サンダーストーンけっこう好きなわけです。ソロプレイ何十回もやっておいて、嫌いだとはなかなかいえない。
そのサンダーストーンのガイドブックが出たというわけで、買ってきた。
内容は、ガイドブックの名のとおり。ガイドだ(完全かどうかは知らないが)。
リプレイ、カードの紹介、マンガ、あとルールの紹介と解説、といった感じ。
構成的にはリプレイが最初にあって、まずおもしろさを伝えるところからという意図はわかる。
ただこれ。
他の人はどうか知らないけど個人的には、リプレイ形式の文章に拒否感がある。でもボードゲームの本というと必ずあって、しかもだいたい扱いが大きいんだよなアレ……。
誌面を稼げるコンテンツなのかなという気はするけど。
じっさいのところ、攻略記事はまったくないです。そういう本ではないです。
それならコラムやエッセイを読みたい気もするけどそれもない。
ルールブックの内容を転記したような記事とか、まあこういう本の一部としてあってもいいだろうとは思うし、間違えやすいルールの解説は悪くないなーと思ったけど。読みたい記事ではないよなあ。
読むところがなかったというのが本音でした。
せっかくなので褒めるところ捜したいんだけど、見つからないのよね……。
あ、デザイナーのインタビュー記事はあった。インタビューというか、一問一答という程度の1ページしかない記事だけど。あれをもっと読みたい。
あと例によって、カード解説には、やめときゃいいのに点数づけをしてあって(「爆発力」「安定感」「特殊性」をそれぞれAからCで、点数というか特徴を示してる)。
もちろん例によって、まるっきり納得できない点数づけで……。なんでこういうのって、いつもこうなっちゃうんだか……。
まあ付録のプロモカードはほしかったんだけど。しかし日本語じゃなかったという。
xenoth -2011/01/05 21:52
私の知る限り、たいていのボードゲームは、雑談やロールプレイ、身振り手振りのノンバーバルコミュニケーションも含めてゲームの楽しみであり、そうした楽しみを誘発するようにデザインされています。これらの楽しみは、ホイジンガ的な遊びの領分です。
ですから、それらを切り捨てたボードゲームデザイン論は、痩せたものになるのではないかと危惧します。
逆に、それらもボードゲームの面白さであり、デザインの一部とするのなら、「ボードゲームだけがゲームである」と限る必要もないでしょう。
ここで必要なのは、線引きではなく、世間一般のゲームの面白さには「ゲーム的ルール的駆け引き」の面白さと、「遊び」の面白さの両方があり、多くのゲームは、それらの混合やインタラクションで出来ているという視点ではないでしょうか。
てらしま -2011/01/05 23:31
ゲームの定義に関しては「おもしろい」を含む必要はないと思っています。ゲームに関する議論をしょっちゅう混乱させている混同ではないかと。
少なくとも上で語っている範囲に限れば、おもしろさは関係ありません。おもしろくなくても定義を満たせばゲームです。
もっといえば、議論の結果ボードゲームが定義から外れたとしてもかまいません。ただ現状、狭義のゲームにもっとも近いのはボードゲームです。
ゲームの楽しみと遊びの楽しみがあるというのはわたしも賛成です。
特にボードゲームは、用具やインタフェースの楽しみが大きい場合があります。その部分に関しては、上の文章では議論が足りていませんね。
楽しさを演出する用具やインタフェースの設計も、もちろんゲームデザインの一部ですが、そこには、ゲームを実現するための個別の技術があると思います。
ゲームの枠組みで語れない遊びの領域はあるかもしれませんが、少なくともゲームがなんであるかを知っていれば、遊びの中にゲームを組みこむことはできます。
あるいは、そうしたことを体系的に考え開発できるようになります。ゲーム以外の、上の記事でいえば「遊び」にスピンオフできる技術もあるでしょう。
なので、狭すぎる定義であっても定義があれば有用ではないのか、というのが上の主張です。
(たぶん、それをすでにやっているアナログゲームデザイナーたちがいると感じています)
「ゲーム」という言葉はどうも扇情的なので、別の言葉にしたらいいのかもしれませんが。
xenoth -2011/01/05 23:55
日常的な言葉の意味での「ゲーム」を考える際、それは面白さと切り離して使うことはできないでしょう。
日常的な言葉の意味としてではなく、専門用語として特定の定義を行うのは自由ですが、その定義を単純にゲームと呼ぶ場合、日常の用語としてのゲームと混同され、それがゲームの本質であるという印象を与え、おっしゃる通り、扇情的になります。
そもそもユールによるゲームの定義は、別に「本当のゲーム」を定義しようという試みではなく、一般に「ゲーム性」とされるものを複数の要素で定義し、その組み合わせで、多くのゲームがカバーできる、という枠組みの話ではありませんでしたっけ?
コンピュータゲームを古典ゲームから排除するのではなく、それらの連続性や関連を調べるための定義である、と、最初に書いてありますよね。
てらしま -2011/01/06 00:13
ユールの定義はそれでも、ゲームであることを断言できる範囲がだいぶ限られています。むしろ、他の論と比べても狭いほうではないかと。
「ボーダーライン」を含めてさまざまなものの関連を探る手がかりを提供することが意図と思っていますが、その「六つの特徴すべてを備えたゲームとみなされるもの」だけで語れることもあるのでは。というつもりで引用しています。
たしかに、日常的な意味での「ゲーム」と混同してしまう問題はあるので、他の語なども検討しますが……、そうすると、別の問題として、アナログゲームなんて存在自体がかき消えてしまうという気も(笑)。
xenoth -2011/01/06 01:02
ユールの定義が狭いかどうかですが、例えばコスティキャンの定義だとライフゲームはゲームではありませんが、ユールの定義だと定義「3、4、5」を満たすゲームとして定義されますね。
完全とは言いませんが、巷間ゲームと言われるもののほとんどを、1、2、3、4、5、6のどれかの中に取り込んでいるのは評価できると思います。
、「「六つの特徴すべてを備えたゲームとみなされるもの」だけで語れること」ですが、正直、私はあんまり無いと思っています。が、そのへんは見解の相違ですし、あると思う方が良い議論を積み重ねていただければ是非参考にしたいと思います。
アナログゲームがかき消えるかどうかですが、「ボードゲームだけがゲームだ」と煽ったほうが個人的にはまずいと思います。「あぁボードゲーム好きな人は、心が狭い、理屈屋なんだな。近づくのよそう」と思われてしまう可能性が高いでしょうから。
それよりはむしろ、他のゲームをやってる人に伝わる形で、ボードゲームの面白さを語ったほうがいい。
そのためには、「独自性」だけでなく、「共通点」を意識したほうがいいと思います。
てらしま -2011/01/06 02:48
独自性を強調する気も、ボードゲームだけを特別視する気もありませんしそう書いたつもりです。ボーダーラインを認めればかなり多くのものを含めることも、はじめから書いてますし、だからこそあえてユールをとりあげていることは先ほども書いたとおりです。それを否定したつもりはありませんし、むしろそれはそれで大いに議論してください。
しかしまあ、多少タイトルが挑発的だったようで。
共通点については話がすり変わっているところがありますが、それはともかく。むしろ本来、共通点を捜しているのはこちらです。上の文章はだいぶ雑に書いているので、それが問題といわれればしかたないでしょう。
xenoth -2011/01/06 09:09
タイトルやゲームという用語だけに限らず、たとえば「コンピュータゲーマーたちが知らないことを、ボードゲーマーはすでに知っているのである」というのは、独自性の主張であり、特別視ではないでしょうか?
実際には、ボードゲームの特定あるいは全部のゲーム性と共通するゲーム性を持つコンピューターゲームは、いくらでもあるわけです。
またユールの条件を満たすゲーム性においても、ボードゲームでないと実装できない面白さがあるのと同様に、コンピューターゲームでないと実装できない面白さもあるわけです。
てらしま -2011/01/06 10:16
たしかにコンピュータゲームを否定しているようにも読める文章です。否定はしていないのですが。コンピュータゲームでなくボードゲームの話をしているという意味で、たしかに独自性を強く主張しているということになりますか。ボードゲームに可能なことを示しただけで特別視となるとなかなか難しいところではありますが。
コンピュータゲームにしかできないことがある、もちろんです。それはみんな知っていて、前提といっていいでしょう。現にその点については語られすぎるほど語られています。むしろコンピュータがうらやましくてしかたない(ただ、本質的にコンピュータゲームのみからゲームを語るのは不可能ですが)。
より語られていないのはボードゲームのほうです。アナログゲームの中でさえ、少ないといっていいです。コンピュータゲームに立脚した優れた論が、必ずボードゲームに言及している、せざるをえないのに。
そのあたりの事情と目的が抜けているというご指摘かと理解します。
ynakata -2011/01/06 12:17
>コンピュータゲームに立脚した優れた論が、必ずボードゲームに言及している、せざるをえない
というのは、ビデオゲームよりはボードゲームの方が構造がシンプルなため、ゲームに必要な構造を論じるのにとても適しているためだと考えます。ゲームというものを考える上で、ボードゲームというのはとても論じやすいサンプルです。
ビデオゲームはとても複雑です。たとえば、身体性の問題。コントローラーを介するところで論理的な構造が複雑化してしまいます。そのようなハードルがビデオゲームにはいくつも用意されている(だからこそビデオゲームは楽しくなるのですけれども)。そこで「楽しい」と感じる構造には、必ずしもゲームでない構造も含まれている。だから議論が混乱しやすくなってしまいます。
ボードゲームはその点とても単純です。究極的には論理しか存在していないと言ってもいい。ライフゲームが論理構造だけで構成された、とても扱いやすい事例であるのと同様に。
だから、ボードゲームを論じることで見えてくるものを、ビデオゲームの議論から「引き算」することで、ビデオゲームのビデオゲームらしい部分が見えてくるのだと思います。
x -2011/01/06 12:59
この記事のタイトル、センセーショナルとかじゃなくて、本文からはボードゲームがゲームであることの十分条件であるとしか言えないのに、仮定と結論が逆になってるので恐ろしく馬鹿っぽく見えるんですよね。
書いてる内容には大体同意できるのですが。
てらしま -2011/01/06 19:44
>xさん
そうお読みいただくのが一番いい(笑)
xenoth -2011/01/13 14:58
>terrasima
>なんかレスが。 http://d.hatena.ne.jp/xenoth/20110111 はい、いいんですよそれで。ただ、いわゆる文系の人はしばしば、理系の人に「答えを捜すな」といってしまうんです。そこには抵抗せざるをえないので、線引きがほしいかな。 11:12 AM Jan 12th
ツイッターで、こちらのように言及いただきましたが、おっしゃることがよくわかりません。
「いいんですよ、それで」とは何が良いのでしょうか?
そして、文系の人が理系の人に「答えをさがすな」というのは、どういう状況でしょうか?
私は上記のようなことを書いておりますが、「答えをさがすな」という文系(?)の方からの圧力を感じたことはありません。
また複数のパラメーターの関数として表せるものを、である/でないのデジタルに線引きするのは、理系の発想ではないと考えています。
てらしま -2011/01/13 21:10
そうした立場もあっていいと思うし、そうした立場からの意見もあっていい。という意味です。どうお読みになられたか存じませんが、皮肉でもなんでもなくそのとおりの意味です。記事おもしろかったですよ。
上記のゲーム理論は、xenothが「あれはゲームじゃない、これはゲームじゃない、これが真のゲームだ」というタイプの論考に接して「そんな風に分けても意味ないんじゃね?」という感想を持っているこが前提となっています。
これはわたしが上の記事を書いた動機に近いところでもあるので。きっと大して違わないことを指摘してると思いますけどね。
じっさい、自分の好きなゲームを含めるためにくりかえされている定義論争よりは、おもしろさのほうを語る立場のほうが有益でしょう。
わたしはすでに、あなたの主張をほぼすべて受けいれています。それを忘れないでいただきたい。「である/でないのデジタルに線引き」が目的ではないと、すでにいったはずです。
ただボードゲームにも語れることがあって、それはごく狭義の、おそらく同意を得られるであろう明確な定義から作れるモデルの中で展開される現象のことだ、ということです。それが、あなたのいうおもしろさの一部を説明できるかもしれません。
そうした立場がわたしの考える科学ですが。これを否定するのは「答えを捜すな」と同義です。
という意味です。
喧嘩を売りたいのでなければ、もはやとうてい意味のある議論には思えません。たぶん同じことをいってますよ。
xenoth -2011/01/13 22:45
ただボードゲームにも語れることがあって、それはごく狭義の、おそらく同意を得られるであろう明確な定義から作れるモデルの中で展開される現象のことだ、ということです。それが、あなたのいうおもしろさの一部を説明できるかもしれません。
操作的な定義は、いくらでも好きな定義ができるので、定義する意味、目的を最初に書くのが重要です。
「ボードゲームならではの面白さを研究する」ことが目的なら、そのように書けばよいでしょう。
「ゲームの面白さは様々と思うが、種類の違う面白さが混在している状況では、議論が難しいので、まずはボードゲームの面白さを研究したいと思う。そのために、ここではまず、二人以上のプレイヤーが明文化されたルールの元で遊び明確に勝敗が決るタイプのゲームを対象とする」と言えば済むことです。
>そうした立場がわたしの考える科学ですが。これを否定するのは「答えを捜すな」と同義です。
ボードゲーム特有の面白さを研究することは誰も否定していません。
「「である/でないのデジタルに線引き」が目的ではない」というのは、てらしまさんの意図であったかもしれませんが、実際には。
ボードゲームだけがゲームである
とか
しかしだ。それでは、ゲーム定義は不可能なのか? あるいは無意味なのか?
とか
そうしたことを、ボードゲーマーたちはすでに、実感として感じとってさえいるだろう。コンピュータゲーマーたちが知らないことを、ボードゲーマーはすでに知っているのである。
といったようなことを言われている。
これではデジタルな定義を採用し、コンピューターゲーマーvsボードゲーマーというありもしない対立の構図を作っているようにしか読めません。
批判が起きるとしたら、そうした部分であって、「いわゆる文系の人はしばしば、理系の人に「答えを捜すな」といってしまう」というのは、的外れではないかと思うわけです。
てらしま -2011/01/13 23:05
そのとおりです。そこはコメントの議論で先日からやっていることですね。
てらしま -2011/01/14 00:44
わたしの記事については新しいご指摘もないし、なにもありませんが。もうひとつあったのは、xenothさんの記事のほうですか。
じっさいには、ゲーム性に関する議論のひとつの大きな勢力として「議論なんかするな、楽しければいいじゃん」というものがあります。そうした議論の拒否、論理の拒否が個人的にとても嫌いです。
「いわゆる文系」とはずいぶん乱暴なくくりでしたが。
xenothさんの記事がそうだとは思わないしむしろ逆でしょう。ただあのままでは「楽しければいいじゃん」派と区別するための線を引くことが困難だと感じました。
ここで議論すべきことではありませんが。そういう感想があったということです。もし問題があれば、ご自身のブログででもフォローしてください。
あともうひとつ。せっかくおもしろいことを書かれている記事なのに、文中のわたしへの批判で品位を落とされているのはたいへん忍びないです。
xenoth -2011/01/14 02:38
あともうひとつ。せっかくおもしろいことを書かれている記事なのに、文中のわたしへの批判で品位を落とされているのはたいへん忍びないです。
文中に、てらしまさんへの批判を入れた意図はありませんでした。そう読めたとしたら申し訳ありません。
一部のボードゲームを前提にした理論が、ボードゲームのルール完全性を前提にするが故に、ルール的な自己実現ばかりを重視して、時に自己表現や共有といったルール外の曖昧な要素を「ゲームでないもの」として切り捨てるような態度を見せかねないことに対する危惧でもあります。
おそらく、これについてのことだと思いますが、このような議論をされる方は、たくさんおりまして、私の継続的な問題意識になっております。
てらしまさんとはこちらのコメントの対談の上で、そうではない、という合意が得られたのでそのように考えておりました。
記事自体はてらしまさんとの対話の中で思いついたことであり影響されているのは確かですが、一般論として書きその旨をはぶいたため、おっしゃるような誤解の余地を生んだかもしれません。それについては申し訳ない。
ただあのままでは「楽しければいいじゃん」派と区別するための線を引くことが困難だと感じました。
ここで議論すべきことではありませんが。そういう感想があったということです。もし問題があれば、ご自身のブログででもフォローしてください。
ありがとうございます。机上の空論を否定するあまりに、建設的な考察すら否定する場合があることについては私も問題を感じております。
そのあたりは日記のほうで何度もネタにしておりまして、たとえば最近だとこちらになります。
http://d.hatena.ne.jp/xenoth/20101201/p2
そこも含めて、「議論が悪いのではなく、机上の空論や、イデオロギーを隠して押し付けるタイプの議論が問題である」と様々な機会で主張しているつもりです。
とりあえず、箱の裏を見るといい。「うえっ」と思える。
やたらと細かくて大きい数字がたくさん並んだボードが見える。なにこれ。
そういえば、作者のフリーデマン・フリーゼは電力会社の人だ。あれも、やたらと細かくて大きい数字を扱うゲームだった。
コンピュータ世代の我々は貧弱だから。電卓は必須になる。もっともいまどき、携帯電話でもなんでも計算くらいはできるけど。
うえっと思ったところから一歩だけ踏み出してプレイしてみれば、ゲームのほうはとてもおもしろい。そこはさすがフリーゼだ。
株を売買するゲームだ。ボードに並んだ数字は、株価なんである。
決算が起こると、巾着袋から「ブリーフケース」を何個か引く。出てきたブリーフケースの色の株価が、上がる。
ただし、もし黒のブリーフケースを引いてしまったら。逆に株価が急激に下がるんである。
このあたりが、暗黒の金曜日というタイトルにつながっている。
おもしろいのは、この巾着袋の扱いだ。
ゲームが進むにつれ、黒いブリーフケースが追加されていく。また、決算のたびに、それまでに買われたのと同じ色のブリーフケースが袋に投入される。
そうやって、株価の変動の確率が微妙に変わっていく。
そのあたりも考慮したり、しなかったりしつつ、株取引をしていくことになる。
この巾着、なにかに似てると思う。
そう、いわゆるデッキゲームの、デッキと同じなのだ。
読めるかもしれないし操作できるかもしれない乱数装置。かたちは違えど、実現したいロジックは同じだ。
そういう株取引をくりかえし、資金を集める。そうして集めた資金は、銀の延べ棒を買うために使う。この銀が、勝利点である。
銀は、早く買うほど安い。暴落もあるとはいえ株価はどんどん上がるから、株に投資したほうがお金は儲かる。しかしそればかりやっていると、気づいたら銀相場が高騰しすぎていたりする。
うまいところは、各ターンの売買数の上限がきっちり決まっているところだ。終了間際に銀をまとめて全部買う! ということがあまりできない。この強制のせいで、効率を重視する作戦に上限があり、どこかでテンポを考えなければならない。
(若干、ゲームシステム的に強引な方法という気もするけど)
お金は必要だ。そのためには株が必要。しかしどこかで銀を買わなければならない。
勝利点はお金じゃなく銀、というところが、個人的にとても気に入っている。
ただ相場で取引するだけじゃない、それとは別の軸があり、つねに緊張感が切れない。
少し前によくあった、このサイトで勝手にいってた言葉で「街系ゲーム」、つまり、タイトルになんか街の名前がついてて、建物を建てていく系のゲームに、近いところがある。基本的に拡大再生産だから投資が必要なのだけど、どこかで勝利得点に切り替えないといけない、そのタイミングがいつなのかを、刻々と変化する局面の中で読みとる、街系の特徴はそういうところだ。
暗黒の金曜日は銀があるおかげで、株ゲームなのに街系っぽい。
そんなゲーム。
すごくよくまとまっていて、おもしろい。
基本的に人が買っている株は高騰しやすいから、みんなが群がる。だから株価が急騰する。しかし暴落の危険はつねにある。
そんな、いかにもバブルのマーケットっぽい緊張感が、とてもよく再現されている。この、ゲームシステムが作り出す「相場っぽさ」や雰囲気が、非常にいい。
なんだろうこの独特の感じ。フリーゼが鬼才などといわれてるのも、こういうのやるとわかる気がする。
とにかくこの数字の大きさ。細かさ。本当に電卓必須だ。
こんなゲームデザイン、ふつうはやらない。ふつうは、最小限の数字でなんとかしようとするだろう。教科書があったらそう書いてあると思う。
しかしこの人は「104」なんて数字をボードに書いてしまう。
でもじつは、数字が大きいほうが調整はしやすいのだ。
小さい数字だけを扱っていると、たとえば「株価が1から2になった」というのは、その株の価値がすべて2倍になったことになってしまう。変化が大きくなりすぎる。中間がほしい。
このゲームでは「株価が39から34に下がった」などということが起こる。こんな微妙なスケールの変化は、ふつうのボードゲームではなかなか扱えないのである。
そういう微妙な数字の変化で、このゲームは調整されている。
このへんが、鬼才を特徴づけるところのひとつかもなーと、少し考えている。
もはや話題のゲームなので、ゲーム紹介は他のサイトに譲ることにして。
このゲームが、たぶんTCGから輸入した「ドラフト」というシステムを採用していることは、↓の記事に書いた。
こうなると「ドラフト」というのもどうもあいまいな用語だけど、まあいまのところは、TCGプレイヤーがそう思ったらそうなのかもなというくらいで。
なぜドラフトだったかというと、ドミニオンがTCGプレイヤーをとりこんだ直後の市場が、いま目の前にあるから。ではないかというようなことも、上の記事に書いている。
まあこんな話は憶測なのだけど、ここではさらに憶測を重ねることにしよう(ぉ
「ドラフト」の採用だけではない。世界の七不思議は、ゲーム性そのものというよりもそれ以外の点で、とても冷徹な市場分析のもとに作られたのではないかという気がしているんである。
それは、↓のような点から。
すばらしい。とても論理的に、市場が求めているものを分析した結果生まれてきたゲームに見えてくるんである。
(そうしたマーケティングを優先したがために、ゲーム部分にいくらか亀裂がある気がしないでもない。とも思えるのだけれど)
……ごめんなさいムダにセンセーショナルなタイトルつけてしまいましたが。
去年末から、twitterやブログなどで少し盛り上がっていた話題がある。「ゲーム性とはなにか」だ。
そう。この議論、もう何度も、さまざまな人に語られているにも関わらず、いまだ定期的に盛り上がっている。みんなゲームが大好きなのである。
そんな議論を眺めていて、わたしはいつも、もやもやとした気持ちを抱えている(そうだ、わたしもゲームが大好きだ)。
ゲーム性とはなにか。それは、ゲーム的である性質のことだ。つまり、これはゲームの定義の問題となる。
ゲームとはなにか。
これこそが、我々にとってつねにただひとつの問い、我々の祈りだ。
しかし。永遠の問題ではあっても、現象としての定義づけは当然可能なのである。
定義というのは決めごとのこと。(ゲーデルなどを持ち出さない限り)現実をそれなりに説明できるものを定めてしまえばいいだけのことなのである。
ゲームの定義については、過去に多くの優れた理論がある。
このサイトで何度も言及しているのは、コスティキャンのゲーム論だ。これは非常に優れたゲーム定義といえる。しかし今回は、イェスパー・ユールにしたがうことにしよう。
(Jesper Juul。デンマークの人なので、カタカナはこの表記にする)
コスティキャンのゲーム論同様、ウェブで翻訳が読める。大変ありがたいことだ。
私が最終的に提唱するゲーム定義には、六つのポイントがある。
1) ルール: ゲームはルールに基づく。
2) 可変かつ数値化可能な結果: ゲームはさまざまに変化しうる数値化可能な結果を持つ。
3) 起こりうる結果に課せられる評価: 見込まれるゲーム結果のそれぞれに異なる評価が割り当てられるということ。ポジティブな評価もあればネガティブな評価もある。
4) プレイヤの努力: プレイヤは結果に影響を及ぼすべく努力を傾けるということ。(ゲームはプレイヤの手腕を問う、とも言い換えられる。)
5) プレイヤと結果の繋がり: ポジティブな結果が発生すればプレイヤは「幸せな」勝者となり、ネガティブな結果が発生すれば「惨めな」敗者になる、という意味で、プレイヤは結果と繋がっているということ。
6) 対価交渉の可能な結末: 同一のゲーム ルールセット は、現実世界への影響の有無と関係なくプレイすることができる。
少々言葉が難しいのだが。もってまわった表現を選択せざるをえなかったあたりに、苦労の跡が感じとれるとは思わないだろうか。
そんな苦労の甲斐あってか、ゲームの諸要素をきっちり網羅しているというに充分な内容だろう。そう思っている。
ただ、おそらくは……、世の中のほとんどの論者にとって、この定義は厳しすぎる。
じっさいのところ、この定義はかなり厳しい。
そのためユールは、この定義の一部を満たさないものを「ボーダーライン・ケース」と呼んでいる。境界領域であるとするのである。
また、ゲームは変容するものだと書くことも忘れていない。そのあたりの柔軟さが、この論の特徴だ。
なぜそんな柔軟さを確保しなければならないか。
それは、世の中のほとんどの「ゲーム」と呼ばれるものが、厳密な定義ではゲームでなくなってしまうからだろうと、わたしは思う。
では、世の中のほとんどのゲームとはなにか。ユールが、自分の論に例外を許してまで「ゲーム」に含めたかったものとはなにか。
それは、コンピュータゲームなのである。
いまや、ほとんど世界中のどこへいっても、ゲームといえばコンピュータゲームのことだ。本来あるべき意味とは関係なく、いわば市場の要請から、ゲームに関する理論はコンピュータゲームを扱わざるをえないのだ。
「ゲームはコンピュータゲームによって歪められている」
これまたムダにセンセーショナルな表現でいえば、そういうことになる。
コンピュータゲームは本質的に、ゲームである必要がない。
まず、目的が確定できない場合が多い。コスティキャンがシムシティを例に挙げて語るとおり。同じ問題について、ユールが「無期限シミュレーション」と呼びボーダーライン・ケースとしたとおり。
また、選択肢が一回もないノベルゲームが「ゲーム」を冠しているということもある。
ほとんどのコンピュータゲームは、厳密な議論ではゲームから外れてしまうのではないか。
あくまで狭義のゲームを守るとするなら。コンピュータゲームは「玩具」なのである。
じっさいこれは「コンピュータは道具である」という自明の理屈をいいかえたにすぎないわけだけれど。
(※ゲームであるコンピュータゲームももちろんあります)
しかしだ。それでは、ゲーム定義は不可能なのか? あるいは無意味なのか?
いいや、そんなことはぜんぜんない。
ユールの定義は、あるいはコスティキャンの定義は、ボードゲームの多くが生み出す現象を、明確に説明できる。考察を深めれば、ボードゲームデザインの役に立ちさえするだろう。
狭い定義を採用したとしても、多くのボードゲームはゲームの土俵に踏みとどまることができる。
いわば、最大限に「狭義の」ゲームでかまわない。「ボーダーライン」など必要ない。ハハハッ。それでも、我々ボードゲーマーには多くのゲームが残されているではないか。
じっさい、もっと厳しくてもいいくらいだ。
たとえば「プレイヤー人数は必ず2人以上必要である」という条項を入れれば、議論がかなり整理されるだろう。あるいは「勝敗を決めること」を明記してもいい。
コンピュータゲーム以外はどうだろう。TRPGは? もちろん、ゲームではない。ボードゲームの中にも、ユールの定義を満たさないモノがあるではないか? もちろん、それらもゲームではないのだ。
それでいいではないか。
ゲームという言葉に関する議論を眺めながら、わたしがずっと抱いていたもやもやの正体は、これである。
ゲームを定義すればいいではないか。定義から外れるものは外せばいい。
それでも、少なくともボードゲームを語ることはできる。
(あと、TCGと、2人用アブストラクトゲームの数々も語れるだろう)
ゲームから外れたものは?
わたしは「ゲーム」と「遊び」をつねに区別している。ゲームは常に遊びだが、ゲームでない遊びはいくらでもある。
ゲームでないものは、遊びとして語ればいい。それも重要な議論だ。
そちらの方面については、ホイジンガやカイヨワが役に立つだろう。
ボードゲームは「狭義の」ゲームを語ることができる。ボードゲームに立脚しさえすれば、定義論のラットレースから逃れその先を語れる。
例えば、マルチゲームに関する諸問題について。あるいは、ゲームが成立するための条件について。ゲームを成立させるインタラクションとはなにか。運とはなにか。
そうしたことを、ボードゲーマーたちはすでに、実感として感じとってさえいるだろう。コンピュータゲーマーたちが知らないことを、ボードゲーマーはすでに知っているのである。
ボードゲームだけがゲームである。
いささか……ムダに挑発的ではあるが。我々は自信を持って、そう思ってもいいのではないか?
そして、議論を続けるコンピュータゲーマーたちを横目に見ながら、粛々と、その先の世界を語ってもいいのではないか?
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ボードゲームだけがゲームである へのコメント