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ボードゲーム
 ボードゲーム

 ボードゲームの紹介です。もちろんドイツ製が中心。
 ゲームのデータは公式ではなく、執筆者の主観です。てらしまはけっこう考えるスタイルのようなので、特にプレイ時間は長めになっています。でもメンツによって違うわね。

to.jpgボードゲーム記事一覧

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2006/02/13 01:38

ドラゴンライダー
 ボードゲーム

2006.02.13 01:30 てらしま
ドラゴンライダー
Drachenreiter
2005年
Amigo
J-K.Werde, J.d.Paul
2-6人(4-5人?)
90分

 六角形の台座の上にドラゴンの形が乗ったコマ。
 盤面にマス目は描かれておらず、移動は長さで距離を表した「軌道タイル」でおこなう。
 写真を撮ってくるべきだった。けどまあ、ウォーハンマーとかメイジナイトとかをイメージしてもらえばいい。あんな感じの移動方法を使って、レースをやるゲームだ。
 うーん、楽しそうじゃないか。
 盤面は何枚かのボードをつなぎ合わせて作られる。そこにはコースのレイアウトが描かれているだけ。
 魔法使いが、竜の背に乗っているらしい。魔法で竜に命令して飛んでる。
 スターティンググリッドに並び、各車(竜)いっせいにスタート。そして一番早く一周した魔法使いの勝利だ。
 プレイヤーにはそれぞれ「速度メーター」が渡されている。速度は毎ターンのはじめに、前ラウンドの速度から±300の範囲で変えられる。つまりドラゴンといっても車と同じで、急にはとまれない。カーブに入るときのブレーキングが重要になる。
 また、移動に使う「軌道タイル」は、長い(速い)ものほど方向転換できる角度の範囲が狭くなっている。これも車と同じだ。
 ウォーハンマーの射撃などと同じく、あらかじめ距離を測るのは禁止ということになっている。だから、目測を誤ると壁に激突したりもする。
 目測で「これくらいかな」と速度を設定し、進む。アクセルを踏みすぎて壁にぶつかったり、他の車が邪魔しているラインの外側をあえて選んだりといったレースのおもしろさを、たしかに、このルールならば再現できる。
 まあそうして、毎ラウンド一番前にいる竜から順にターンをこなしていく。
 基本的なところは、レースゲームのスタンダードにしたがった、わかりやすいルールだ。
 ただし、マス目がないということだ。斬新、とはいわないが、こういうアナログな感じはこれだけで楽しい。
 ところで、プレイヤーは魔法使いなので、魔法も使える。火の玉で前にいるドラゴンを攻撃したりできる。先行するドラゴンは基本的にどんどん進んでいくので追いつけないのだが、魔法で攻撃したりすれば追いつけるようになっている。
 ドラゴンには体力があり、追突したり壁にぶつかったり、火の玉を喰らったりすると体力が減る。体力がゼロを下回ったら「負傷」して、魔法が使えなくなったり最高速度が制限されたりしてしまう。
 とそういうゲームだ。
 基本的には、楽しい。角度と距離を指定できる軌道タイルも、魔法も、ちゃんとバランスよくできていると思う。
 これはいい題材をみつけたなあと、思ったわけなのだ。このルール自体は、新しいわけじゃないが、見事だと思う。
 問題はやはり、どうしてもこのアバウトさにある。
 移動のために軌道タイルをあわせていると、どうしても他のドラゴンコマに指があたってしまうときがある。ラインぎりぎりを走っているときなど、わずかに動いただけでも次以降の移動に大きな影響が出てしまうのだが、いくら注意してプレイしても、これを防ぐことは不可能だ。
 ウォーハンマーとかだって、見ていれば「だいたいこれくらい」みたいな移動をしているし、誤差は移動のたびに1センチ以上ありそうなのだ。
 その上これはレースゲーム。一発のミスで壁に激突してしまう、シビアな世界だ。
 一番の問題はだ。
 ルール上では、そんな世界をちゃんと再現できてしまっているところである。
 完全にルールどおりのプレイをすることができれば、たしかに、レースをしている気分が充分に味わえる好ゲームだろう。
 だが、不可能じゃないか。だってそりゃ無理だろ。
 というわけで、シビアなプレイはぜんぜんできない。いいゲームだと思うのに、残念。
 ボードやコマのデザインにもだいぶ問題がある。
 ドラゴンコマは六角形の台座の上にフィギュアが乗っているのだが、このドラゴンが、台座からはみ出ているのだ。つまり他のドラゴンに近づくと、ルール上のコマの大きさである台座よりも先に、上のフィギュアが接触してしまう。まあたしかにフィギュアはうれしいけど、それでゲームを壊してしまっては意味がないじゃないか。
 ちなみにコマはプラスチック製で、かなり軽い。
 しかも、コースがかなり狭い。場所によってはドラゴン一匹しかとおれない幅のシケインもある。
 ぎりぎりのブレーキングをして攻めたり、あるいはサイドバイサイドでデッドヒートをくりひろげたり、したいのに。またルール上はそういうことができるはずなのに。できないんである。やっても、他のプレイヤーのターン中にずらされてしまうので意味がない。
 いい題材を見つけたのに、ルールも「魔法」の設定もハマったかもしれないのに、明らかに作りこみが足りない。なんとも残念なゲームだ。
 ボードを鉄板で作りなおして、フィギュアが乗っていない六角形の、マグネットでできたコマを作って、そこまでやってからちゃんと遊んでみたい気がする。非常に可能性を感じるのだが、残念ながら現状ではまともなゲームをやれない。
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2006/01/29 12:26

ニューエントデッカー
 ボードゲーム

2006.01.29 12:31 てらしま
ニューエントデッカー
Die neuen Entdecker
2000年
(1995年「エントデッカー」リメイク)
Kosmos
K.Teuber
2-4人(4人)
2時間

 数回やったが、まだよくわからないという感じがしている。得点の稼ぎかたが、初見の直感から外れていたことに気づいたからだ。
 未開の海域に、探検船が次々と現れる。船が進むと海タイルがめくられ、陸地を発見するとそこに探検隊を派遣する。島が完成(海岸線が完成)したら、島の面積に応じて、その島に派遣している探検隊の数に応じて得点が入る。
 探検ゲームの基本といっていいルールだ。わかりやすい。
 各プレイヤーのターンには、ボードの外延のどこかから船を出す。そして、この航海にいくらのお金を投資するかを、先に宣言する。船を進めるためにはまずタイルを置いて航路を作らなければならないわけだが、そのタイルを置くために、金がかかるのである。
 裏向きの山からタイルをとるなら1円、表向きの山からなら4円かかる。
 タイルは1枚ずつめくられ、めくられたタイルは、船のとなりの空いているマスに置ければ置かなければならない。そして、船はそちらに進む。
 もしもそこに陸地があれば、そこに探検隊を派遣して航海を終わらせることができる。資金がまだ残っているなら、探検隊を派遣せずにそのまま航海を続けてもいい。ただし船は後戻りできないので、これをやってしまうとこの航海が無駄になるかもしれない。
 金をかければかけるほど遠くの島を目指せる。またタイルが置けなかった場合は(海岸線が矛盾するとき)金が残っていればもう一度めくれるので、確率を高めることもできる。でも運を信じれば金をかける必要はなくなる。
 置かれた探検隊は歩かないので、発見できるのは海岸線だけ。
 そうやって次第にこの謎の海域の姿がわかってきて、島も全容がわかり、プレイヤーに得点も入っていく。そういう感じのゲームだ。
 とりあえず、つまり、探検家を派遣した島の面積が大きければ大きいほどいい。ただ大きな島にはたくさんのプレイヤーが絡んでくるので、1位をとるのは大変になり、それより自力で小さな島をいくつも完成させていったほうが得かもしれない。そういうジレンマと他プレイヤーとの思惑のからまりがある、とりあえずはスタンダードで、いいルールだ。
 なにより、理解しやすい。要はボード上で見た目に大きな島のほうが得点が高いのだ。ボードは限られているわけだから、皆が大きな島を意識せざるをえないわけで、これで自然にバランスが調整されるわけなのだ。
 だから、ここまでなら、「まだよくわからない」なんてことはない。
 続きがある。
 完成した島に配置されていた探検隊コマはとりのぞかれ、ボードの横にある族長小屋の小道に配置される。海の次は陸地の探索に移るのである。
 これはつまり、原住民だ。原住民は、ゲーム終了時に得点をくれる。
 族長小屋は全部で7個あり、それぞれについて、小道に最もたくさんの探検隊コマを配置していたプレイヤーに得点が入る。この得点は5点から15点のランダムで、隠されて置かれており、ゲーム中は一部のプレイヤー(最初にその族長を訪れたプレイヤーと、あと一人)しかその内容を知らない。
 この得点、実はかなり大きい。15点を獲得してしまったプレイヤーと5点のプレイヤーとでは、10点の差がつく。メインボードでいえば島タイル10個分なのだ。また、島の完成では2位にも得点が入るのに対し、族長は一人にしかくれない。
 勝利ラインは展開によって違うだろうが、70〜80点くらいだろう。そんなところで、族長小屋に力を入れているプレイヤーが運にも味方されれば、30点を稼がれてしまうのである。そうなればまず絶対そいつが勝つ。
 つまり、実は航海で大きな島をうまく完成させることよりも、族長に得点をもらうことのほうが重要なんではないのか。
 いまわたしは、このあたりにいる。
 実ははじめは気づかなかった本当の勝ちかたに、ようやく気づいたところだ。
 だから、まだよくわからないのである。
 この先また幾度かプレイしていく中で、たぶん、わたしの周囲の参加プレイヤーがみんな族長小屋を目指す(つまり小さな島をできるだけ早く完成させる)展開が起こるだろう。だがそうなったときの結論は自明。「運がいいやつが勝つ」である。
 そこで、例外を発見できればいい。みんなが族長小屋を目指す中で、一人大きな島を探索しつづけると他のプレイヤーの得点を超えうるんだとか。そういうことになれば、このゲームは傑作だったということになり、「終わらせる」必要がなくなる。
 もしもこういった例外がないことがわかれば、なにしろ族長小屋で得点をとれるかどうかは単なる運なのだから「ニューエントデッカーは運ゲーだった」と結論して、もうこのゲームをやらなければいい。
 というわけで、まだ結論が出ていない。だったらレビュー書くなよという話もあるけど。実はそんなにプレイする機会が多くなくて、結論までいけるかどうかわからないのよね。

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2006/01/27 22:39

汝は人狼なりや?
 ボードゲーム

 てらしま作ソロプレイ用スクリプト to.jpg汝は村人(仮)
 いろいろとつっこみどころがあっても気にしないで。

.todo

  • 村人側強すぎかも。共有者と霊能者が(目立たずに働いてる分)特に強い
  • 村人以外にもなれるようにする?
  • 名前が古い
  • ていうかweb人狼設置できるじゃんって話も

.要望・意見

[2006.01.27 22:37]てらしま :
一応設置しときます


2006/01/20 23:24

伝説のかけら
 ボードゲーム

2006.01.18 22:01 てらしま
伝説のかけら
2004年
遊宝堂
中村聡
3-6人(5-6人)
45分

 なんかいろいろとてきとーなのだが、けっこう悪くない。
 自分のターンには、自分の前にカードを1枚出すか、山から1枚引く。
 カードを出すと、そこに書かれている数字分が、その人の場の得点に加算される。
 つまり、手札の得点はその分さがる。
「なにいってんのあんた」と思うなかれ。これが重要なのだ。
 UNOなどと同じく、誰かが手札を使い切ったらステージ終了。そのときはふつーに、場の得点をプラス、手札に残ってしまった得点をマイナスとする。
 だがこのゲーム、終わりかたがもう一つある。
 それが「手札の得点が20点を超えたら」というもの。この場合はまったく逆に、場がマイナス、手札がプラスになる。
dennsetunokakera.jpg なるほど。手札をためるのか場に出すのか、けっこう大きなジレンマがあり、おもしろい。
 UNO系らしく、リバースとかスキップとかもある。
 ところで、UNOはパーティーゲームだから気にもしていないが、リバースもスキップも、実は強烈な攻撃だ。緻密にバランスをデザインされたゲームだったら、ありえない効果といっていい。それがこのゲームにはあるのだから、これは緻密な計算を楽しむゲームではない。計画など0.2秒で崩れてしまう。
 実際、そういう劇的すぎる状況の変化の中でげらげら笑うためのゲームと思うべきである。
 しかも。大半のカードには、なにか特殊な効果が書かれている。場に出したときに発効するものとか、いろいろだ。
 誰か一人の手札を2枚捨てさせるとか、逆に引かせるとか。
 中には「場に出せない」なんてものもある。これはそのかわり得点が高いので、手札20点を目指すときは有効になる。
 ちなみに「天和」もある
 さらには、全員の手札をとなりに渡せだとか、山札を1枚にしろだとか、なんかもうめちゃくちゃなのである。
 だが不思議と、そのメチャクチャも許容できてしまっているのだ。
 パーティーゲームではあるが、カードテキストのとんでもなさからは意外にも、ちゃんとゲームとして楽しめる。
 目標が2つある、というところがヒットなのだろうか。他人のカードは増えすぎても減りすぎてもいけないわけで、つまり上限と下限が決まっているから、メチャクチャなカードを使うときは、カードの効果がその狭い範囲に収まるだろうかと考えながら使わなければならない。常に最善の結果を狙えるわけではないが、配られてしまったカードの中で自分にはなにができるだろうかと、実はそれなりに考えるところはある。
 だから、むしろカードテキストにはとんでもないことが書かれていたほうが悩ましく、おもしろいのかもしれない。考えずにやればやれてしまうけど。
 一つの「可能性を感じる」ベースルールの上で、プレイテストと試行錯誤をくりかえした跡のようなものがうかがえる、てきとーな印象よりは手間がかかっているかもしれないゲームだ。
 ただまあ、そういうことを納得できる人とできない人がいるので「できる限り軽く」というコンセプトが感じられるわりに、プレイヤーを選んでしまっている気もする。
 つまり、UNO系の弱点でもある「次の手番を待つ間にとんでもないことが起こってゲームが終わってしまう」ことが、自分にとっては不愉快でも他のプレイヤーがジレンマのすえに出した結論なのだと、わかってくれないと厳しい。でないと、ただ次々と嵐が起こるだけの、なにがなんだかわからない遊びになってしまう。
 他人の行動を乱数と考えるか選択と考えるかというのは、実はとても大きな文化の隔たりなのである。
 というあたりを納得した上で、さらにどうしようもなく運ゲーであることも納得すれば(せ、狭い……)、多人数でちゃんと楽しめる好ゲームだと思う。

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2006/01/17 19:29

エデン
 ボードゲーム

2006.01.16 12:59 てらしま
エデン
Eden
2001年
Kosmos
G.Zuckerman
3-4人(4人)
90分

 とりあえず、こういう検索しづらいタイトルはやめてほしいわけだが。
 神の園で、畑でマナを生産して土地を広げていくゲームである。
 あー、よくわからないからいいかえよう。不動産を経営して(マナ)を稼ぎ、それを元手に血みどろの買収合戦をやるゲームだ。
 下敷きになっているのは「アクワイア」。ボードのデザインも、場所が指定されたタイルのルールも同じである。
 違うのは、買収のルール。他人の土地の隣にタイルを置くと合併が起こるわけだが、ここで対象となるのは、そこからつながった土地全部ではなく、攻撃側が指定できる。1マスだけとか、ちょっとがんばって3マス買収するぜとか、できる。また、攻撃側が買収に使う自分の土地の範囲も指定できる(つまり負けたらこの範囲が相手のものになってしまう)。
 そして、このときは必ずパックマンディフェンスが発生し、買収の勝敗は金の出しあいで決定される。より多くの金を提示したほうが(この金は買収相手に渡されることになる)、その土地を所有することになる。
 より多くの金を、と書いたが、これは「土地一つにつき○○円出すぜ!」と指定する。土地一つあたりの金額を、比べるのである。
 ここがポイントだ。
 例えば、相手が3マスの土地で攻撃をしかけてきて、その対象は1マス、という場合、こちらは相手の3マスを買わなければならないわけだから、金額も提示した額の3倍必要になる。大きな勢力で攻めこめば有利だが、負けたときのリスクが大きい。というかすごく大きい。
 ……こう整理してみると、いまさらだけど、やっぱりアクワイアを引き合いに出したのは間違いかもしれない。いや、ルールの下敷きになっているのは間違いないのだけど、やっていることは買収というより戦争といったほうが近いかも。軍資金を稼ぎ、辺境の騎士たちに(これも時代が違う^^;)指示を出して、隣国に攻めこむイメージなのかもしれない。
 というか、マナを使うんだから魔法の戦争かな。あでも、支払ったマナは相手に渡すんだしなあ。
 まあいずれにしても、楽園の名からはほど遠い世界である。りんごを食べる前から人間は変わってないのかなという、ブラックジョークに近い。
 それはともかく、やはりこの「攻撃範囲を指定できる」ルールがゲームのキモだ。
 負けていても、(それなりに準備していれば)いつでも逆転を狙えるのである。
 終了条件は「誰かの土地の価値総額が20億円になったら」と非常に明確だ。いつ終わるのか、盤面を見れば簡単にわかる。
 つまり「このままでは3ターン以内に負けるぞ!」ということがはっきりとわかってしまう。
 そこで、博打を打てるのだ。最小限の戦力をなんとかそろえ、上位のプレイヤーに「対象はここからここまで6マスでね」とかなんとかいって不利な戦いを挑んでしまうことができるのである。
 これをやると、なにしろあとのことは考えていないのだから、互いに全力のマナをつぎこむことになる。得点も大きく動く。20点で勝ちのゲームで、5点とか6点とか動いてしまう。しかも、人から人に。
 勝つのはたいてい、この博打攻撃をしたプレイヤーか、されたプレイヤーだ。
 数回やった感じとしては、自分の土地に適当に投資して収入源を確保しつつ攻撃の準備を整え、虎視眈々と機会を(攻撃対象が大金を支払うのを)待つ、という感じだ。
 状況は激しく動くのだけど、アクワイアと同じでタイルを置ける位置は手札で決まっているので、重要な位置を抱えておけば、チャンスを待つことができる。
 逆転できるゲームというのはやっぱりおもしろいのだ。
 けれどこのルール、キングメーカー(自分は勝たないが勝者を決めてしまう人)が生まれやすい。
 たとえば、自分は今14点、他に19点のプレイヤーが2人いる。ここで攻撃しなければ明らかに負けるのだが、手持ちの戦力は物足りない。
 こんなときどうするかは人によるし、なにをしても責められるべきものではないけど、わたしなら、いくら無謀でも攻撃する。相手のミスか「てへっ。実はぜんぜんお金持ってないんだー」というのを期待してやるわけだが、もちろん普通は勝てない。
 そうすると、自分が攻撃した相手を勝たせることになる。こういう理不尽が、このルールでは容易に発生してしまうのだ。弱点というべきなのかどうかは難しいところだ。だが後味の悪い終わり方が多いのはたしか。
 ……まあけっきょく、そこが楽園だろうがなんだろうが世の中は理不尽なんだねーというか。ほんとに、このゲームを「エデン」と名づけた意図はなんだったんだろう。
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2006/01/17 19:12

リミット
 ボードゲーム

2006.01.15 08:23 てらしま
リミット
LiMiTS
2001年
AMIGO
Uwe Rosenberg
2-6人(4-6人)
45分

 中央に一枚置かれたお題「リミット」カードには、5色、5つの数字が書かれている。
 プレイヤーには5枚の手札があり、うち一枚は自分の前に伏せて置いておく。この伏せたカードが、非常に重要な意味を持っているのだけど、それは後述する。
 ターンが回ってきたら、場にカードを一枚出す。このカードは「リミット」カードにある5色のうちいずれかの色がついている。
 カードを出すときは、表向きに出すのだが、下の札が見えないようにきちんと重ねて出さなければならない。
 さて、ここからが勝負だ。自分のターンには、このカードを出す行動の代わりに、誰かを「告発」することができる。
 なにを告発するのかといえば、つまり、場に出されているカードのうちいずれかの色の枚数が、「リミット」カードに書かれているその色の数字を上回ってしまっていることを告発するのだ。
 告発に成功すれば得点、限界を超えてカードを出していたプレイヤーは減点になる。
 まさに、ほぼ完全に記憶の勝負だ。
 記憶力のチキンレースである。崖に向かってどこまでブレーキを踏まずにいられるか、というあれだ。ただし、崖は5つある。
 やることは簡単。無言で、集中して、たった5つの数字をインクリメントしていけばいい。リミットを越えていたら告発、そうでなければカードをだす。それだけ。非常に単純なゲームだ。
 ただし、これだけでは単純すぎるので、前述した伏せカードがある。
 この伏せカードは「リミット」の数字を加算する。赤いカードが伏せられていたら、その枚数だけ、赤のリミットが大きくなる。だから、リミットが「0」でもカードを出していいのである。
 読みあいの要素……といいたいが、まあ実は、この部分に関しては情報が少なすぎて読みまでいかず、ほぼ乱数だと思っていい。むしろ、正確なリミットをわからなくする効果として重要だ。
 そんなゲームだ。
 相手の手札や思考を読む必要はほぼないのだし、もしもプレイヤーが全員、完全なデジタル記憶を持っていれば、たぶん単純すぎてゲームにならない。
 5色の数字を憶え続けることは、人間にとってはわりと大変だ。大変だが、やってやれないことはない。たとえばこれが4つなら、簡単すぎただろう。6つなら、憶えることは不可能ではないが、情報が多すぎて散逸してしまい「ゲームへの集中力」を維持することが難しいと思う。
「5」というのはたぶん、人間にとって、そういう限界点にある数なのだ。戦隊ヒーローが5人なのも、M:tgの色が5色なのも、同じ理由なのではないだろうか。脳の中で、一つ一つの色にキャラクター(性格でも属性でもいいけど)を与えて情報を補完することで神経細胞の結合をうながし、記憶する。この作業の過程で、情報に与えることのできるキャラクターの種類が、たぶん5に近いのではないか。
 こんな煩雑な方法をとるのは、プレイヤーが人間だからだ。コンピュータなら、連想など使う必要もなく、5つの数字を無感情に憶えるだけ。伏せカードがあるから必勝のプレイをすることはできないが、人間では太刀打ちできない程度の強さは容易に実現できるだろう。
 しかし、プレイヤーは人間なのだ。人間の不完全さ、記憶のあいまいさの絶妙なラインを利用した、好ゲームである。
 もちろん、これくらいならば完全に記憶してしまう超人もいるわけだが……。
 ただやはり、ただの数字なので地味だ。数字が5個も書かれたカードを見せられると引いてしまう場合が多く、どうしてもプレイする機会が少なくなってしまいがちになる。
 そのあたりは、同系列の傑作「マンマミーヤ!」に負けているかもしれない。もちろんリミットのほうが優れている点もある。チキンレースのなんともいえない緊張感とか。わたしはどちらも好きなのである。
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2006/01/17 13:47

チグリス・ユーフラテス
 ボードゲーム

2005.7.5 てらしま
チグリス・ユーフラテス
HANS IM GLÜCK
Reiner Knizia
3〜4人(4人)
2時間30分

 いわずとしれた傑作。もうなんつーか、見ただけで傑作である。
 ボード、駒、タイル、すべてにおいて手抜きがない。ゲームシステムも含め、デザインにおいてやれることはすべてやったという感じだ。
 ゲームは、二つの大河の間の肥沃な大地に、いくつもの王国が現れては滅びる様子を描いたもの。農業、商業、宗教、国家の4色のタイルが盤面に配置されていくことでそれを表している。
 この4色に対応した4つずつの「リーダー駒」なるものを、各プレイヤーは持っている。これはタイルと同じように盤面に配置できるのだが、一つの王国(タイルのかたまり)には、4色のリーダーがそれぞれ一つずつしか存在できない。
 もし二つ目のリーダーが現れたら「内戦」。同じ色のリーダーがいる他の国と接触してしまったら「戦争」が起こる。
 考えてみればさほど難しいルールではない。しかしここから生まれるゲームの展開は多彩だ。
 戦争で国が荒廃したり、また復興したり、大帝国ができあがったり。始めのうちは小競り合いという感じだった戦争が、終盤には大戦争に発展したり。突然クーデターが起こったり。
 そういった、たぶん千年以上の歴史の流れが、ボード上に再現される。しかもそれが非常にドラマチックなのだ。ゲームの展開そのものがまず楽しい、そういう種類のゲームである。
 大河ゲームである。プレイヤーの立場はよくわからないが、視点は神のもの。大河文明の勃興を上空から見おろし、宗教やら経済やらによって動いていく人々を眺めている。中の人間からすればそれは歴史そのものなのだろうが、神の視点からは、いわゆる箱庭なのである。
 その神であるプレイヤーが、4種類の勢力のリーダーを担当し得点を稼ぐ目的のもとにプレイすることによって、歴史が展開していくわけだ。ゲームでしかできないダイナミズムで、物語が生まれていく。
 これはゲームのために作られた世界ではない。それならば、プレイヤーは明確な誰かの視点を持っているはずと思う。例えば金とか、名誉とか、勝利点に明確な意味があるわけでもない。
 大河流域の歴史をダイナミックに表現する、それこそがこのゲームのテーマだろう。ゲームという表現メディアを使って、文明の興亡をシミュレートしているのだ。
 そしてそれは、見事に達成されている。ゲームだからこそできる表現方法で。やるたびに違う歴史が現れ、あるときは大戦争が起こり、あるときは大王国に内乱の陰謀が渦巻き、そういったさまざまなストーリーを描き出す。プレイヤーは勝利に向かってプレイするだけだが、その結果は一つのストーリーを持っている。
 だから傍目から見ていても楽しい。
 もちろん、いろいろな戦い方をでき常に一発逆転を狙えるゲームバランスも秀逸だ。
 これがデザインされたのは、偶然だったのではないかとさえ思う。なんとなくだが、クニツィアらしくない気もするし。人の手で作られたとは思えないほどの、傑作なのである。しかし、傑作になりうるルールだからこそボードや駒には最上のものを用意しようとした、そこはさすがクニツィアだ。
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2006/01/16 10:42

サンファン
 ボードゲーム

2004.6.5 てらしま
サンファン
alea
Andreas Seyfarth
2-4人(まあ何人でも)
30分

 プエルトリコの浮浪者街がSunJuanで、ずっと「サンジュアン」と読んでいたわけだが、考えてみれば、あっち系の読みなら「サンファン」、「サンフアン」というあたりだろう。そしてこの都市は浮浪者街ではなくプエルトリコの首都である。
 プエルトリコをやっていた人には、わかりやすいがわかりにくいゲームだ。
 とりあえず、説明は簡単だ。「プエルトリコの、人と商品とお金が全部手札になったカードゲーム」といえばいい。
 市長フェイズでカードを引き、商人でも採掘でもカードを引く。建設は、建設コスト分のカードを手札から捨てて行う。そういうゲームだ。
 手札はすべて建物カード。船長フェイズはなく、建物の得点のみを競う。
 で、プエルトリコを下敷きにしているがゲームはまったく違う。なにしろカードゲームだ。建てたい建物があっても引いていなければ建てられない。敵の手札がいいとどうしようもないことも多い。
 しかし、プレイヤーの習熟度がそのまま勝率に関係しているのは確かだ。手札による勝ちパターンをいくつ知っているかで勝率が変わってくるゲームで、うまい人が必ず勝つゲームではない。ダメなときは誰がやってもダメである。
sannfann.jpg
 場の状況と手札を比べて進めていく感じはマジック・ザ・ギャザリングに似ていなくもない。プエルトリコよりも、プレイ感は『操り人形』に近い。
 運が左右する部分が非常に大きく、プレイ時間も短めなのだが、気楽かというとどうだろう。なにしろ下敷きはプエルトリコである。それぞれのプレイヤーが役割カードを選び、それで発生したフェイズを全員がプレイする、という根幹は変わっていない。適当にプレイしていると他人に大きな迷惑がかかる。もっとも、慣れればそのあたりは簡単に判断できるようになるし、そこであえて違うものを選ぶといった楽しみもあるわけだが、慣れるまでは時間がかかる。
 わたしの場合、もっぱらto.jpgBrettspielWeltでプレイしているわけだが(まだ日本語版が発売されていない)、周囲の慣れているプレイヤーたちとやって、最初に10連敗した。ようやく得点の稼ぎ方がわかってくるとおもしろくなってきたという感じである。
 そのあたりもM:tGと同じだ。一度始めたら猿のようにやり続けなければ見えてこないゲームだと思う。M:tGをやっていた人なら誰でも経験があるだろうが、同じ相手と一晩徹夜してやり続ける、そういう遊び方が要求されている気がする。
 買うのはプエルトリコを知っている連中だろうのに、これはまったく違うタイプのゲームだ。まあ、やり込みが必要という点は同じなのだが、戦略と駆け引きのみで運を必要としなかったプエルトリコのファンには、この運ゲーっぷりは受け入れがたいものがあるかもしれない。そのあたりは評価を落とす要因となるかもしれないが、しかし、別のゲームだと思えばこれはおもしろいと思う。
 エレガントなゲームではなく、ルールが生みだす美しいカオスを堪能するタイプの(ライフゲーム型とでもいうか)「いいゲーム」とはいえない。そのあたりはプエルトリコから引き継がれた部分だ。多種多様な展開が生まれるが、それはルールが複雑だからなのである。そういうのが苦手な人もいると思うが、だがこれはこれで一つの形だろう。なんとなく「シンプル・イズ・ベスト」がテーゼとなっていた感のあるボドゲ界にあって、プエルトリコサンファンのヒットはちょっと小気味いいような気もする。
to.jpgプレイチャート
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