲームなのだけど、欠点があった。最適解がほぼ決まっているのだ。
サイコロをいくつか振りそれで役を作る。そういうゲームだ。
ツーペアとかストレートとか、そうしてできた役に応じ、能力を持ったカードを獲得する。カードを獲得すると、サイコロが増えたり、出目を操作する能力を獲得できたりする。サイコロは1個以上を確定すれば他を振りなおせるというルールもあり、このあたりはGREEDに似ている。
サイコロが増えれば、さらに獲得できるカードが増えていく。最終的には、7個ものサイコロを使わなければ獲得できない最上級カード「王」までたどりつく。
サイコロゲームゆえ気楽でプレイしやすいこともあり、一時期はかなりくりかえし遊んでいた。そうするうち、戦略が固定化していったのだ。
その戦略とは、とにかくサイコロを増やすこと。出目を操作する能力はもちろんあれば便利だけど、そんなことよりも、できるだけ早くサイコロを増やさないと勝負にならない。サイコロを増やす能力は、ほとんどがゾロ目を出すことで獲得できる。だから、全員がまずゾロ目を目指してサイコロを振る。そういうゲームになってしまった。カード獲得の順番もだいたい固定化してしまい、もはやほとんど考えるところがない。
考えどころがないのでは、これはもうゲームではない。ビンゴかなにかと変わらない。
ただ、それでも充分おもしろいのがこのゲームの罪深いところだ。なにしろサイコロだから、同じ展開にはならない。普通のゲームなら飽きてやめているだろうけど、このゲームの魅力はそれを許さない。考えどころがなくなっていても、やればちゃんと楽しい。そういう、なにか危険なところのあるゲームなのだった。
そういう事情が、まず前提としてある。
そんなことを思っていたのは自分だけではなかったらしく。先日twitterでこのゲームの話をしていたとき、こんなことをいわれた。
@terrasima うちでは普通にやりすぎて最近ではD10使ってやってます。
— やおや@資本家の犬 (@di_eight_ether) May 1, 2015
なにそれすごそう。
6面ダイスだったものを10面に変えるということは、役を作りづらくなるということだ。ごく単純な数学の問題で、確率がだいぶ違う。そうなれば、出目を操作する能力の必要性が上がる。一辺倒にサイコロを増やすだけでは勝てなくなるかもしれない。
なるほど……。なるほどたしかに、バランスがよくなるかもしれない。これはいいかもしれない。
そんなわけで、10面ダイスを12個、買ってきた。
週末にさっそくやってみた。
感触としては、かなりいいのではないか。
ゲームの最序盤から、決定的な違いに戸惑うことになる。「農夫」が、取れない。
6面ダイスバージョンでは、第1手目の絶対のセオリーがこの農夫だった。なにしろサイコロはパワーだ。サイコロが増えることは正義。そして、農夫はもっとも獲得しやすいサイコロなのだ。より高い役ができていたとしても、他のプレイヤーの妨害のため農夫から取る、そういう戦略が横行していた。
しかし10面になると、そもそも農夫が取れない。狙っても取れる気がしない。
結果「下女」と「哲学者」の評価が大きく上がる。というより、農夫を狙うリスクが高すぎて、下女や哲学者の役があるときにそれを崩せない。
初手以外もだいぶ変わった。6面ダイスの場合、操作系能力は使わないか「天文学者」を1枚とる程度だった(天文学者をいつ取るか、それとも取らないかという選択は、それでも少し残っていたのだ)。これが10面ダイスになると、操作系能力の価値がだいぶ上がる。操作系の能力がないと、役を作っていくことができない。最終決戦の結果がゾロ目3個なんてこともわりと起こる。
6面ダイスでは、操作系能力は1枚使うくらいがせいぜいだったのだけど、10面バージョンでは最低2枚は欲しい。3枚あってもいいかもしれない。
では、いつ操作系カードを取るのか。もしかしたら、サイコロを増やせる状況でもあえて操作系を取っていく必要があるかもしれない。
サイコロを増やすか、操作系能力を取るか。そういうジレンマが生まれたということだ。これはたぶん、もともとのゲームデザインの意図に近づいたんじゃないかと思う。より『王への請願』らしいゲームになったとさえいえるんじゃないか。
ちなみに、いくつかルールを変えた箇所がある。書いておこう。
自分が遊んだときはこんなルールでやったのだけど。なにしろ勝手ルールなのだから、これが正しいわけでもなんでもない。じっさい、この遊び方を教えてくれたやおや氏のルールとも少し違っていたりする。
10面ダイスを使う改変は非常によかったのだけど、問題ももちろんある。こんなデタラメをやっているんだから当たり前だ。
7以上の出目でダイスを出すカードがない。というのはそのひとつ。出目指定でサイコロが増える能力では、最高の「司祭」が6だ。
ただ、これはこれで「女王」がより強くなったところがいいという面もある。
ダイス目を操作する能力も、いくつかのカードはもう少し強化する必要があるはずだ。たとえば「下女」の能力は、1~3ではなく1~5であるべきかもしれない。「女官」の能力は、1固定ではなく1~2のほうがいいかもしれない。
このあたりは、ルールを変更してしまったがために起きた不整合だ。本当なら調整するべきだろう。でもまあ、そこまでやったら新しいゲームを作るのと変わらないし、フェアリールールを逸脱してしまうかな。
そういう不具合とは別に、(たぶん)本来的なゲームバランスに近づいたために浮き彫りになった、ゲーム自体の欠点というのもあった。
操作系カードを1~2枚多く取るということは、数ラウンド長くなるということだ。ゲームにかかる時間が少し長くなる。
加えて、いままでよりも多様な能力を使うことになるため、考慮時間も伸びる。もともと、ダウンタイムはこのゲームの欠点だったのだけど、それがさらに顕著になる。
このゲームはいままで、ゲームデザインの意図よりも短いゲームとして遊ばれていたと思う。それが本来のかたちに戻ったら、今度は重くなりすぎる。このあたりは興味深い。
あと、やっぱりサイコロゲーだなと改めて思った。10面ダイスは6面ダイスよりも思いどおりにいかず、どうにもならない不運が発生しやすくなる。一方、確率は減っているものの、うまくいってしまえば勝てるのは同じ。結果の幅が広くなっている。
このあたり、運ゲー感がさらに増しているかもしれないと思う。
そういう問題はあるので。もしこれを読んでやってみたいと思った方がいたら、自己責任でお願いします。
こうまでして遊びたいかとはすごく思うけど(笑)。
可能性を強く感じるのになにか足りない、おもしろいけどなんかもったいない、そういう印象があるゲームだった。でもそんな物足りなさの一部が、10面ダイスを使うことで解消してしまったのだ。
とても興味深い実験と結果になったなと思う。
そうはいっても勝手ルールだしね、別にオススメするわけではないのだけど。
ローゼンベルク。これがすごくいい。新鮮なシステムと完成度の高さ。この感覚は久しぶりだ。
全員共通の15枚の職人カードを持っているのだけど、各ラウンドで使うのは5枚だけ。まず最初に、15枚から5枚を選び伏せる。
次にスタートプレイヤーから順番に、1枚ずつ使っていく。カードには資源を獲得するとか、資源を使って建物を建てるとか、いろいろ書いてある。
でこのとき。他のプレイヤーは、伏せた5枚の中にいま使われたのと同じカードがあったら、公開して相乗りする。しなければならない。
カードには効果が2個ずつ書いてあって、誰も相乗りしてこなければ両方とも使えるのだけど、誰かが相乗りしてきたら1つしか使えない。
各ラウンドでは、これを各プレイヤー3回ずつやる。5枚伏せたのだけど3回しか使えない。つまり、あとの2枚は他のプレイヤーに相乗りしなければ使えない。
このルールがとてもいい。計画を立てなければならないけど計画どおりにはいかない。
相乗りは義務で、権利ではない。他のプレイヤーが出したカードと同じものを手札に持っていたら、これはもう自動的に公開しなければならない。つまり職人は仕事があれば勝手に働いてしまう。資源を使って建物を建てるのだから、建てるアクションよりも先に資源が欲しいのだ。しかし、他のプレイヤーが建設アクションを使ってしまったら、勝手に反応して相乗りしてしまう。このままならなさは独特だ。
このゲーム、とにかく職人たちは、仕事があれば勝手に働く。この思想は資源システムにも反映されている。
資源は→のようなダイヤルで示されている。これ最初は見づらいけど、すぐに慣れる。要するに資源コマの横に書かれている数字が持っている数だ。
資源の中でもガラスとレンガは高級な資源で、直接手に入れることはできない。どうやって手に入れるかというと、他の資源を消費して手に入れる。そこでこのダイヤル。たとえば上のダイヤルの1のマスに資源がなくなる(=ダイヤル上のすべての資源を1個ずつ持っている)と、ダイヤルが1マス右に回る。これはゲーム中どのタイミングでも、自動的に回ることになっている。そうすると、各資源が1個ずつ減り、ガラスが1個増える。ダイヤルに書かれている数字を見ればわかるが、ガラスは数字の並びが逆になっているのだ。
つまり、ガラス職人は必要な資源ができたら勝手にガラスを作りはじめる。レンガも同じだ。
そんな感じで、とにかく職人たちは勝手に働く。そんな彼らをうまく乗りこなして、建物を建て得点を稼ぐのが目的のゲームだ。
デジタルゲームの話だけど、ドラクエは4が好きだ。それも最初のファミコン版。
ドラクエは4からAIによる自動戦闘が導入されたのだけど、ファミコン版4だけは他と違い「めいれいさせろ」コマンドがない。仲間たちはAIで勝手に動き、コマンド入力することができない。このAIがバカで、ザラキが効かない敵にザラキを連発するクリフトなどは有名だ。ああいう、仲間が勝手に動くゲームが好きだ。楽だし、なによりAIのキャラクター性から物語を感じられる。
もちろん、思いどおりにいかないことはプレイヤーのストレスだ。クリフトの頭の悪さには多くのプレイヤーが不満をいい、後のシリーズでは「めいれいさせろ」コマンドが追加された。個人的には、あれはないほうがいいと思っている。そりゃ「めいれいさせろ」があればそのほうが効率的に動けるし、強いんだから使ってしまう。けれど、そうじゃないのだ。思いどおりに動かないことこそがおもしろさだったのだ。自分にとっては。
プレイヤーはストレスに不満をいうものだけど。それを全部聞くことが果たして正しいのか。そんなことをちょっと考えてしまう。まあドラクエほどのシリーズでは聞かないわけにもいかないだろうけど。
ちなみに後のシリーズでは、命令させろ以外を使ったほうが有利な局面(ターンの途中でダメージを受けた仲間を回復するなど)が用意されていたりして、せっかく作ったシステムを無駄にしていなかったりもする。
ボードゲームでは、勝手に動くシステムというのは実現不可能だ。なにしろアナログだから、すべてのトークンをプレイヤーが手で動かさなければならない。しかし工夫次第で「自動感」を出すことならできなくもない。このへんはここ10年ほどのモダンなボードゲームの特徴的なところだと思っているのだけど、プレイヤーの操作が、プレイヤーの認識以上の影響を盤面に与える、そういうふうになっていればいい。洗練されたインタフェースは時に、そんな魔法を可能にする。
グラスロードの場合は、資源ダイヤルがそれ。資源をチットで示す方法で同じルールを採用したら、煩雑な印象のゲームになっていただろう。チットが5種類そろったら必ずそれを支払いガラスチットを1個獲得する? たぶん処理しきれず、忘れる。でもこのダイヤルなら、1クリック回すだけだ。
加えて、職人カードが勝手に相乗りしてしまうこのシステム。これは『レース・フォー・ザ・ギャラクシー』からの派生かもしれないと思うのだけど、最初に5枚をプロットするというルールの追加が非常におもしろい効果を生んでいる。なにしろプロットしなければならないのだから、計画性が必須だ。でもそれなのに、計画どおりに動いてくれない。計画性とランダムと読みが一箇所に集約されている、とてもきれいなシステムだ。これもやはり、ダイヤルほど鮮烈ではないものの、洗練されたインタフェースの一種といえる。プレイヤーは5枚を選んだだけだが、その結果は単純ではなく、相手に影響を与え、また相手の影響を受け順序が変わり、予想できない。プレイヤーの操作を超えた結果が発生しているのだ。
なにしろ計画どおりにいかない。ランダム性は強い。このことはプレイヤーにとってストレスだろう。ファミコン版ドラクエ4が好きでないという人がいたとして、同じ理由でこのゲームも苦手かもしれない。でもわりと、ボードゲーム好きはこういうストレスが好きなんじゃないかと思ったりもする。多くの一人用デジタルゲームと違い、相手がいるボードゲームでは思いどおりにいかないことが普通だ。そのストレスが好きなマゾヒストがボードゲーマーになるのだ……といったらいいすぎだろうけど。
それに。ままならないといっても、最終的には自分の責任なのだ。ランダムと書いているが、もしも他のプレイヤーの手を読み切ることができるならそれはもうランダムではない。けっきょく読み切ることなんてできないんだけど、それでも自分の選択の結果。「ああしておけばよかった」と思うことができる以上、ただのランダムとは決定的に違う。
欠点? もちろんこのランダムさは欠点だ。資源獲得の不安定さに加え、さらに場の建物カードがランダムにめくられるシステムになっていて、計画が立たなすぎる感じはじっさいある。ちょっとやりすぎかなと思うところもなくはない。とはいえそれも意図されたものだろうと思う。『アグリコラ』や『ル・アーブル』のような、すべてを計画できるゲームではなく、ランダムさも含め展開を楽しむゲームだ。
あとは、いきなり15枚ものカードを渡されてそこから5枚選べというハードルの高さとか。
もっと細かいところに踏みこむと、このバッティングシステム。潜在的にすごい差が生まれうるため緊張感があるのだけど、現実には、均されて大きな差にならなかったりする。それよりけっきょく建物の引き運のほうが少し大きく、やはり運ゲーだろとか。批判の緒になりうる部分はけっこうある気もする。
でも個人的には、これでいいと思う。うまくいかなくてももう一回やればいいのだ。意外と軽いし、とにかくプレイ感触がいい。だからもう一回といいやすい。
とても気に入っているゲームだ。ローゼンベルクのお仕事シリーズではダントツで一番好き。とてもいい。
機会があればいつでもやりたいゲームというのがあると思う。自分の場合は『ストーンエイジ』『ドラゴンイヤー』などがそれに当たるのだけど、グラスロードはそこに入るかもしれない。