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遊星ゲームズ
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2010/05/03 02:55

ビッグシティ
 ボードゲーム

2010/05/03 02:55
ビッグシティ
Big City
1999年
Goldsieber Spiele
Franz-Benno Delonge
2~5人
60分
thx to play:game

 住宅地とかビジネス街とか公園とか、線路とかを、ボードの上に並べるゲーム。
 立体的なコマがたくさん入ってる。海外のボードゲームによくある「箱でかすぎwww」ではない。中身がつまってる。
 このコマを見れば、すぐにどんなゲームかわかるというもの。そのとおりのゲームだ。
 なにしろ立体物が並んでいくから、見栄えがいい。
 写真撮りたくなる。

bigcity.jpg

 見た目どおりのゲームだ。建物を建てる。建てると得点が入る。
 アクワイアみたいな、マスの位置が書かれたカードを持っている。大きな建物を建てるには何マスも必要だから、それだけつながったマスに対応するカードが必要になる。
 建物にはいろんな条件があったり、ある条件を満たすと得点が増えたりする。公園の横に住宅地を建てると得点が何倍、とか。
 大きい建物ほど得点が高い。難しい条件を満たすほど得点が高い。
 そんないろいろを考えながら、みんなでひとつの街を作っていく。そういうゲームだ。

 シムシティ系である。とりあえず、建物が並んだ様子を見てるだけで楽しくなってくる。
 同系列では、個人的に知ってるもののなかで一番近いのはメディナ。経緯は知らないが、たぶんあれには、ビッグシティからの影響が入っているだろう。いろいろと、似たルールが多い。
 なにしろシムシティ系なので、見てるだけで楽しい。逆にいえば、シムシティは見て楽しむ玩具なのだ。ゲームではない。
bigcity2.jpg ビッグシティも、見てるだけで楽しめてしまうという面がある。だってこんな(→)写真撮ってるだけでも楽しいし(さっきよりだいぶ発展してきてる)。

 だから、ゲームシステム自体が、そんな楽しさに覆い隠されてしまう面もある。
 わたしの感想としてもゲームは楽しかったけど、それははたしてゲームが楽しかったのか、シムシティが楽しかったのか。
 そんなことで、どこで線を引くべきか迷ったりもする。

 ゲーム自体は、分析するなら囲碁みたいなものだ。ひとつの盤面を共有して、他のプレイヤーより価値の高い場所に建物を建てる。あるいは、他のプレイヤーを邪魔する。強烈なインタラクションが働いていることになる。でも手札の乱数があるため、そんな印象は緩和されている。
 そのあたりのバランス感がいい。ビジュアルに覆い隠されているが、ゲーム面もよくできている。

 しかし、じっさいのところ、このゲームの主眼はやはりシムシティ的楽しさだろう。それでいいとも思う。
 ゲームシステム自体も、そんなデザインになっている。
 たとえば、建物の配置と得点に関するルールが非常に細かい。早見表があるのだけど、これを見ながらでも初見で全部憶えるのは難しい。
 通常なら、これは欠点とされるものだろう。ゲームデザイナーは基本的に、こういう煩雑さを嫌うものだと思う。
 それなのになぜこうなったかというと、それは「建物を建てる」部分を優先したからではないか。
 土地(手札)を集め、建物を建てる。プレイヤーがやるのはあくまでそれだ。それ以外ではない。コンポーネントから想像できる、そのとおりの行動だ。直感的にわかりやすい。
 そこにこそ、このゲームの目的があった気がしている。
 調整のために細かいルールが必要だったが、そこは些事だ。むしろ、プレイヤーが把握してないくらいでちょうどいい。

 そんな風に思えるくらい、シムシティが楽しい。そのせいで、ゲームとして冷静に評価しきれない。いやむしろ、そうすることに意味がない気さえしてくる。たとえばこのゲームシステムに欠陥があったとしても、いいんじゃないか。
 プリミティブな、ゲーム以前の楽しさがあるといえる。「ゲームとは!」とかそんな理屈の外で、問答無用の楽しさがある。
 少なくともコレクションとしては、ぜひほしい。手に入りにくそうだけど。

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2010/04/13 05:56

ゲームデザイン脳
 読書

ゲームデザイン脳
桝田省治 技術評論社

2010/04/13 05:56 てらしま

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 あまり、コンピュータゲームはやらないほうだと思うけど。それでもこの人の名前は知ってる。桃太郎伝説とか、電鉄とか、天外魔境とか作った人だ。
 あとリンダキューブとか俺の屍をこえてゆけとか。そういう、コアなコンピュータゲーマーに人気ある人。
 そのあたりプレイしてないので、ほとんど聞きかじりなのだけど。いわゆるドラクエやファイナルファンタジーとは違う、毎回新しい、ちゃんとゲームとしてのデザインを考えてくる人というイメージを持っている。
 その人が書いた、ゲームに関する本というわけで。基本的にボードゲーム専門のわたしではあるのだけど、この名前は気になった。

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 あと、この人は小説も書く。実現しなかったゲームの企画がネタらしいのだが『ハルカ』とか、わりと好きだ。
 そのあたりも期待していたところではあった。
 文章を書くというのはじつは特殊技能だ。世の中に出回っているハウツー本だの解説書だのというのは、ほとんど文章の体をなしていない。と感じている。いくらいいことが書いてあっても、文章になってないのでは評価できないという思いがあったりもする。
 小説を書ける人なら、そのあたりは安心できるんじゃないか。
 と思ったのだけど。
 その面では期待はずれだった。まあ、ゲームデザインに関する思考過程についての、メモ書きていどのもの。
 わりと、各話題が唐突に登場する。考えを整理してまとめた感じも少ない。
 いちおう、全体をまとめるストーリーは与えられているのだが。記事自体は、ブログやtwitterの文章を読んでいるようなものだ。
 ひとつの作品としての評価は低い。
 とはいえ、着想から調整までの流れがあり、最後にゲームに関する哲学が語られる、最低限の構成はちゃんとある。少なくとも、ブログよりはいいだろう。

 辛口の評価にならざるをえないのだが。しかし、書かれている内容はたいへん興味深い。
 ゲームデザインの体験談とか、企画を作るまでにどんな思考過程があったかとか、そういう内容が非常におもしろい。
 この人は、本当に「ゲーム」を考えてると思う。それも、本物のゲームだ。
 コンピュータゲームという未定義の現象に限定したために論旨が崩壊してしまう、よくある「ゲーム論」とはちがう。それは強く感じる。
 コンピュータゲームは、ゲームであることを考える必要がない。
 おもしろい小説を画面で読ませれば、ユーザは感動する。すごい映像があればCMを作れる。コンピュータ「ゲーム」にしかできない体験というのはあるはずだと思うのだけど、そんなことは考えなくても商品を作れてしまう。
 枡田省治は、しっかりとそこを考えていると感じる。この本では、プリミティブな子供の遊びなどにも触れられている。
 いや、他の連中が考えてないというわけではなく。むしろ、わたしが住んでいるボードゲームの世界とは、デザイナーの層の厚さが4ケタは違うわけで(笑)。レベルはぜんぜん違うはずだ。
 むしろ、そっちの世界ではこんなこと考えてる人がいるのかと。

 結論から書く。僕が思う、テレビゲーム向きのネタとは、“趣の異なる前向きなジレンマが適度なストレスをともなって、適当な頻度で繰り返しプレイヤーに提示され、その意思決定の結果によって、状況が変わりえる構造を有する事象”だ。

「結論から書く」と書いてある以上、前後の文脈があるわけで、ここだけ引用するのもアレだけど。
 著者のブログに、この部分の試し読みが掲載されている。興味があれば、むしろそちらを見てください。

 これはわりと、ボードゲームでもそうだろうなと思うわけで。
(ただしボードゲームの場合、さらに条件が厳しい。勝敗を決めるのがボードゲームだ。「前向きな」という部分は、さらに明確に「勝利の可能性を残した」でなければならない)
 コスティキャンのゲーム論的な話題だなという気もする。コスティキャンはもともと、コンピュータゲームにもけっこう言及している。そっちのほうが多いくらいだ。
 枡田省治が、そういうところを明確に意識しているかどうかはわからない。でも、そのものではなくとも、少なくともあれくらいまで深めた思想があると思う。
 だからこその思考過程がおもしろい。
 きっと、まだ理論というほどにはなっていないのだろう。職人の頭の中が、きれいに整頓されている必要はない。だからこの本も、きれいにまとまったかたちにはならなかったのかもしれない。
 第3章の章題は「かんがえる 哲学/裏技」。これが哲学ではなく科学か工学になったら、もう一度まとめてほしいという気もしていたりする。


ityou -2010/05/16 23:53
「桝田省治」ですよー


てらしま -2010/05/17 00:19
 ご指摘ありがとうございます。修正しました。


2010/04/03 12:40

ゴースト・フォー・セール
 ボードゲーム

2010/04/03 12:40
ゴーストフォーセール

 ひとことでいうなら、情報もあつかうオークションゲーム。
 物件もオークションするが情報もオークションする。
 ゲームのデザインとしては、けっこうなチャレンジだと思う。ボードゲームは、リソースを可能な限り切り詰めた、モデル化された世界だ。過去の例を見ても、実体のない「情報」を実体のあるリソースと変換するゲームというのはけっこう難しそうだ。と思う。

 プレイヤーは酔狂な金持ちたち。売り出されている屋敷や城をオークションで買うのが目的。
 でも本当の目的は、建物じゃない。建物に出ると噂されている、幽霊がほしい!
 ……というバカネタなんだが。
 建物には幽霊がいるらしいけど、まだ噂なのでわからない。幽霊がいれば得点が高いが、いなければ意味がない。
 あと、幽霊がいすぎてもいけないらしい。それはちょっと、いくらなんでも危険すぎるんだろう。
 この噂の真偽がポイントだ。
 プレイヤーたちはオークションの前に、噂を流しあう。
「あの屋敷にいったけど幽霊いたよ」
 とか。
「幽霊なんか見なかったなあ」
 とか。
 でもこの噂、本当かどうかわからない。
嘘か本当か ラウンドの最初に「?カード」というものを1枚渡されている。ここには「true」「false」のいずれかが書いてあり、自分しか見ていない。
 trueのプレイヤーが流した噂はすべて本当。falseのプレイヤーが流した噂はすべて嘘。なのである。

 噂というのは、各プレイヤーの色がついたタイル「宣言トークン」を、物件の脇に並べていくことで表現する。
「幽霊がいた」「幽霊じゃなくて絵だった」の2種類の宣言が、各物件に並んでいく。
 物件の得点は、この宣言トークンによって決まる。幽霊が多いほど得点が上がる(多すぎると0点)というわけなのだが。
 嘘つきのプレイヤーの宣言は、すべて逆になるんである。
 オークションがすべて済んでから、正直者か嘘つきかを公開する。そこではじめて、各物件の本当の価値が決まる。
 つまり、まだ価値の決まっていない商品をオークションするゲームということ。

 で。このゲームの最大のポイントであろう点。
 この「嘘か本当か」という「情報」も、買うことができるんである。
 建物のオークションの前に、情報をオークションするフェイズがある。
 他の一人の伏せカードを見る権利と、余った「?カード」を全部見る権利のオークションがある。
 情報を手に入れれば、もちろん有利だろう。しかし、そこにお金を使いすぎては、肝心の建物を買えない。
 じゃあ情報はいくらなのか?
 なかなか難しい問題を提示されている。

 きわどいところにチャレンジしてるゲームと思う。
「情報」を明確にリソースと同格として扱ったゲームは、過去にも多数ある。しかし、すべてが成功だったわけではない。というよりも、じつはけっこう「佳作どまり」が多いという印象がある。
 たいていのゲームでは、伏せられている情報を手に入れれば有利だろう。だから、情報は力になりうる。
 しかしたとえば「あの伏せカードが『○○』という前提で動く」のはいつでも可能だ。そして、そうすることにしてしまえば、情報にリソースを支払う必要はない。その読み(あてずっぽう)が、偶然にでも当たってしまえば、当然そのプレイヤーが勝つ。
 ならば、最終的には、それを狙うことになってしまう。
 これはさまざまなボードゲームで見てきたことで。
「うまくいけば勝つ」選択肢は、強い。
 というより、ボードゲームはマルチプレイヤーズゲーム(3人以上のゲーム)なのだ。誰か一人くらいは運のいいプレイヤーがいるもので、そのプレイヤーに勝つためには、自分がもっと運のいいプレイヤーにならなければならない。
 まあ、この仮説の真偽はともかく。
 プレイヤーがひとたびそう思ってしまえば、情報にリソースを支払う必要は、いっさいなくなってしまう。情報の価値はゼロである。
 そうなってしまえば、もうあとは運勝負になる。
 単純に情報をリソースと変換させる場合、少なくとも「プレイヤーを選ぶ」。悪ければ「意味がない」「運勝負」になる。と思う。
 それを回避するための工夫が必要になる。ということになるだろう。それがなかなか難しい。と思う。
 失敗した例を、けっこう見てきた気がする。

「情報」に特化したゲームなら、傑作もあると思うのだけど。
 それほど多くやっているジャンルではないから、ごく個人的な範囲になるが『スルース』とか『シャーロック・ホームズ 切り裂きジャック事件』とか『ドメモ』あたりが思い浮かぶ。
 問題は「情報」と「実体」という、2種類の選択肢があったとき。この2つの統一理論が難しいのだと思う。

 ゴースト・フォー・セールも、そのあたりの罠に陥り気味という気がする。しかし、チャレンジは買いたい。
 デザイナーにとっての難度(わたしの想像だけど)のわりにはちゃんと楽しめる。ふつうのオークションとは少し違うおもしろさもある。もしかしたら、あと一歩だったのかもしれない。

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2010/03/28 05:27

ミニマルゲーム
 ゲーム・論考

 twitterで出ていた話題で、興味深いものがあったという話。

 いきなり余談だけど。
 twitterやってない方も多いだろうし、そういう方は、togetterにリンク張られても読む気にならないと思うかもしれない。つーかtogetterってなんだと。
 そういう気持ちは、わたしにも少しあったりもする。
 じっさい、twitterの発言を連ねたところで、それでは文章の体をなしていない。記事としてしっかり読む種類のものにはならないと思う。
 しかし、最近気づいたことだけど。twitterには、考えて推敲されていないことの魅力のようなものがある。基本的に思いついたらすぐに書く、思考垂れ流しの場なのだけど、だからこそ、そうした場にしか出てこないだろう論説が出てきたりもする。

 さてこのリンク先。
 世間一般で「ゲーム」といったら、それはコンピュータゲームのことだ。これはたぶん憶えておいたほうがいい。「ゲーム」に関する記事を読むとき、わたしはしょっちゅう「あーこれはコンピュータゲームの話だったのか」と気づいて最初から読みかえす。
 なので、本当の意味のゲームについての話ではないかもしれない。少なくとも前提となっているのはコンピュータゲームで、まずそちらに意識をおいて読まなければならないという意味で、わたしにとっては若干手間がかかる。

 といったあたりの前提を(自分が)確認しつつ。


ごく単純なモデルとして、ゲーム内の選択肢・分岐の数で、ゲーム性を計量しよう。完全に一本道のデジタルノベルと、選択肢で二つのエンドに別れるノベルゲームがあるとする。そのとき、前者は1で後者は2と、後者の方が選択肢が多いから、ゲーム性があるというわけだ。

 可能なところからモデル化するというアプローチはおもしろいと思った。モデルが妥当かどうかは別の議論になるけど。
 さて、ではこれを、本物のゲームで考えてみたい。
 選択肢の数からゲームを考えることはできるかどうか。

 いや、ここで「本物の」といっては語弊がある。コンピュータゲームが偽物といいたいわけではない。
 一人遊びのコンピュータゲームがゲームかどうかというのは、結論を出すことが難しい議題なのだ。そもそも勝敗が決まらないのだから。
 クリアしたら勝利なのか、コンプリートしたら勝利なのか。ルールブックには書かれていない。
 それとも、おもしろかったら勝利なのか。多くのコンピュータゲームは物語を語るが、それがおもしろかったなら勝利かもしれない。だが、それは定義できない。
 つまり、多くの場合、コンピュータゲームの勝敗は定義されていないのである。いいかえると「ゲーム」であるかどうかが確定していないといえる。「ゲーム」を語る上では、これはおもしろくない。
 いっぽうボードゲームは、少なくとも勝敗を定義できる。ルールブックに「もっとも得点の高いプレイヤーの勝利です」などと、必ず明確に書いてあるのである。
「ゲーム」について語るなら、ボードゲーム的なものを前提に話しはじめたほうがいい。と、わたしは思っている。


 あー長い前ふりだった。
 選択肢の数だった。
 元記事のアプローチにしたがい、モデル化を考えたいと思う。ただし、ここではさらに推し進める。
 選択肢の数という観点を使い「最小のゲーム」を考えてみよう。最小から議論しておくことで問題を明確にし、後の議論のベースになることができればいいなと思う。

「選択肢の数」の最小はいくつか。
 これは簡単だ。「2択を1回」が最小だろう。
 この選択をするのはプレイヤー。選択がなければゲームでないと考えるなら、プレイヤーがゲームに参加するためには、必ず1回ずつの選択が必要だ。
 選択肢の数の最小数は
「各プレイヤーが、2択の選択を1回ずつ」
 となる。
 これが「ミニマルゲーム」の条件。ということができるだろう。
 ちなみに、じゃんけんは3択である。また、引き分けの場合「あいこでしょ」が発生してしまう。あくまで選択肢の数によるなら、じゃんけんでさえミニマルゲームではない(!)。

 2択1回のみで、ゲームは成立するだろうか?
 成立する。というか、ある。
 クク(カンビオ)である。

 簡単に説明すると。
 まずプレイヤーに、カードが1枚配られる。
 その1枚を見て「全体で1番弱いカードかどうか」を判断する。最終的に、1番弱いカードを持っていたら敗北となる(敗者を決めるゲームだ)。
 そこで、2択。配られたカードをそのまま持っている「ノーチェンジ」か、となりのプレイヤーと交換する「チェンジ」か。
 重要な要素として書いておかなければならないのだが。「チェンジ」にはリスクがある。チェンジする相手がある特殊札を持っていると、その場で即座に失格になることがある。
 このリスクを考えると、できればチェンジしたくない。だが弱い札ならチェンジしないと負けるかもしれない。
 この選択を、プレイヤー全員がおこなう。
 最後に、すべてのプレイヤーが持っているカードを公開する。1番弱いカードを持っているプレイヤーが、敗北だ。
 やることは本当に「ノーチェンジ」「チェンジ」のどちらかを選ぶだけ。それを、各プレイヤー1回。それで勝敗が決まる。
 まさに上述したとおり。最小の選択だ。最小のゲームのひとつといえるだろう。
 まあじっさいには、このディールを何度もくりかえすわけなのだが。しかしククの場合、次のディールに持ち越すリソースがないため、1ディールを1ゲームととらえることも可能といえる。
 ここでは、このゲームを「1ディールクク」とでも呼んでおくことにしよう。


 さてしかし、選択肢の数は本当に重要なのか?
 じつは、そうは思っていない。
 上にも挙げたじゃんけんの場合、3択を最低1回選択するゲームということになる。しかし、3つの選択肢には差がまったくない。
 まあ現実には、人間の身体の構造上、若干の差はある。「グーとパーはチョキよりも出しやすい」とか。世界大会でもチョキの比率が一番低い。「(右利きの人が)身体の左側に手を出すときはパーを出しやすく、右側に出すときはグーを出しやすい」とかもあるかもしれない。でもそういうのは、ここではおいておくとして。
 3つの選択肢はいずれも、3分の1の確率で勝ち3分の1の確率で負ける。ゲームシステム上、まったく差がない。どれを出しても同じなのである。
 これはつまり、ただの運ということだ。
 じゃんけんの3択は、選択といわないだろうと思う。少なくともゲーム上の意味としては。選択はゲームの必須要素だけど、選択には意味がなければならない。
 等価な選択肢は数えない。
 とすると、じゃんけんの選択肢は1択扱いだ。ゲームではないことになる。

 等価でなければ数えていい。これは別のいいかたをすれば「ジレンマ構造があるかどうか」ということになるだろうか。
 ジレンマというのは、Wikipediaによれば

  • ある問題に対して、2つの選択肢が存在し、そのどちらを選んでも何らかの不利益があり、態度を決めかねる状態

 のことだ。
 ボードゲームに登場する場合は「堅実か博打か」とか「当面の利得か将来の投資か」といったあたりが多い。
 たとえば、「1点」と「サイコロを振って6が出たら3点」の選択肢があれば、これはジレンマかもしれない。「堅実か博打か」の例である。相手に勝つためにサイコロを振るという選択がある。おもしろいかどうかはともかく、ジレンマであるとはいえるかもしれない。
 囚人のジレンマ(お互い「協調」なら3点、相手が「協調」自分が「裏切り」なら5点、逆なら0点)がゲームであるかどうかは、わたしにはわからない。1回だけのゲームの場合、どちらを選んでも相手の選択次第でしかなく、じゃんけんと変わらない。
(ただ、これが複数回のゲームとなると話が違ってくる)

 ククには、ジレンマがある。弱い札を配られたとき、チェンジしたら特殊札を喰らって失格になるかもしれないが、ノーチェンジでは負けてしまう公算が高い。
 その意味でも、ククはゲームだ。ゲーム性を持っている。

「ジレンマつき選択肢」あるいは「実効選択肢数」の数から見るミニマルゲームモデルのひとつが「1ディールクク」であるということは、いえるのではないかと思っている。
 ゲームであるために最低限必要なのは、2択1回×プレイヤー人数である。とりあえず、ククという例はあったのだ。


 では、ここから少しずつ議論を拡張していくことはできるだろうか。
 1ディールククに登場するリソースは1つ。カードのみだ。たとえばこれが2つに増えたときはいくつの選択肢があればいいのか?
 1ディールククがおもしろいかというと、さすがに物足りない。ではどれくらいまで増やせばいいだろう?
 上に書いた囚人のジレンマは、1回のみのゲームでは、インタラクションが強すぎてじゃんけんと変わらない、といういいかたもできる。強いインタラクションは実効選択肢数を減らすのかもしれない。
 とかそんな議論を、ここから展開できるかもしれないとは思える。

 おそらく、コンピュータゲームを前提にした議論とはかなり趣が違うと思うけど。
 そういうことを考えることは、たしかにできるかもしれない。そういう意味で、紹介した記事が興味深かった。と思ったのだ。

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2010/03/20 13:44

『ドミニオンへの招待』方式でカード格付け
 日記

amazon 先日発売された、奇跡のボードゲーム攻略本(出たのが珍しいという意味で)ドミニオンへの招待で、多くのページを割いているのが、カードクロスレビュー。4人のレビュアーがそれぞれ、各カードに1~10点の得点をつけ、コメントするというものだ。
 ファミ通クロスレビュー方式といえば、通りがいいかもしれない。

 本は買って読んだので感想を書こうと思ったのだけど、どうもこれは、感想を書く種類の本ではないのではないかというような感覚がある。
 4人のプレイヤーが、各自の主観でカードをコメントしてるページが主だ。コメントは完全に主観で、データにもとづく内容はない。そもそも、点数に意味はないと明言されているし。そんなクロスレビューのページが3/4ほどを占めており、戦略に関するページは少ない。
 もちろん、それはそれでひとつの立場だ。こういう風にカードを見ている人がいる、では戦略は各自で考えろと。それはそれでいいと思う。じっさい、選ばれる王国カードはゲームのたびに違うわけだし。なによりドミニオンは、相手プレイヤー次第でいくらでもゲームが変わるマルチゲームである。ある戦略について、必ず正しいと保証することはできない。

 だけど、さてそうなると。
 本がおもしろいとかツッコミ入れたりとか、そういう話にはならない気がするんである。
 ではどうしよう。ということで考えた結果。
 自分も、カード格付けをやってみようと思ったんである。

 けっこうこれ、苦労したけどね……。


  • 10点
    仮面舞踏会、金貸し、宝の地図
  • 9点
    礼拝堂、執事、見張り、公爵、交易場、貴族
  • 8点
    漁村、庭園、鍛冶屋、魔女、書庫、議事堂、拷問人、幽霊船、探検家
  • 7点
    中庭、詐欺師、公使、男爵、鉱山の村、大使、海賊船、祝祭、寵臣、改良、船着場、商船
  • 6点
    地下貯蔵庫、原住民の村、貧民街、倉庫、改築、民兵、橋、鉄工所、隊商、巾着切り、引揚水夫、島、市場、研究所、ハーレム、バザー
  • 5点
    堀、秘密の部屋、灯台、工房、村、大広間、玉座の間、共謀者、闇市、航海士、鉱山、貢物
  • 4点
    宰相、木こり、密輸人、役人、銅細工師、偵察員、海の妖婆、策士、へそくり
  • 3点
    手先、抑留、停泊所、泥棒、宝物庫、冒険者
  • 2点
    密偵、破壊工作員、前哨地
  • 1点
    真珠採り、願いの井戸、祝宴

 得点の分布は本に倣った。10点が3枚、9点が6枚、……、という分布が、本にちゃんと書いてある。
 内容についての解説はめんどうなのでしませんが。というかやるならドミニオンレシピでやるべきだろうという気もする(やるかどうかはわかりません)。

 というわけで、これもまた、あるいちプレイヤーの見方だ。
 という感じでなら、せっかく出た本を活かせるんじゃないかと思ったりとか。

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KTC -2010/03/20 14:09
冒険者がお好きだと聞いていたのですが、ずいぶん評価が低いですね。これは拡張が出たことによって評価が下がったということでしょうか。


てらしま -2010/03/20 14:14
 どうもです。拡張で評価下がってます。
 あと、個人的に好きだけど点数低いカードは他にもありますね。そういうのは、高く評価する必要はないかなという気がしてます。わたしは使うけど(笑)。


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