「収束性」というのは、ボードゲームに特有の言葉だ。なかなか終わらないゲームなどに対し「~が悪い」という用途で使われる。多数のタイトルを短時間で遊ぶ近年のボードゲームでは、非常に重要視されている概念でもある。一番重要、かもしれない。
単純にプレイ時間が長いという意味ではない。ゲーム終了条件をなかなか満たせない、終わる前にプレイヤーが飽きる、という意味のほうが近い。
例えば『超人ロック』という古いゲームがあって。同名のマンガからいろいろなキャラクターが登場し善と悪に分かれて殴り合うゲームなのだけど。このゲームに「ラフノールの鏡」という能力を持つキャラクターが登場する。攻撃を受けたとき、1D6を振って4以下ならテレポートする(逃げる)という能力だ。このキャラクター、なにしろぜんぜん死なない。善と悪に分かれて相手陣営の全滅を狙うゲームなので、相手陣営としては倒さなければならないのだけど、死なない。このキャラクターがほぼ勝ち目をなくしたとき、どうなるか。ひどく細い勝ち目が訪れるまで、ひたすら逃げまわることになる。
こういう場面が「収束性が悪い」といわれる。
昔のゲームなら、終わらないゲームなんていくらでもあったんだけど。いまの親切なゲームばかりの環境では、こういうのは避けられてしまう。そういう風潮になっているし、じっさいのところ、数十個のゲームが積まれるゲーム会でわざわざそんなゲームを遊ぶのかとなる。
単純に「時間が長い」の意味ではない。映画『ロード・オブ・ザ・リング』は、3部全部見たら9時間以上かかるけど、別に飽きないだろう。
長いこと自体は問題ではない。いつ終わるかわからない、終わると思った時に終わらない、といった状況が悪い。
自分が考えている「収束性が悪い」の条件を書いておこう。
・終了条件が不定
・勝とうとする選択がゲーム終了条件を遠ざける
・その結果、プレイヤーが飽きる
上に書いた『超人ロック』の例は顕著だ。「ラフノールの鏡」を使うことは、ゲームとして自分の勝利条件を満たすための、ルール上で正しい行動だ。しかしそれがゲームを長引かせてしまう。その結果、飽きる。なぜ飽きるかというと、プレイヤーが終わると思ったタイミングで終わらないからだ。
このゲーム、終盤に、善と悪ほぼすべてのキャラクターが集結し最終決戦が起こる。もちろんこれはクライマックスなのだが、その最終決戦を、ラフノールの鏡を使ったキャラクターが生き延びてしまう。その後、味方の多くが脱落し敗色濃厚になったりするのだけど、そうなった後でも、数時間にわたり逃げ続けることができる。しかも、そうすることが彼女にとって正しい選択だったりする。
クライマックスを経ても終わらない。これまたあいまいな領域に踏み込んでいるのだけど、プレイヤーは、クライマックスの直後に物語が終わることを望んでいる。そこで終わらないと、飽きる。
このあたりが「収束性が悪い」を感じるメカニズムだ。
さて、ここで話したいのは、条件のひとつ「勝とうとする選択がゲーム終了条件を遠ざける」だ。
「勝とうとする選択」という言葉には、ちょっとわたしの望みが入っていたりする。これは単に「選択」であってもいいのだけど、あえて「勝とうとする」をつけている。ゲームとは勝ちを目指すもの、という前提が自分の中にはあるから、それを継承してここにもつけているのだけど。
例によって、ゲームとはなんなのかに類する領域の話だ。これは深すぎる話なので避けたいところではあるのだけど、やっぱり避けられない。
いい境界例は『ストーンエイジ』だ。このゲーム、3時間かかるといわれる場合もあるし、1時間もかからないといわれる場合もある。まあ後者は、慣れたプレイヤーがネット(BSW)で対戦したらとかそういうのだけど。
理由は簡単。建物タイルの山のうちひとつが尽きたら終了なのだけど、その建物タイルを誰もとらない展開ではゲームが終わらない。建物タイルはゲームの目的である勝利点を獲得するための行動なのだが、それを、誰もやらない場合がある。
これは「収束性が悪い」のか。わたしは、ストーンエイジの収束性はいいと思っている。「勝とうとする選択」を選べば終わるからだ。
しかし現に、収束しないゲームが各所で頻発していた。
収束しない理由のひとつは、このゲームが採用している「フードサプライ」ルールだ。と思う。これは要するに、自分が持つワーカーの数に応じ食料を消費しなければならないというルールのこと。名前をつけるほどのシステムではないし一般的な言葉でもないが、たしかにそういうルールを採用した一群のゲームがある。このシステムは、ゲームに緊張感をもたらす機能を持っている。定期的に訪れる食料の供給が中間目標として機能し、ゲームに抑揚が生まれ単調さを避ける。
その中間目標が、ゲームの目標を忘れさせてしまう。勝利点を獲得することが目標だしそれが勝利条件だとルールに書いてあるのだけど、食料を獲得することに必死になり建物を建てにいかない。
食料の供給と勝利点の獲得、この両者を天秤にかけ、時にはリスクを負い建物を建てにいく、そういうジレンマがゲームの根幹のはずだろうなのに。客観的に見れば、ゲームの目標を無視してなにをやっているのかという話だが、そうではない。フードサプライだけでも楽しめてしまうのが罪なのかもしれない。
ここは難しいなあと思う。
たとえば『カタンの開拓者たち』は、収束性が問題になることがほとんどない。しかしあれも、本当は、プレイヤーが意思を持って終わらせなければ終わらないゲームだ。全員が道を引くことにだけ注力していたら、終わらないのだ。
この境界はどこにあるのか。ゲームの複雑さとか目標の明確さとかいろいろあるだろうけど。けっきょくのところは、プレイヤーがどう感じるか、あるルールの元に置かれたとき人間がなにをしようとするか、といった、あいまいな領域の話に向かってしまう。
明確に収束する/しない場合の例も書こう。
絶対に収束するゲームの代表例は、規定のラウンド数で終わるゲームだ。
『テラミスティカ』や『アグリコラ』は長時間ゲームだが、ラウンド数が決まっているから必ず終わる。ああいうのには収束性という言葉自体が使われない。
逆に境界領域の向こう側、確実に収束性がないのは、次のようなケースだ。
例えば、場のカードが売り切れたらゲーム終了とする。もちろん場のカードを買えば勝利点が入る。このカードを買う選択をAとする。しかし別の選択もあって、そちらでも勝利点が入る。選択肢Bだ。
ここでBのほうが得点が高い場合。これはもう終わらないゲームになる。勝利点を獲得するためのもっとも効率のいい行動が、ゲーム終了を遠ざけているからだ。
『ドミニオン』で、拡張のカードを使っているとまれにこれに近い状況が発生したりする。「城塞」と「司教」があるゲームとか。
最近話題になったゲームだと『プラエトル』というのがあるのだけど。このゲーム、たしかに、終盤の得点源に選択肢Bがありうる。
ただし難しいのは、これを「全員が」やるのかというところ。一人が選択肢Bをやったとして、そのとき他のプレイヤーが必ず選択肢Aをやる構造になっているなら、(そして飽きる前に終わるなら)収束性に問題はないことになる。そのあたりは何度かやってみないとわからないし、プラエトルがどうなのかはまだ自分の中で結論が出ていない。
ちなみに、プラエトルはいろいろ問題があるもののおもしろく、わたしは好きだ。再調整版ルールとか出ないかなあ。
できることが多いゲームでラウンド数以外の条件を作るのは、じつはけっこう難しい。収束性のことを考えているといつも、『プエルトリコ』の終了条件を思い出す。3つもある。あれは、ああでもしなければ終わらないのだ。
あともうひとつ難しいのは、最終的にプレイヤーが飽きなければ問題ないという点。いくら長くだらだら続いても、最初からプレイヤーがその覚悟をしているなら、問題ない。『ノミック』をネット上で何年間もやり続けていたグループというのがあったのだけど、彼らはそれが問題とは思わないだろう。ノミックは収束性が悪いどころか、たぶん終わらないゲームだ。そんなことは、彼らもとっくに気づいているのだけど。
「飽きた」の意味はけっきょくのところ「思っていたよりも長かった」だったりするだろう。プレイヤーに依存する、あいまいな話だ。例えばどんなゲームでも10分で飽きるプレイヤーが一人混じっていて、彼がスマホをいじりはじめたら。そういう行動は容易に、同卓のプレイヤーに感染する。そのゲームは「収束性に問題」といわれる可能性が高くなる。
飽きっぽいプレイヤーがどれだけいるかは、別にいいことでも悪いことでもなく、文化の問題だ。現代は多い。たぶん世界的に。
などなど、とても多くの話が絡んでくる気がするのだけど。でもそれはそれとして。自分の境界は上にも書いた、勝利点を取って収束に向かうなら問題ない、というあたりだ。
収束性が悪くてもおもしろいゲームはけっこうあって。いや、そういう粗さがかえっておもしろいと感じることも多かったりする。「収束性が悪い」からといって、やらないのではもったいない。
そういうゲームは、始める前に「全員が了承したらゲームを打ち切る」と明言して遊ぶといいんじゃないか。と思ったりする。
自宅でゲーム会やった。
だらだらとしゃべったりラーメン食べにいったり。
他『スマッシュアップ』、『おとぎの国からの脱出』あたり。スマッシュアップは拡張セットの日本語版が出ないのだけど、英語版手に入れようかなあ。
メビウス便できた、なんかタイトルを憶えられないゲーム。タイトルにXが入ってたなということだけは憶えてる。
いわゆるゴーアウト系、大貧民系なのだけど、少しだけひねりが入っていて、そしてそれがおもしろい。
順番に手札からカードを出していく。同じ数字が何枚もあれば、まとめて出してもいい。手札を最初になくしたプレイヤーの勝ち。
大貧民系と書いたけど、考えてみればそうでもない。前のプレイヤーが出した数字よりも大きい数字を出す必要はないし、枚数縛りもない。ただ、できるだけ多く、大きい数字を出したほうが有利ではある。そのへんが、大貧民と似た構造を作ってはいる。
ふつうの大貧民は、プレイしたカードをテーブルの中央に重ねていく。けどこのゲームは、自分の前に出す。各プレイヤーが、これまでなにをプレイしたかが一目瞭然になっている。そして、カードをプレイしたときに、直前に同じ枚数のカードをプレイしたプレイヤーがいたら、そのプレイヤーへの攻撃が発生する。
例えば。6を4枚プレイしたとき、直前にカードを4枚プレイしていてその数字が6より小さいプレイヤーがいれば、そのプレイヤーを攻撃することになる。攻撃したら、次のようなことが起こる。
枚数が同じときに攻撃が発生するので、1枚で出したカードはとても攻撃されやすい状態になる。また、数字が低くてもたくさん出せば攻撃されづらい。そのへんが大貧民に似た構造になっているのだけど、しかしそこにインタラクションが入っている。トップを叩こうかとか、あのカードがほしいとか、そういうプレイヤーの思惑が絡んでくる。そこがとてもいい。叩き合いなのに、枚数が一致しないと攻撃できないランダムがあるから、ギスギスしづらそうなところもいい。
あと、攻撃されたとき、そのカードを手札に戻す代わりに場に表向きに並んでいるカードから補充することができる。ということは、弱いカードが攻撃されるとより強いカードに替えることができる。特に場にいいカードがあるときは、それをあえて狙ったり、攻撃したいのにしづらくなったりする。そのあたりの、状況が変化していく感じも非常におもしろい。
なにしろ手札が多いほうが攻撃しやすく防御しやすいわけで、攻撃を受けると手札が増えるわけだから、逆転が起こりやすい構造もある。
個人的にはけっこう絶賛だ。こういうテーマのないシンプルなカードゲームは「イマイチ……」か「最高!」のどちらかになる。大多数は前者で、たまに現れる後者はだいたいすごいゲームだ。作り手側からすれば博打だろう。アブルクセンは、わたしにとっては久しぶりに当たった後者だ。
と思っていたら、そういえば作者がクラマー&キースリングなんだよな。やっぱりすごい。
会場にいったら、隣の部屋でもゲーム会やってて驚いた。最初間違えてそちらに入ったら、ふつうに知っている人がいてあいさつしたりしてたけど。
ゲームマーケット直後のゲーム会なのでゲムマ新作を遊ぶのかと思えばそうでもない感じだった。惨劇RoopeRをずっと遊んでいる卓があったり、ワンナイト人狼とかドミニオンとかが立っていたり。
自分はゲムマ新作を中心に遊んでた。
遊んだゲーム。
今回のゲームマーケットの印象としては、もう本気で絵が重要な世界になったという感じ。前からずっとそうではあったんだけど、全体の見た目のレベルが上がってきて、もうきれいなパッケージがないと話にならない世界になった。これについていく気だと大変だなあ。
ゲーム内容の方は、前回あたりからけっこうゲーマーズゲームも登場していて、これは個人的には大歓迎。おもしろいゲームもたくさんあるし。
そのへんでなんとなく感じているのは「絵かゲームか」のせめぎあいというか。
ゲーム作る人には多分いろんなタイプがいる。ボードゲームのゲームシステムを作りたい人、コンピュータゲームを再現したい人、二次創作がしたい人、まあ単純に功名心が強いタイプっていうのもいるかもしれない。
そんな中で、最近、本職がグラフィックデザイナーという人たちが結構な数出てきてるんだと思う。もう完全に、プロの仕事だろこれと思うことが多い。でもそれが、ゲームとしてのデザインになっていなかったり、ゲーム性の部分が思いの外足りなかったりということはやっぱりある。
それでもきれいなほうが楽しさを感じやすいという面はあって、無駄というわけではもちろんない。
そもそもきれいじゃないと売れないのなら、彼らにゲームデザインを学んでもらうのが一番いいゲームを生み出す方法だし、そのうちそうなるんじゃないかなあという気もする。
『仮面の王』のリファレンスシートに誤りがありましたので、修正版を用意しました。
下記からダウンロードできますので、必要に応じ印刷するなどしてご利用ください。
修正箇所は下記です。
カードの記述との間に食い違いがありました。すべてカードの記述のほうが正です。