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ボードゲーム
 ボードゲーム

 ボードゲームの紹介です。もちろんドイツ製が中心。
 ゲームのデータは公式ではなく、執筆者の主観です。てらしまはけっこう考えるスタイルのようなので、特にプレイ時間は長めになっています。でもメンツによって違うわね。

to.jpgボードゲーム記事一覧

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2006/05/10 21:16

王への請願
 ボードゲーム

2006.05.10 21:16 てらしま
王への請願
Um Krone und Kragen
2005年
Amigo
T.Lehmann
2-5人(4-5人)
60分
thx to play:game

 いろんな人とコネを作りながら、最終的には王さままでたどりつく。でなにか請願するらしい。まあたぶん、大きな土木事業を国から受注するとか、そんなもんだろう(ぉ
 人とコネを作るには、その人の要求するダイス目を出さなければならない。「偶数の目だけ」とか「4個以上のゾロ目」とか、そんなの。
 キャラクターカードを入手する(コネを作る)と、その官僚の能力を使えるようになる。これは大まかにいって、ダイス目操作系とダイスを増やす系の2種類がある。
 あとで待ち受けている最終決戦ではまあ両方必要になるだろうが、ダイスは実弾なので、数が増える能力のほうが人気が高くなる。

 ダイスは、まずいくつか振って、うちの一つ以上をその目で固定し残りを振りなおす、という振り方をする。
 はじめはダイス3個しか振れない。それが、引きこんだ官僚の能力で増えていくのである。
 で、ゲーム終了条件である王さまカードをとるためには「7個以上のゾロ目」を作らなければならない。

 誰かが王さまにたどりつくと、ゲームは最終決戦ラウンドに移る。
 ここでは、各自がこれまでにゲットしたコネクションを最大限利用して、ダイス目勝負をする。たくさんのゾロ目があるほど強く、目が大きいほど強い。
 ガラガラと、9個とか10個とかのダイスを振る。パワーゲームだ。
 で、この最終決戦に勝利して公共事業を受注したプレイヤーの勝ちである。

 すごい勢いでダイスを振るゲームである。しかし誤解してはいけない。
 ダイスを振るからといってイコール運ゲーではない。
 一つを好きな目に変えるだの「4の目のダイスを加える」だの(これは加えた後で振りなおせる)、そんな能力をたくさん獲得できるのだから、もはや運の部分は非常に小さくなっている。
 こういう話は計算して示せればいいのだろうけど。ダイス目がよかったとか悪かったとか、それは結果にすぎず、それよりもゲームの行方を決めているのは、そこまでのプレイでおこなってきた選択なのである。
 運よりもむしろ、戦略とリスク管理みたいなものの勝負なのだ。
 こういうゲームではなんかわかりやすいので多用してしまう例えだが、プエルトリコに近い。
 特殊能力を持ったカードを獲得していって、自分の力を強化していく競争なのだ。
 目標は一つ、最終決戦で勝つことだ。すべての選択はそのためである。わかりやすい。最終決戦から逆算して、自分の勢力を作っていけばいい。
 直接他人を攻撃することはあまりできないが、もちろん、他人を上回ることは必要なわけで、他人を無視していいわけじゃない。他人の動向を見ながら、他人よりも効率よく、あるいはハイリスク・ハイリターンに、自分の勢力を強める。なにしろ相手はダイスなので、本気で高いリスクを背負う気ならダイスの数だけを追えばいいし、リスクを減らしたいならダイス目を調整する能力を強化することができる。

 という、けっこういいゲームだ。「ダイスをたくさん振る」ことの手軽感と昂揚感を利用し、それなのに実は乱数の寄与を減らし、マルチゲームらしい選択を用意してあるところがキーポイントである。

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2006/04/20 18:50

ビンチ
 ボードゲーム

2006.04.20 03:13 てらしま
ビンチ
Vinci
2000年
Descartes
P.Keyaerts
2-6人(4-6人?)
3時間
thx to play:game

 ヨーロッパ全土を舞台に、たくさんの民族が侵入してきて戦ってる様子をシミュレートするゲーム。これはかなり好きだなあ。でも賛否両論分かれるかもなあ。

 ちなみに『Algo』の別名がダヴィンチコードというらしく。紛らわしい。

 ヨーロッパに、わーっと海やアジアから多民族が侵入してくる。奴らはあたりの村々を蹂躙して、勝手に新たな国を作る。
 かと思えば勝手に(いやほんとに勝手に)衰退して、また他の民族に攻め滅ぼされる。
 そうやっていろいろな民族が勝手気ままにヨーロッパを闊歩する様子が、ダイナミックに再現されるゲーム。舞台としてはいつごろ? 地図が描かれたボード上にいろんな民族のコマが置かれる、そういうゲームだ。
 登場する文明は毎回ランダムに変わる。それぞれ特殊効果を持った「文明タイル」2枚の組み合わせで、文明の特徴が決まるのである。
 これが楽しい。
「農耕と将軍」の文明とか「ひたすら要塞を作る」文明とか、ランダムなのでわけのわからないものもできる。文明の種類はけっこう多い上に2枚つかうわけで、同じ組みあわせはほとんど出ない。
 というわけで、毎回違う文明がヨーロッパにやってきて、いろいろと争いをくりひろげる。

 このゲームの特徴はなんといっても「文明の衰退」を宣言できる(・・・・・)ところだ。
 これは通常のターンをおこなう代わりに宣言しなければならないので、実質上のコストがかかるわけなのだが、とにかく宣言するだけで文明は衰退する。どんなに栄えていても、プレイヤーが「衰退した」と一言いえば衰退する。
 衰退した文明の版図はボード上に残りつづけるけど、なにしろ衰退してるので、戦力は激しく弱い。しかも、もはや動かすことすらできない。他の文明に攻撃されれば、なすがままに踏み潰される。
 残骸は残ったが次第に勢力は減っていく、なんとも悲しい、いかにも「衰退」といった末路をたどることになる。
 文明を衰退させたプレイヤーは、次の文明(ボードの横に並んで控えている)を選んで、そのターンは終了。次のターンからは心機一転、新しい文明を操って繁栄を目指していくわけである。
 ……が、実は、衰退した文明のほうからも得点は入ってくるのだ。
 得点は基本的に、そのプレイヤーが支配している土地の広さに応じて、毎ターン加算されていく。この得点が、衰退した文明からも入ってくるんである。
 ということは。むしろ積極的に衰退させたほうが得点が伸びる場面があるのだ。
 ゲームとしてのキモはそのあたりになるだろう。どのタイミングで衰退させるか、現在アクティブな文明の発展性と見比べて決断していくことも重要になる。
 ていうか、それが一番重要。
 資源を確保して技術開発をして人口を増やして云々とか、そういうゲームではない。断じて違う。そういうよくある歴史ゲームとは、まったく逆のプレイを要求されるのである。
 つまり、いかに発展させるかではなく「いかに滅ぼすか」というゲームなのだ。

 文明の人口は文明タイルで決まるのだが、これははじめからそれだけの人数がいて、基本的には増えない。
 でも攻撃を受ければ減る。
 つまり、文明はまったく発展しないのである。そうなのかー。
 この変な世界観のおかげで、非常にダイナミックな展開が起こるようになっている。
 新しい民族が現れ、瞬く間に(ほんとに1ターンで)版図を広げる。でも人口は増えないので、あとは多民族との戦闘で数をすり減らしていく。
 放っておけば減る一方だし、しかたないから衰退させる。そうするとヨーロッパに新たな文明がやってきて、また他の文明を喰い荒らす。
 なにかもう、笑っちゃうくらいめまぐるしく地図が塗り変わっていくのである。まあ常に外部からいろんな民族が入ってきて争ってるあたりがヨーロッパっぽいのかな。
 文明タイルの効果もかなり個性的だ。中にはかなりでたらめな能力もある。『コズミックエンカウンター』とまではいわないが、近いものがある。ほんとに人間かお前らって感じである。
 でもそのわりに、バランスがとれている。
 たぶん、基本的に他人の土地を攻撃することしかできないルールなので、プレイヤーたちの裁量でバランスをとることができているのだろう。
 このあたりは欠点になりうるかもしれない。
 積極的にバランスをとろうとするプレイスタイルが要求され、漫然と遊ぶことができない。必ず攻撃されるので、攻撃されたことにストレスを感じる人には向かない。実はけっこう、プレイヤーを選んでしまっている。

 プレイヤーが感情移入する対象があるわけではなく、神の視点で、民族の興亡をシミュレートする系のゲームだ。その意味では、名作『チグリス ユーフラテス』みたいな感じ。プレイヤーはあくまでゲームとしてプレイするが、それはそれとして、盤面にはシミュレーション結果としての歴史が現れるのである。
 自分の王国を発展させたからといって勝てるわけではなく、立場とかなんとか、そんなものは超越した歴史の神として、勝利得点なる謎の数値を稼ぐためのプレイをしなければならない。時には王国を自ら滅ぼしたりもする、そのへんもチグリスと同じ。盤面世界の歴史を翻弄する気まぐれな神、すなわちゲームプレイヤーたちである。
 で、その歴史なんだが。
 ゲーム終了までに登場する民族はたぶん20を超える(2〜3ターンで文明は衰退するw)。つまり、それだけの外敵が次々とやってきて、ヨーロッパを荒らすのである。
 大陸の歴史って大変だったんだねえというか……。ずっと内乱しか経験してない日本では想像もつかない世界だ。
 人間とは思えないような蛮族たちの特殊能力も、当時の人の感覚ではこんなものかもしれないし。かなりデフォルメされた歴史の世界だが、妙なリアリティを持っている気もしてくる。エッセンスをうまく抽出して再現されているのだろう。
 もう少しルールやコンポーネントが整理されていたら、チグリス・ユーフラテスと同じように、名作といわれていたかもしれないのだ。

 まあ残念ながらそこまでの評価は受けなかったようだが、個人的には、かなり好きである。

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2006/04/03 16:51

R-ECO
 ボードゲーム

2006.04.03 16:51 てらしま
R-ECO
2004年
カワサキファクトリー
川崎 晋
3-5人(4-5人)
30分
thx to play:game

 わたしがやったことのある日本製ゲームの中では(←少ない)、出色のできといっていい。しかも同人(だった?)。ていうかこういう同人出の作品のほうがおもしろい。
 4色の「処分場」カードが、場に、一列に並べられている。処分場の両側には、それぞれ「倉庫」列、「ゴミ捨て場」列が作られる。
 プレイヤーがすることは

  1. 倉庫に、対応した色のゴミカードを好きな枚数搬入する
  2. その色のゴミ捨て場のゴミカードをすべて引きとる
  3. いま倉庫に置かれているゴミカードの枚数+1枚のゴミを、山札からゴミ捨て場に補充する

 のくりかえし。
 倉庫に4個目のゴミを置いたプレイヤーは、処分場の上に置かれている「得点カード」をゲット。倉庫のゴミは晴れて処分される。
 リサイクル業者であるプレイヤーが、ゴミを分別して処分場に運ぶと得点が入るわけである。
 ただし、手札の枚数には制限がある。5枚を超えていたら、超えた分の手札は「不法投棄」しなければならない。不法投棄分は、ゲーム終了時にマイナスの得点になってしまう。
 ゲーム終了時には、2枚以上持っている色の得点カードの得点だけが得点になる。そこから不法投棄分を引いて、残りの得点が高い人の勝ち。

 基本的には、なにしろ手札はゴミだ。あまり持っていると処分に困るし、溜まりすぎれば分別が追いつかず不法投棄するはめになる。
 しかし、ゴミがなければ得点にならない。ゴミはどう考えたってゴミだが、資産にもなりうる。リサイクル業者の苦悩(?)がテーマだ。
 場のカードはすごい勢いで入れかわり、手札もどんどん入れかわる。動きがやたらと激しいため始めの印象は大味なのだが、実はわりとそうでもない。
 テストプレイをくりかえしたんだろうなーと思う。しかも「イベントカード」に頼らずに、ルールそのものを磨くことで調整した感じがある。
 非常によくわかってる人が作ったんじゃないかと思えるデザインなのだ。

 とにかく、日本製ゲームには経験が足りない。
 たくさんのゲームをプレイし、デザインした経験が足りないから「きれいにまとまってるけどどこがおもしろいかわからない」とか「おもしろそうだけど作りこみが足りなくて破綻している」とか、そんな段階のゲームが発売されてしまうことが多い。
 昔から、いいかげんなスゴロクとか人生ゲームとか、こういってはなんだが「子供だまし」なゲームが多かった。大手のおもちゃ会社が、ゲームを真剣に作ってこなかった歴史がある。いや、ゲームのおもしろさが市場に評価されることがなかったから、おもちゃ会社も本腰を入れられなかったのかもしれない。
 だから、ノウハウがないのはしかたない。
 だが、いまは時代が変わった。本物しか評価されない、歌の下手なアイドルが売れない不況の時代なのである。これだけうるさいボードゲームのファンが中心なのだから、こいつらに売るつもりなら、ドイツ製に肉薄した完成度が求められてしまう。
 そうであれば、ちゃんと作る気ならテストプレイをくりかえすしかない。ノウハウを持ったエンジニアがいない以上、トライ&エラーで作るしかないじゃないか。
 もっとも、大きなおもちゃ会社などではどうしても、そうした手間のかかるやりかたは難しいかもしれない。
 だが同人ならやれた。
 そんな中で生まれてきたゲームの一つが、R-ECOなんだろうと思う。

 もう一つ。日本にはまだ、ゲームデザイナーの能力を評価する下地がない。ゲームデザイナーが、作家や芸術家と同じように作品を売りこんで、メーカーがその企画を実現する、そういう環境になれば、理想的だ。
 ただ、R-ECOはたしかにおもしろいのだが、どこか「華がない」のはたしか。しかし、R-ECOくらいのレベルのゲームがいくつも出てきてはじめて、その中から「名作」が生まれる。そういうものだろう。
 萌えなイラストとか、ゲームの軽さとか、そんな些事にこだわる前に、単純におもしろいゲームがなければダメなんである。このゲームで始まった(でいいのか?)カワサキファクトリーの人気は、日本ボドゲの新時代を開くものかもしれない。

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[2006.04.04 00:17]しん :
R-ECOはいいゲームだね。
ゲームマーケットかなんかでチュートリアルを受けて、その場で買ってしまった記憶が(^_^;


[2006.04.04 01:22]てらしま :
 コメントありがとうございますー。
 なんかパッケージ白いし、日本製だし、わたしの場合は、はじめはピンとこなかったんですけどね。そういう偏見は捨てなきゃかなと、これで思った記憶があります(笑)


[2006.08.16 02:47]けがわ :
HPリニューアルされたのですね。おめでとうございます。R-ECOは良いゲームですよね。日本もヤポンブランドというのが頑張っているようです。期待大ですね。


[2006.08.16 07:57]てらしま :
>ヤポンブランド
 play:gameでニュースを見させていただきました。けっこう昂奮するニュースですね。
 わたしは日本製ゲームのプレイ回数が少ないのであまりえらそうなことはいえないけど、やっぱり日本製のゲームにがんばってほしいとは思いますねー。


[2006.09.20 19:03]カワサキ :
R-ECOを取り上げてくださって、ありがとうございます。当サイトのトップページに書いた宣伝文から、このページにリンクさせていただきました。
製品版は、ルールはまったく変わりませんがカード枚数が若干増えています。パッケージも「なんか白い」から「やけに青い」に変わりました(笑)。


[2006.09.22 00:49]てらしま :
>カワサキさん
 ありがとうございます。というか公式サイトからリンクしていただくほどのことは書いてない気もしてなんかもうしわけないんですが(汗
 なんか青くていい感じになってますね。実はわたし持っていないので;; 今度見かけたら買わせていただきます。


2006/03/21 22:46

マメじゃないよ
 ボードゲーム

2006.03.21 22:46 てらしま
マメじゃないよ
Nicht die bohne!
1999年
Amigo
H-R.Rosner
3-6人(5-6人)
30分

 始めに手札が配られるが、それは一枚も自分のものにならない。カードを獲得して得点を稼ぐゲームなのだが、そのカードは全部、他人から獲得することになる。
 なんかヘンなゲームだ。
 つまり、手札は自分のものというより商品であって、プレイヤーはこれから、これを元手に商売をしようとしている、ということだ。
 わらしべ長者?みたいな感じか。

 親プレイヤーが、まず自分の手札から一枚を提示する。それを見て子プレイヤーたちは、やはり自分の手札から一枚を裏向きに出す。
 いっせーのーでで、表にする。
 そうしたら、まず親が、自分の出したカード以外の中からほしいものをとる。
 カードをとられたプレイヤーは、親の出したカード以外から好きなものをとる。それでカードをとられた人はまた別のカードを選ぶ。
 これをくりかえす。
 最後に残ってしまった(つまり誰もほしくないカードを出してしまった)プレイヤーは、しかたないから親の出したカードをとり、次の親になる。
 なんとなくわかりづらいところがある。それはやはり、配られたカードが自分のものではないというあたりに原因がある。
 インスト中にカードを配られて「でもそれは君はとれないから」といわれてしまう。戸惑ってしまうのだ。
 だが、じつは非常に単純なゲームだ。
 ほしいカードを選び、とる。カードをとられた人が、次に同じことをする。ただそれをくりかえすだけ。
 カードには色と数字が表されている。数字が、そのまま得点になる。
 ただし、数字以外に「-(マイナス)」「0(ゼロ)」「×2」と書かれたカードが、各色にある。これは、その色の得点を「マイナスにする」「ゼロにする」「倍にする」効果がある。掛け算をやるのだ。
 たとえば青の得点をたくさん獲得している人は、青の「×2」がほしいけど青の「-」や「0」はとりたくない。逆に青の得点を一枚も獲得していないのなら、青の掛け算カードに関しては別に気にする必要はない。
 そんなわけで、プレイヤーごとにほしいカードとほしくないカードがある。そのあたりを考えながら、手札と相談して、出すカードを決める。
 基本的には、できるだけ早く選ばれたい。早く選ばれればそれだけ、自分もいいカードを選べる可能性が広がる。
 だから、基本的には強いカードを配られた人が有利ではある。そこはしかたない。運だ。
 でも、たとえば青の「-」や「0」を持っている人がたくさんいるなら、青の高い数字はあまり意味がない。それぞれのカードが、ゲーム中に何度も価値を変える。それを見切って、価値の高いタイミングで出品するのが重要だ。

 そういう市場取引のおもしろさを、再現できてしまっているゲームかもしれない。
 オークションをするわけではない。それどころか数値化された価格を決めることさえしない、原始的な物々交換なのだが、物々交換だって経済なのだ。
 私見だが、ボードゲームのシステムは物々交換と相性がいいと思う。
 間にゲーム内貨幣を仲介させるゲームもおもしろいが、そうしたゲームはリソースが多いぶん「エレガントな」ゲームにはならないのである。
「ゲームは現実を模倣する」のかどうかは意見がわかれるだろうが、しかし、現実の要素をボードゲームにとりこむのならば、できるだけシンプルに、エッセンスだけを抽出する必要があるだろう。
「シンプル」は「原始的」「イノセント」といいかえられる。
 経済をゲームにするならば、もっともシンプルでイノセントな商取引である、物々交換をテーマに置くことが、ひとつの理想ではないかと思っている。
 もっとも、貨幣が登場しないゲームを「経済ゲーム」といえるのかどうかはまた別の問題だが。

 さてこのゲーム。初期手札は、わらしべ長者のわら(・・)である。
 より高価なわら(・・)を持ってゲームを始めるほうが、有利に決まっている。
 手札がいいときは、普通に商売をしていれば普通に勝てるのである。
 しかしこのゲームの真骨頂は手札が悪いとき。
 このひどい手札をいかにして高得点につなげるか、知恵と勇気をふりしぼって考える。すると、綱渡りのような道筋が見えてきたりする。そういう時が一番楽しい。
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2006/03/20 01:39

勝利への道
 ボードゲーム

 

2006.03.20 01:39 てらしま
勝利への道
VERFIIXXT!
2005年
Ravensburger
Wolfgang Kramer & Michael Kiesling
2-6人(たぶん4-6人くらい)
1時間

 けっこうハマる。まだわたしのプレイ回数が足りないのだが、これはたぶん名作に近い。
 基本的にはスゴロクなのだが、「上がる」こと自体にはなんのメリットもない。途中の道筋で得点を拾っていくのがゲームの本筋だ。つまり、むしろ上がりたくなかったりする。

 タイルが並べられている。スゴロクなので、一列だ。
 タイルにはマイナス10から8までの数字が描かれていたり、宝箱が描かれていたりする。このタイル、マス目を意味すると同時に、得点としてプレイヤーにとられていったりもする。
 タイルがとられると、空いたマスはつめる。だんだん短くなっていくわけである。
 各プレイヤーには3個づつのコマが渡されている。ターンにはダイスを一個振って、どれかのコマを動かす。
 スゴロクだスゴロク。コマが3個あるだけ。説明するのもばかばかしくなるほど理解しやすい。
 さて、得点の稼ぎかただ。
「自分ひとりしかいないタイル」から動くと、そのタイルを獲得できるのである。
 タイルに描かれた数字が、獲得した人の得点になる。これはもちろん、マイナスの数字だったらマイナス。ちなみにマイナスのほうがタイルの数はだいぶ多い。
 あと、宝箱というのがある。これはゲーム終了時に「マイナスのタイルを一つプラスにする」効果がある。
 基本ルールでは、スタート地点から

  • -1〜-8 → 宝箱6個 → 8〜1 → -1〜-10

 という順番にタイルが置かれている。
 宝箱と、続く8,7の上に「番人」なる中立コマが一個ずつ置かれている。宝を守っているのだ。
 番人は「同じマスにプレイヤーのコマが一つでもあれば」誰でも動かすことができる。
 この番人が、わりとカギを握ることになったりもするのだが。
 さて、スタート地点にすべてのコマを置いて、ゲーム開始。
 これでルールを全部説明したと思う。簡単なのだ。

 しかしこれがなかなか、いろいろと考えるところがある。もちろんダイス目勝負なのだが、しかし戦略をもって臨まなければまず負ける。
 選択肢は毎ターン、3個+αしかない。でも考える。というか悩む。
 とりたいのは、宝箱とプラスの得点タイル。とりたくないのはマイナスだが、宝箱がある(あるいはとれる見込み)なら、逆に大きなマイナスをとりにいきたい。しかし宝箱は一枚につき一つのマイナスを逆転させることしかできないので、あまりたくさんマイナスをとらされてしまうと困る。

 たとえば。二つのコマが宝箱タイル上にとまっている。
 ほぼ必ず起こる光景である。
 これはもちろん、先に動いたら負けだ。じっと我慢しつづけることになる。でもいつかはどちらかが動かなければならない。
 いかに長く動かないでいられるか。他のコマや番人を動かして、なんとかとどまりつづける。
 この、洗面器に顔をつっこんで耐えている感覚がいい。
 そうしてじっと待っていると、やがて他のコマはゴールに近づいていく。
 なにしろ、ゴールの前には10マスものマイナスゾーンが控えている。ここに侵入するころには、マイナス10をとりたい人もいれば、なにもとらずにやりすごしたい人もいる。そういう全員の思惑を読んだりしながら、しかしパスはできないので、いつかマイナスのリスクを背負って突撃しなければならない。
 コマの多くがマイナスゾーンに突入していく。中立コマが減っていき、次第に選択肢が減り、緊張感が高まっていく。
 脱落するプレイヤーが出てきたり、トップ目が現れてきたりする。
 リスクを犯して-10をとった人がいる。中立コマを動かして時間を稼ぎつづける人がいる。
 そんな中で、ひたすら「宝箱待ち」を続ける2人。彼らにもジレンマがある。3個しかないコマの1つが待っているということは、他の2つは進まなければならないということ。本当に宝箱をとれるならマイナスをとっていいのだが、それでとれなかったら大ダメージになってしまう。
 宝箱をあきらめて他のものをとりにいくことを、選ぶべきなのかどうか。
 各プレイヤーがいろんなことを考えている様子が、盤面にはっきり表現されるのである。

 ビジュアル的にも、どんどん狭くなっていく盤面というのはなんかいい。
 映画『ネバーエンディングストーリー』の最後みたいな。(別にそういう意味ではないだろうが)崩壊していく世界のような印象になり、なんかカタルシスがあるのである。
 あるいはパニックムービーのような。『グランドホテル』型の『タワーリングインフェルノ』あたりが近いかもしれない。
 このゲームにはそういう、起承転結がある。
 題材のよくわからない、抽象的なゲームだ。だから物語とはいわないが、よくできた物語のような緊張や昂奮がある。
 バリアントルールではいろいろ書いてあるのだが、たぶん、この物語性を表現するには基本ルールのタイル順が一番いいだろう。
 タイルで盤面を作るのなら、普通なら「ランダムで並べる」とする。盤面が毎回違ったほうが飽きがこないかもしれないからだ。実際このやりかたは、カタンで実績があるためよく採用されている。
 しかしこのゲームでは、あえてタイルの並び順を規定した。ランダム順の平坦なストーリーをよしとしなかった。それは起承転結を表現するため。ゲームのおもしろさを強調するためにはこの順序がいいだろうと判断したためだ。
 小説になぜ起承転結があるのか。映画になぜ起承転結があるのか。ならばゲームにもあったほうが、楽しいのではないか。
 自由度や拡張性を持たせるやりかたもあるだろうが、それははたして本当にゲームそのもののおもしろさを追求しているといえるのか。
 これは本当に、さりげないけれど職人の仕事だ。

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2006/03/08 22:27

マンマミーヤ!
 ボードゲーム

2006.03.08 22:27 てらしま
マンマミーヤ!
MAMMA MIA!
1999年
ABACUSSPIELE
Uwe Rosenberg
2〜5人(4〜5人)
30分

 ピザを作るのがテーマ。なんかこういう、あえて軽いテーマを選んだみたいな感じのものはなんとなく手が伸びないのだが(わたしだけだと思うが)、やってみると、おもしろい。やはり名が知れたゲームにはそれなりのものがある。
 とりあえず、一見には記憶ゲームである。
 各プレイヤーの手札には、トッピングカードとレシピカードがある。トッピングはサラミとかパイナップルとかマッシュルームとか。レシピカードには、ピザを作るために必要なトッピングの枚数が描かれている。
 手番には、このトッピングカードかレシピカードを場に出す。
 この「場に出す」をやるときは、下に重なったカードが見えないようにきちんと重ねなければならない。
 つまり、憶えておけと。記憶ゲームだ。
 レシピを出すときは「いま(・・)場に重なっているトッピングカードでこのレシピが完成するだろうか」を考える。その時点で、下にあるトッピングカードが、レシピカードの条件を満たしているかどうかを考えて、大丈夫と思えばレシピを出す。
 レシピが完成していたかどうかは、この時点ではわからない。あとでチェックするのである。
 手札を山札から補充しながらこれをくりかえしていき、山札が尽きたら、いよいよ調理に入る。
 調理ラウンドでは、場に重ねられているカードを丸ごと裏返し、一枚ずつめくっていく。
 そこでレシピカードが出たら、そこまでに出ていたトッピングカード(と、余っている手札から加えることもできる)を使って、そのレシピを完成させる。
 完成させることができたら、その分のカードを消費して、レシピを出していたプレイヤーに1点。完成させることができなかったら、トッピングカードは消費されずにそのまま場に残され、レシピはプレイヤーのもとに戻ってくる。
 3ラウンドやって、一番多くのピザを完成させた人の勝ちだ。

 たしかに、一見には記憶ゲームだ。だが、やってみるとそうでもないことに気づく。
 もちろん、すべてを記憶していれば有利なのは間違いない。だが、自分がこれから出すレシピがどれなのかを考えておけば、なにも全部を憶える必要はない。レシピに描かれているトッピングの種類は多くないし、それを完成させられるかどうかだけを考えていれば、憶えなければならない部分を絞れる。
 正確に何枚だったかというよりも、むしろ、流れの中でいつ出すかを見極める目のほうが重要だ。と気づく。
 たとえば、他人が出したレシピがもし完成しなければ、トッピングカードは大量に余るわけで、その後にレシピを出したプレイヤーのピザはだいぶ完成しやすくなる。そういうチャンスを、ちゃんと見つけられるかどうか。

 ただし、もちろん、最強のプレイヤーはコンピュータだろう。
 隠れているすべてのカードを、コンピュータは憶えている。完全に記憶することができるのならば、あとはそれなりに適切な評価関数を与えてやれば、簡単に人間を超える強さになると思う。
 コンピュータでなくてもいい。人間でも、この程度ならば苦もなく憶えてしまう人たちはいるだろう。棋譜を始めから終局まで再現できてしまう棋士とか。
 そういう人はもちろん、強いに決まっている。
 だがマンマミーヤ!は、そこまでの記憶力がなくても、むしろ感覚でプレイすることもできるのだ。だからおもしろい。

 これは、多くの人が楽しいと思うゲームの、条件の一つだと思う。
 ただ記憶させられるのではなく、自然に記憶できるようにデザインされていることだ。
 たとえばこのゲームでいえば、レシピカードである。
 レシピは「一種類のトッピングが6枚ともう一種類が1枚」「全種類1枚ずつ」「なんでもいいから15枚」という感じに、それぞれに性格が違う。達成するために重点をおかなければならない要素が、それぞれに違うのである。
 だから、それぞれのレシピカードを別のものとして考えることができる。別々の条件を与えて、チャンスをうかがうことができる。
 同じようなものがたくさんあると人間の脳は「飽きて」しまうが、別々の目的ならば飽きない。
「決められた3種類を3枚ずつ」などの、安易なレシピがあったら、たぶん駄作だった。
 考えてみるといい。
「パイナップルとサラミとペパロニを3枚ずつ」というレシピと「ペパロニとオリーブとサラミが3枚ずつ」というレシピが自分の手札にあったら、どうだろう。けっきょくすべてのトッピングカードの枚数を記憶しなければならなくなってしまうだろうし、たぶんまちがいなく、そんなゲームはつまらない。
 さりげない部分だが、こういう細かいところで傑作と駄作がわかれるのだと思う。

 余談になるけど。
 マジック・ザ・ギャザリングがつまらなくなるときというのは、友好色、対抗色の区別なく多色カードが乱発されてしまったときだ。
 単純に強すぎるカードが登場しがちになるということもあるが、それ以上に、やはりプレイヤーが、色の特色や関係に注目することができなくなってしまうのである。カードがすべて均一に見えてしまい、色の区別がなくなってしまう。輪郭が薄れ、一つ一つに注目することができなくなる。
 チューニングが合っていないラジオのノイズは不快だ。だが、音楽が流れていれば不快ではない。
 では、チューニングを合わせた音とノイズとの間にはどんな差があるのか。
 音が出ていることに変わりはない。違うのは、周波数の分布や、変化のしかただ。ノイズでは、低音から高音まですべての周波数成分がでたらめに強さを変える。音楽はそうではない。
 音の変化から、人間が情報を引き出せるかどうかが違うのだ。
「人間は均一な分布が嫌いなんだ」と、以前友人が論じていた。だから、1D6を使うゲームはつまらないものが多い。まさにそのとおりだと思う。
 均一な分布、つまりノイズからは、情報を引き出せないのである。だからストレスになる。
 ちなみにマジックは、ちょうどいまが「ノイズ」の時期なんだが……。
 これは人間の本能の問題だ。ゲームをおもしろいと感じるのは人間の脳なのである。もしも異星人がいるならば、彼らにはマンマミーヤ!のおもしろさがさっぱりわからないかもしれない。

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2006/03/06 22:04

シャドウハンターズ
 ボードゲーム

2006.03.06 19:39 てらしま
シャドウハンターズ
シャドウハンターズ
2006年
ゲームリパブリック
4-8人(多いほうがいい?)
1時間

 つまり『超人ロック』である。正体を伏せられていて、敵か味方かわからない相手を推理しながら戦うのだ。なんていうか、みんなそういうの好きだよね。
 ただし、ロックよりもかなり単純になっている。戦闘はただ一方的に殴るだけで反撃もない。マップは6マスしかなく、ダイスで移動。
 もちろん特殊能力などもあるが「ラフノールの鏡」だの「ニケ」だのといったとんでもないものはない。……超人ロックのボードゲームを知らない人は、まあそういうものがあるんだと思ってくれればいいです。
 GOODとEVILに分かれて戦うところも超人ロックと同じだけど、「ハンター」「シャドウ」といいかえられている。ハンターはシャドウを全員殺せば勝ちで、シャドウはハンターを全員殺せば勝ちだ。
 独自の勝利条件を持ったニュートラルもいる。
 で、情報やアイテムを集めながら戦う。
 情報は「おばばの家」なる場所で他人を占ってもらうと、限定的に判明していく。「シャドウかニュートラルならアイテムをよこせ」とか「最大体力が12以上ならダメージを受けろ」とか、そんな感じのカードを他人に渡して、反応を見て絞りこんでいく。
 移動はダイスでおこなう。D4+D6という変なダイスを使って、出た目でそのターンのいき先が決まる。つまり好きなところにいけるわけではない。
 戦闘は、近くにいる相手を「殴る」といえばすぐに殴れる。相手に変な特殊能力がないかぎりは、反撃も受けない。
 全体的に「ジレンマが少ないように」というデザイナーの意図が感じられる。あまり重くない、気軽なゲームにしたかったのだろう。
 というかたぶん、そうしなければ売れないと判断したのだと思う。

 がんばったなーという印象である。たしかに『超人ロック』風のゲームを、できるだけ簡単な(そして明確な)ルールの中に再現しているのだ。
 ただし、簡単にしすぎた感もないではない。
 なにしろ、他人を攻撃することの、表面上のリスクが非常に小さい。だからてきとーに殴られる。
 わたしは情報もなく殴るべきではないと思っているが、実際は、近くに人がきたら必ず殴られると思っていたほうがいい。なにしろ反撃されないのだから、ほんとにてきとーに殴れてしまう。
「実は味方だったんだー」となったら大変だとは誰でも思うが、ニュートラルの勝利条件をうまく利用すれば味方になりうるというあたりは、このゲームか『超人ロック』に慣れていなければわからない。となれば、たった1人(か2人)の味方以外は全員「殴ってもいい相手」になってしまうのだ。
 こうしたプレイは実は間違っているが、しかたのないことでもある。そもそもこんなマニアックなシステムで、気軽なゲームを作ろうとしたところに無理があると思う。ルールブックにミスリードされているのである。
 ルール上リスクなく殴れるんだから殴る。それは責められないのである。すごく責めたいけど。
 ということで、まあだいたいは、運悪く自分のいる場所に他人がたくさんきてしまった人が、最初に殺される。ちょうどそのころにはだいぶ情報が明らかになってきていて、残りの誰がどちらのサイドなのかも判明している。
 一人死んで、そこからゲーム開始なのである。
 まあそれが悪いとはいわないが……「汝は人狼なりや?」がもともとだと思えばそれでもいいのだろうが、その「最初に死んだ人」が誰だったかで以後の趨勢が決まってしまうわけで、そうすると、勝つか負けるかは運次第、ということになってしまう。
 システム上、バランスはとれていない。というか、きれいにバランスよく作られている必要はないシステムである。だから、ほとんど必ず勝つキャラクターというのもいるし、まず勝てないキャラクターもいる。
 そうしたことを理解した上で、プレイヤーが積極的にバランスをとろうとしなければならないのが、超人ロックゲーの難しいところ(おもしろいところでもある)。
 プレイヤーたちが全員「運勝負」のリスクを避けるプレイスタイルなら、いいゲームになりえる。
 しかしそういう人はごくごく少数派だ。
 まあ楽しくないわけではない。「運勝負」を受け入れてしまえば、まあやっているときは楽しいと思う。でも他人のプレイを見ていて「そのリスクは避けられた」と感じ、そこにストレスを感じてしまうと、これはかなりキツイ。
 攻撃にリスクがないぶん、ロックよりもずっと、そういうところが強調されてしまっているのだ。

 とはいえ、単純な完成度ということでいえば、小さいゲームにしたぶん、シャドウハンターズのほうが上だろう。
 ロックは、プレイヤー全員がゲームをゲームとして成立させるための努力をしなければゲームにならないほど完成度の低いゲームだった。それに比べればまあなんとかなっている。
 そもそも、そんな完成度のゲームがいままで続くファンを獲得しているのだから『超人ロック』というゲームにはなにかがあったのだろうとは思う。
 それが、シャドウハンターズにも引き継ぐことができているのかどうかは、もっとやってみなければわからない。
 心配なところはある。とりあえず、キャラクターの種類がまったく足りない。すぐにエキスパンションでも出してほしいところだ。この3倍くらいいてもいいと思う。
「最後まで生きていたら勝ち」なんてキャラクターがいるのだが、こいつは他のプレイヤーがなにをしていても関係ないわけで、ゲーム上必要ないキャラクターだと思う。『超人ロック』でいえばジェシカとか。こういうキャラクターは、何度もプレイするうちに「抜いちゃおうか」ということになりかねない。だから、完璧なバランスで作られているのでなければ、キャラクターは余分にいるくらいでもいいと思う。
 システムでがちがちに固めることはあえて避けた「開いた」デザイン。ちょっとした改変も容易なため、ローカルルールが生まれやすそうだ。
 そのへんも『超人ロック』と同じ。これはあまりいいことではないだろうが、ゲームのおもしろさを決定づける要素というのは、こういう完成度とかそういったものとはまったく別のところにある。
 つまり、何度もプレイさせるなにかを、持っているかどうかなのだ。
 わたしは、シャドウハンターズは少し厳しいかなと考えている。でもがんばったって感じ。ぜひこの会社には、どんどんボードゲームを作ってほしいのだ。

 ……あと、せっかくイラストつきのカードなのに女の子キャラクターが足りないよね。

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2006/03/06 20:00

ゲシェンク
 ボードゲーム

2006.03.06 18:38 てらしま
ゲシェンク
Geschenkt
Amigo
Thorsten Gimmler
2005年
3-5人(5人)
30分

 一枚の数字カードが、場の中央にある。これを「誰に押しつけるか」を決めるゲームだ。傑作である。
 数字は引きとってしまうと必ずマイナスの得点になる。だから、できればほしくない。
 そこで、ほしくない人は手元からチップを一枚出して、場札の上に置き、次の人に回す。もちろん、チップがなければ引きとるしかない。
 カードを引きとったとき、その上にチップが乗っていれば、それも一緒にもらえるわけである。
 チップは1個あたり、プラス1点。始め、全員が11枚ずつ持っている。
 数字カードは3〜35の、33枚。だが、そこから9枚を除いてゲームを始める。
 単純だ。あっという間に理解できる。
 とってしまった数字カードは数字分のマイナスなのだが、連番だと、その続いた数字の一番下の数だけを計算する。
 例えば「18,19,20,21」と続けて持っていれば、これは全部でマイナス18点。
 つまり、大きな数字でもマイナスにならない人がいるかもしれない。たった一つの数字が書かれただけのカードだが、プレイヤーによって価値が違うのである。
 チップがなければ引きとるしかなくなるわけなので、一枚もとらずにゲームを終えることはまず不可能である。ということは、どの数字をとるのかが重要になる。
 10前後で連番を作っていければ強いが、しかし、それをやれるプレイヤーは一人だけ。誰か一人は、30をとらなければならない。
 だが、30をとらされてしまった人が不利かというとそうでもない。30はもちろんみんな嫌がるので、チップが溜まる。
 このゲームのチップはプラスの得点にもなるのだが、それよりも「パスする権利」としての役割が大きい。例えば15枚のチップが手元にあれば、それは15回パスできることを意味する。30をとって得たチップで、以後のゲーム中一回も引きとらないことができれば、勝利の可能性は充分にある。31か29が出ればさらにいい。
 基本的には、この「大きな数字をとって得たチップでパスする」作戦と「小さめの数字で積極的に連番を作る」作戦の2種類が、戦略だ。あるいはこの中間。自分はどれくらいの数字を軸にして、どれくらいの作戦をとろうかと、考えながらやるあたりは楽しい。
 もちろん他人のとっている数字とのかねあいがあり「このあたりの数字で連番を作れるだろうか」また「この数字でこのチップ枚数なら得だろうか」と、いろいろ考える。
 やることが「とるかとらないか」の2択だけというのもいい。

 ところが、単純で簡単なゲームなのに、実はキツいゲームでもある。
 誰か一人が、たった一回、不適切なプレイをするだけで、誰か他の人の勝利がなくなってしまうという面がある。
 なにしろ、連番を作れるか否かというのは直接勝敗に関わる重要な場面なのだが、誰かが「特に理由もないけど」それをとってしまう、なんてことが起こったら、ひどい目にあう。
 基本的にプレイヤーは、得点が加算されていくゲームには慣れていても、減算されるゲームには慣れていない。だから、プラスの得点であるチップの数に目が眩んでしまい、その下の数字がマイナスであることを忘れてしまいがちになる。
 このゲームは基本的に、マイナスの得点をどれだけ小さく抑えることができるかを競うゲーム。チップの枚数はプラスだが、自分の得点がプラスになるという事態はほぼ確実にない。
 ゲーム中盤以降に「チップが20枚乗った29」を、とっていいのかどうか。
 これをとっていい場合というのは、30か28を持っている場合と、自分がまだ数字をとっていない場合だけだろう。まあ手元のチップ枚数にもよるが、ほとんどの場合はとったら負けなのだ。
 そのあたりを実感として掴みきれていないときに、よくやってしまう。自分がそれをとると負け決定なのだが、とってしまうのだ。
 わかりにくい、といえばわかりにくい。そのあたりはこのゲームの弱点である。

 でも30分弱で終わるので、納得いかなければもう一回やればいい。3〜4回も続けてやれば、だんだんとわかってもくる。
 あと、特にミスしていなくても、やたらとツいているプレイヤーが一人いれば負けてしまうわけだけど、そのあたりもやっぱり「もう一回やろう」といってしまえばいい。
 なにより、くりかえし遊びたくなるなにかを持ったゲームだ。傑作。

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