ヒストリエというマンガの7巻の限定版に、付録としてついてきたのがこれ。
作者自らルールを考案した将棋だそうです。劇中にも同じものが登場する。
プラスチックのきれいな駒と、8×8のボードがついてる。
ルールはだいたいこんな感じ。
チェスというより将棋のほうがいくらか近いけど、将棋ともけっこう違う風。
あとおもしろいのが、弓兵。最初は矢が一本乗っている状態ではじまって、この矢を撃てる。しかも8方向に撃てて、射程は無限。もちろん矢は自力では動けないけど、弓兵から斜線が通っていれば矢を回収することができる。
すごく強そう。なのだけど、あくまで遠距離攻撃なので、将棋の飛車とは違う。これで敵の駒をとっても自分は動いていないのだから、攻め込んでない。
まだ遊んでないけど一人で動かしてみている感じ、この矢の感覚が将棋とぜんぜん違ってむずかしい。
あと敵陣に張れないので、どう詰めればいいんだかまださっぱりわからない(笑)。
ルールブックにはアドバイスとして、駒得を重視しようとか、物量戦がカギだとか書かれている。そうなんだろうなー。
アブストラクトゲームではあるのだけど、将棋よりももう少し再現性を重視している。そこはやはりマンガ原作だし。
本当に遠距離を撃てる弓兵もそうだけど。本編のマンガでもこれから語られることになるであろう王子への譲位とか。重装歩兵とか。しかも二歩ありなので、活用するとファランクスっぽい感じになりそう。
まだプレイしてないけど、そのうち遊んでみたい。
(BGMは例によって、小柳ゆき「あなたのキスを数えましょう」で)
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「歴史的重要性の観点からわたくしが勝手に選ぶこの20年の代表的ボードゲーム(欧州系システム限定)。モダンアート・カタン・エルグランデ・フィレンツェの匠・プエルトリコ・キャメロットを覆う影・ケイラス・ドミニオン・七不思議。みんなもやってみよう。みんなって誰だ?」
こちらの記事がおもしろかったので。気づくとうっかり書きはじめてた、てらしま版なんだけど。
アレだ。二番煎じとか、サイト更新のダシとかそういうたぐいのアレ。「みんなもやってみよう」って書いてあるし。
ちなみに、わたしはあんまり歴史に明るくない。これから書くのはあくまで、わたしが認識している歴史であり、けっこうてきとうなこといってる。間違いもたぶん含まれている。
元ネタのTaiju_SAWADA氏なんかと比べると、プレイしてるゲームの数もぜんぜん少ないし。なので、そのような記事だと思うといいです。
もともと捏造って入ってるし。
あちらに倣って、最初にタイトルを挙げると。
いや郵便馬車はさすがにない気がするな……。
気が変わったら変えるかもしれない。
まあこれ全部書くまでわたしが飽きないという保証はないけど。この1回だけで飽きたりする可能性も高いですが。
まずはおなじみカタンから。
元ネタの記事は20年史なんだけど、なぜ20年かというとモダンアートからはじめるため、と書かれている。わたしはカタンからはじめるから15年史になる。じっさいは16年か。
だいたいの話、わたし自身がカタンからボードゲームに入った人間なのだ。それ以前のゲームはあまり知らないという事情がある。
カタン以前のゲームだと『スコットランドヤード』とか『貴族のつとめ』とか『ラミーキューブ』とか、それなりにやってはいるのだけど、リアルタイムじゃないこともあり理解があいまいなのだ。
そういうわけなので、この話はカタンからはじまることになる。ただ、ドイツゲーム的なるものがカタンからはじまったのかといえばそんなことはない。カタン以前から、ドイツはドイツだった。
カタンが登場した環境というのを語っておく必要がある。
まず、ドイツゲームとはなんなのか。ドイツゲーム的なるものとはなにか。それは、カタン以前にはすでに確立されている。
前述した『貴族のつとめ』などもそうだけど。ある程度のテーマ性を持ちつつ……、なんだろう。単純なルールとか、短時間で終わるとかいうあたり? そのへんは少し後述するけど。ドイツには、それがすでにあった。
ドイツ年間ゲーム大賞の歴史を見てみると、創設された79年がウサギとハリネズミだ。その後数年間は右往左往しているようにも見えるが(85年の『シャーロックホームズの事件簿』とか、けっこうよくわからない)、まあおおむね、少ないルールかつ短時間で終わる、抽象度の高いゲームが多い。ドイツゲームはそういうものなのだ、という方向性は、これを見るだけでもなんとなく感じられる。当時のこの賞に対する空気とかそういうのはわからないので、なんともいえないところはあるが。
では、そんなドイツボードゲーム的なものの起源はなんなのか。そこは正直、知らない。
『スコットランドヤード』なのかもしれないし『ウサギとハリネズミ』以前のなにかなのかもしれない。知らないからとらえかたが大雑把になっているけど、本当はもっと細かくいろんな変化があるはずだと思う。
そのあたりは掘り下げない。なぜなら、15年史だから。当時、ボードゲームはすでにそこにあったのだ。
いっぽう、ドイツボードゲーム以外のゲームに目を向けると。
もちろん、とっくにコンピュータゲームの世界になっている。ファミリーコンピュータが1983年、スーファミが1990年。カタンのころ、日本の子供たちはドラクエ6をやっている。わたしはヴァンパイアハンターに夢中だった。「歴史」なんて書いてるけど、じつはぜんぜん最近の話だったりする。
とはいえもちろん、アナログゲームがすっかり死に絶えていたというわけではない。当時のアナログゲームがどうだったかというと、かなり遊ばれていた。むしろ、市場規模はいまよりずっと大きい。ただやはりコンピュータに押されて、急速に縮小している。そんな時代だ。
いわゆるウォーゲームは100年くらいの長い歴史を持っている。ドイツではあまりプレイされていなかったといわれているが、どうなんだろう。少なくともアメリカや日本では長く遊ばれていた。そしてこの頃にはすっかりコンピュータゲームに地位を譲って久しかった。
TRPGもある。起源からいうなら、いわゆる「ごっこあそび」というのは何千年どころか有史以前から、というか人類以前からたぶんある。なにしろ犬も猫もやる。それはずっとあったのだけど、TRPGというかたちでは20世紀になってからの話だ。ウォーゲームからの流れでアメリカで誕生したのが有名なダンジョンズ&ドラゴンズとなっている。TRPGは日本でも大流行したが、ちょうどカタンの数年前、バブル崩壊のころに衰退がはじまっている。アメリカでも同じくらいっぽい。
もちろんボードゲームもある。ずっとある。アメリカならモノポリー(1935年)とかアクワイアとかリスクとか。日本なら、エポック社が出してたいろいろとか。いまとなっては想像しづらいが、コンピュータゲーム以前の世界というのは、みんなかなりボードゲームを遊んでいた。ボードゲームはTRPGよりも古いし、ずっと浸透していた遊びだ。そしてやはり、このころにはすっかり衰退している。そりゃあ、コンピュータゲームのほうがおもしろいからだ。
ってそんな大きな歴史はじつはあまり関係なくて。人が減っても愛好家はもちろん残っていたし、これは愛好家たちの物語だ。
要は、ドイツのボードゲームとはけっこう違う遊びを遊んでいた。そういうことがいいたかった。
で、そこにカタンの登場となる。
カタンの前の文脈としては、コンピュータゲームだが『シヴィライゼーション』(1991年)があっただろう。「開拓ゲーム」「拡大再生産」の下地は、アメリカからきたものだ。
さて、カタンが当時どのように受け入れられたかというと、わたしは知らない。『ドイツゲームでしょう!』(小野卓也)によれば、ドイツでははじめ、こんなにルールの多いゲームが売れるはずないといわれていたそうだ。
これ、日本からみると違和感がある。
日本というのはどちらかといえばアメリカに近い文化である。当時日本でカタンを遊んだのは、ウォーシミュレーションやTRPGでアナログゲームをしていた連中だ。彼らはもちろん、いわゆるボードゲームにも手を出していた。国産なら、エポック社から出てたウォーシミュレーション亜種のようなゲーム群とか『モンスターメーカー』とか『ダイナマイトナース』とか。
そんな当時の日本のゲーム文化からすれば、カタンはむしろ「なんて簡単なルール」だっただろう。当時、カタンを初めて見たころ「難しくないから見てればわかるよ」などといわれたのを憶えている。
忘れられがちな視点なのだが。当時の日本がそうだったのなら、ドイツにもきっとそういうところがあったのである。
数は知らないがドイツにだってそういう愛好家はおそらくいたし、彼らからすれば、カタンはやはり簡単なゲームだっただろう。もちろんドイツでは、それはメインストリームではなかったようだが。
カタンは、そういう2つの文明の衝突だった。
カタンが生み出したものとはなにかというと。それは、アメリカ的な猥雑なリアリティとドイツゲームのシンプルさとの折衷案であり、それを昇華したものだ。
60分から90分程度で終わり、その中で重厚なテーマを表現したもの。「ファミリーストラテジー」などと呼ばれるものである。
ドイツ文化側から反映されたもののうち、もっとも重要なのは「収束性」である。収束性というのはドイツゲーム最大の特徴であり、アメリカになかったものだ。
限られた時間内に、間違いなくゲームが終わること。これが意外と、アメリカ文化圏のゲームにはない。あと日本にもわりとない。
ドイツはサッカー好きだし。なんてところは関係あるんだろうか。
ゲームは競うもの。最終的には勝敗が決まる。勝敗が決まるためには、終わることが保証されている必要がある。もうひとつ加えるなら、ある程度決まった時間の中で終わったほうが都合がいい。
そのことを、どういうわけかアメリカ文化は保証しない。いつまでも続き、いつ終わるかわからない。長時間かかるウォーゲームといい、モノポリーといい。
たぶん、アメリカ人にとって、遊びの要素の中でアゴン(競技)がそれほど重要ではなかった……と書くといくぶん語弊があろうけど。コンピュータゲームでもそうだが、アメリカ人はずっと一貫してミミクリ(模倣)の遊びを重視している。そういう気はする(※1)。
あくまで傾向として、全体を俯瞰したときにそう見えるという話ではある。細かく見れば、そりゃあアメリカは自由の国だし人もたくさんいるし、いろんなゲームがあるわけだけど。
ところで日本はというと、一貫してイリンクス(目眩)の文化だ。
日本で作られるゲームというのは、例えば最近のゲームだが『Project DIVA』だったりする。わたしは音ゲーやらないんだけど、あれ見るたびにすごいゲームだと思う。存在しないキャラクターが登場して、ただリズムに合わせてボタン押すだけのゲームで、そのためにあのクオリティの絵って、いったいどんな愛があれば作れるのかと。そして間違いなく日本的だ。プレイしているときの目眩感にすべてを拠っている。ボタンを押すだけだからこそ実現できる感覚だろう。汎神論の世界だからこそある、シャーマンのエクスタシーに似たものだ。それはたとえば弾幕シューティングなどにもあるかもしれない。
ちなみにアメリカの音ゲーっていうのは、ギターやドラムとボーカルがいて、そういう専用コントローラがあって、複数人でじっさいに演奏するふりをしたりする。日本とはぜんぜん、見ているところが違う。日本はアメリカに近いなどと書いたけど、そうでないところもけっこうある。
そしてやはり、日本からカタンが生まれることもなかっただろう。アゴンを強く求める文化がないから。イリンクスによる楽しみに、相手プレイヤーは必須でないというところもある。
余談もいいとこだった。日本は関係ない。
ゲームを作るとき、アメリカは遊ぶための世界とツールを用意する。関係ないけど日本は、没入するためのストーリーとキャラクターと、非日常の演出を用意する。そしてドイツは、競争のためのルールを用意したのだ。
カタンが生まれる土壌は、ドイツでなければならなかった。ドイツでしか、この「収束する」ゲームを生み出せなかった。アメリカの存在も必要だった。両者が混じりあうことで「ちゃんと終わる戦略ゲーム」としての「ファミリーストラテジー」が、突如として誕生した。
それがカタンだ。
そしてそれは、これまで見たことのない楽しみだった。うっかりするとコンピュータゲームよりおもしろいかもしれないゲームだったのである。
これが、この後15年間を支配したドイツゲーム的なモノのはじまりだった。
たぶんつづく。
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カタカナ2文字とかね。さっぱり検索できないし。
いろんなかたちのタイルがある。これを、自分のボードに全部置ききったら勝ち。たいへんわかりやすい。
手番がきたらサイコロを3個振る。この3個を自由に使って、アクションをやる。タイルに数字が書かれているので、合計でその数字ちょうどになるようにサイコロをつかえば、そのタイルを配置できる。
たとえば、3の目と6の目をつかって、9のタイルを置く。
自分のボードは狭いので、タイルは積み重ねないと置ききれない。でも下に隙間ができるような重ねかたはできないというわけで、パズル的な要素もある。
厚さ3mmの厚いタイルを積み重ねていく過程は、視覚的にも単純に楽しいわけだけど。
5、10、1、11の目は特別で、この数字が書かれたタイルはない。その代わり、場からチットを獲得することができる。5は「ストッパー」1枚、10は2枚。1はボーナスチップ1枚、11で2枚だ。
手番にストッパーを1枚つかうと、相手プレイヤーのボードに積まれたタイルを破壊できる(その場合も、タイルの数字ぶんのサイコロをつかう)。ストッパーを一度に2枚つかえば、破壊した上さらに、同じ数字のタイルを自分のボードに乗せることができる。
ボーナスチットは、使用することでサイコロの目に+1できる。これも強い。
このチットのルールが意外といい。
ゲーム終盤になると手持ちのタイルがなくなっていくので、サイコロの出目に「ハズレ」が増える。チットをとれるこのルールがないと、することがなくなってしまう、というのがひとつ。もうひとつは、これによって自然に、終盤になるほどストッパーが使われ、逆転が発生しやすいというところ。
タイルを置く序盤から、ストッパーで攻撃しあう終盤へ。ゲームの起承転結がすっきりと表現されている。
なにげにスマートなルールだ。
タイルの構成もおもしろい。
タイルはそれぞれ2枚ずつある。一番大きいタイルは3×4の大きさで、数字も大きく12。ボードの半分以上を覆ってしまう大きさだ。これをうまく置けるかどうかが、ポイントのひとつになる。
基本的には、面積どおりの数字が書いてあるのだ。9なら、3×3。8は2×4。
ただひとつ、例外がある。それが、一番小さい1×1のタイルだ。このタイル、書かれている数字が7なのである。
サイコロは6の目までしかないのだから、7を置くためにはサイコロを2個つかわなければならない。もちろん1マスのタイルなんかいつでも置けるのだけど、その代わり、サイコロ2個をつかわなければならない。
この7のタイルの特殊さがしびれる。
序盤は大きいタイルを置いたほうが有利なのはもちろんで、12などを最初に置けたプレイヤーは有利になる。しかし、それが理想的にうまくいってしまうと、最後に残るのは7が2枚だ。ボーナスチットがなければ、あと2ラウンドかかってしまう。
その間に、うまくタイルを置けていないプレイヤーがストッパーでジャマをしてくる。タイルを置けていないということは、チットを持っていることが多いのだ。
そういうストーリーを用意してあるんである。ゲームシステムが用意した、起承転結だ。
5、10、1、11、そして7を特殊な扱いにしたこと。それが、ゲームデザインの仕事だ。
まあ、その面積のタイルが作れないという話もあるだろうけど。
じっさいのとこ、だいたいのプレイ感は「まあまあ」というところだろうなーと思う。テーマのないアブストラクトだし、コンポーネントに派手さもない。地味なゲームだ。
でもよくできてる。じつはわりと感心した。
箱絵ですね。
『トロルマスター』はもう印刷所に原稿を渡して、待っている状態です。わたしも直前にならないと実物を見れない(笑)。
もう少し余裕あるスケジュールで作ったらいいと思います。
紹介するにあたって「○○ゲームです!」とか、いえれば楽だなあと思うのだけど。「デッキゲームです!」とか「トリックテイキングです!」とか。
いまひとつそういう流行の言葉があてはまらないんですねえ。
でもおもしろいです。
そういえば、デッキっぽいものもワーカーも登場するし、ブラフっぽいこともするんだから、
「デッキ+ワーカープレイスメント+ブラフ!」
とかいってりゃいいのかもしれない。全部どっか違うと思うけど。
そのへんは、プレイしていただければ一番いいなあと思います。
あ、そういえばルールブック公開します↓。
もう2週間後に迫ってますが、ゲームマーケット2011秋 にサークル参加するわけなのです。
でもむしろのんびり客で参加したいくらいで。
同人やってみて思うのは、他の同人作品がほしくなります。でも売り子してるので、当日はあんまり見て回れないという。ジレンマがあったりします。
そういったアレなので、とりおきを受け付けてくれるサークルはありがたいというお客様の気持ちはわかります。
でも、うちは予約の予定はないのです。すみません……。
なんでかっていうと、例によってすごい数を持っていくからで、たぶん売り切れません。
他のサークルでアレとかアレとかを買ったあとで、のんびりきていただければいいのじゃないかと思います。
それにしても。
「ゲームマーケット秋」というのは今回がはじめてなわけだけど(去年までは主催者が違う「テーブルゲームフェスティバル」という名前のイベントが同じ時期にあった)、いったいどれくらいの人がくるんでしょう。サークル側としてもさっぱり読めませんねー。
まあとにかくお待ちしております!
新作を作っているのです。タイトルは『トロルマスター』。
魔法使いたちが、使い魔を召喚したりいろいろして名誉を獲得して、王国一の大魔法使いを目指します。
使い魔は22種類いますが、1回のゲームで使うのはそのうち10種類。例のやつです(毎回違うゲーム!)。
で、なにゲームっていやいいんだろう。デッキとかわかりやすい言葉がありゃ楽なんですがねー。
最初はこの猫1匹しかいませんが、マナ(魔力の源)を溜めるとより大きな使い魔が呼べます。
こんな手札が配られまして、これをプレイして……
場に並んでるこんなカードの上に「計画コマ」を置きます。
それぞれのマスはアクションです。「調合」でマナを獲得して、それを使って「召喚」で使い魔を召喚。「攻撃」では他の魔法使いを攻撃して勝利点を獲得します。
ただ、アクションは成功するとは限りません。魔法には精霊の力が不可欠ですが、精霊は天気と同じくらい気まぐれなのです。
計画コマを置いたあと、各プレイヤーは手札を全部公開します。そして、計画コマを置いたアクションのアイコンのカードが、数字の数だけあれば成功。なければ、足りないぶんだけマナを支払わないといけません。
という感じのゲームです。
イラストは、アークキングと同じ森木ノ子さんにお願いしました。わたしがいうのもアレですが、すばらしいですねー。
ゲームマーケット2011秋 で販売します。ご期待ください。
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