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遊星ゲームズ
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2011/03/14 23:59

ビール侯爵
 ボードゲーム

2011/03/14 23:59 てらしま

 これを「デッキ構築」と呼ぶとは、フリーゼもなかなかの悪意ですね。という感じなのだけど。
 とにかく、かなりヘンなゲームだ。
 どういうゲームかといって、まずテーマを紹介するわけなのだけど。
 プレイヤーは侯爵。領地を開墾し、生産物を近所の醸造所に売って生計を立てている。でもこんな生活はもうイヤで、一刻も早く大金持ちになって宮殿を建てて悠々自適の生活を送りたい。
 ちょっと意味わからないけど……。
 つまりやることは。ビールの原料である大麦、ホップ、清水を領地で生産して、近所の醸造所に売る。売ったお金で宮殿を建てる。
 そういうゲームだ。いちおう。

 プレイヤーにはボードが渡される。そこには6つの枠があって、建物を建てることができる。畑とか銀行とか、いろいろな建物を建てられる。
 テーブルの中央には、近所のビール醸造所が5つある。これは相場ボードになっている。大麦が足りなければ大麦の値段が上がっていくし、ホップがたくさん売られればホップの値段が下がる。その醸造所に、領地で生産したものを売ってお金を稼ぐ。
 で、その稼いだお金で、建物を建てる。もちろん、さらにたくさんの資源を生産する大きな畑とかもあって、おなじみの拡大再生産的なことをやる。
 しかしだ。この侯爵の目的は、宮殿を建てることなのだ。
 ゲームの勝利条件は、自分の領地に宮殿を6枚建てること。領地には6軒ぶんの土地しかないわけで、つまり、全部宮殿にしたら勝ちなんである。
 宮殿は別になんの能力も持っていない。せっかく拡大した生産力を、最終的には全部つぶさなければならない。

 この勝利条件は、ゲーム的には、ドミニオンの勝利点カードにあたる。勝利に近づくほど生産力が下がっていく「負のフィードバックループ」を表現している。
ルールズ・オブ・プレイ』にあった言葉をおもしろがってつかっているんだけど。まあこういう言葉があると便利なので。
 この「負のフィードバックループ」をデッキの中でスマートに表現したところは、ドミニオンの特徴のひとつで。そんなところも、ドミニオンへのオマージュと思えてきてしまったりするわけなのだけど。

 ゲームの流れを説明してなかった。
 プレイヤーには、上記の領地ボードの他に、いわゆる「デッキ」(自分の山札)が渡されている。このデッキは、みんな同じ決まった内容の28枚だ。
 ラウンド開始時に、この山札から3枚引く。山札に入っているのがつまり、建物カードなのだけど。
 そのあと、自分の領地にある畑から商品を生産する。そして、それを醸造所に売る。
 このとき売って儲けた金額にしたがって、以後のプレイ順が変わったりもする。売った金額が低いプレイヤーほど、順番が早くなる。
 次に、建設。手札から、お金をつかって建設する。
 そして商品が売られた数に応じて相場が動いて、その後。
 プレイヤーは、手札を「1枚だけ」残せる。
 ここが問題だ。残りは「山札の下に、好きな順番で」入れる。
 あー、このへんがデッキ構築ですかフリーゼ。これまたずいぶんなデッキ構築ですね。
 建物カードの中にはもちろん、勝利条件である宮殿も入っていて。その順番を、プレイヤーが決めろというんである。
 なんともまあ。

 ちなみに「デッキ構築」という言葉は、デザイナーであるフリーゼ自身の言葉としてマニュアルに登場する。

 あとこのゲーム「導入ルール」と「標準ルール」というのがあって。
「標準ルール」では、ゲームの準備としてまず、自分の山札から10枚のカードを引く。そのうち1枚を手札に残し、残り9枚を好きな順番で、山札の下に入れる、という、これまたなんとも……。

 ゲーム自体は、おもしろいです。
 フリーゼっぽい、多少強引ながらきっちり枠の中に着地する感じのデザイン。電力会社や、ファクトリーマネージャーや、暗黒の金曜日や、あのへんの他のゲームと共通したプレイ感覚がしっかりある。
 いまのフリーゼの、バッティングフォームとでもいうべきものなんだろう。
 ずいぶんたくさん作ってる人だけど、その秘訣はこういうフォームをもってることだろうなーと思える。
 その中でも、このゲームはルールが簡単でわかりやすい。あとフリーゼがよく使う大きな数字の数列が、あまり登場しない。
 だいぶプレイしやすいゲームだ。「デッキ構築」の話題性(?)もあってか、わりと最近話題に上っている。

 最初に悪意と書いたけど。
 地震のこともあって、善意ってなんだろうとかそんなことはどうしても考えてしまうわけで、いやべつにゲームの紹介記事でそんな大仰なことに話を拡げるつもりは毛頭ないのだけど。
 このゲームにはある意味で悪意が込められていると、わたしは思う。そしておもしろい。にやにやする。

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2011/03/13 14:53

「見えないゲーム」(3)
 ゲーム・論考

.ワーカープレイスメントの魔法

「ワーカープレイスメント」は、ここ数年のボードゲームで、もっとも大きなムーブメントだったゲームシステムのひとつだ。
 簡単に説明しよう。
 プレイヤーには「ワーカー」と通称されるコマがいくつか渡される。これは、プレイヤーが1ラウンド中に実行できるアクションの回数を表している。
 手番は順に回る。手番がきたプレイヤーは、手元のワーカーコマを1個(あるいは、複数個使用できる場合もある)、ボード上の「ワーカーボックス」と通称されるマスに置く。
 ワーカーボックスには、それぞれ固有の、まったく違う効果がある。「コイン」などゲーム内の資源を生産する、ゲームの目的である勝利点を獲得する、などだ。あるいは、次のラウンド以降に使えるワーカーコマを増やすなどといった効果がある場合もある。
 ラウンド中に、手番は何周も回ってくる。そのたびにプレイヤーはワーカーを配置し、ワーカーボックスの効果を解決する。
 すでにほかのワーカーが置かれているワーカーボックスは選択できない。また、ワーカーがなくなっていたら、パスをするしかない。
 すべてのプレイヤーが手元のワーカーを使いきったら、ラウンド終了。次のラウンドには、また前のラウンドと同数のワーカーが戻ってきて、同じ手順をおこなう。
『ケイラス』というゲームが、このワーカープレイスメントを世にしらしめた。ケイラスは世界中のボードゲームマニアを夢中にし、ワーカープレイスメントは注目のシステムとなった。
 その後、ケイラスに追随して多数のワーカープレイスメントゲームが発表された。『アグリコラ』『ストーンエイジ』など、傑作といわれるゲームも多くある。
 いまでも、ワーカープレイスメントやそのカスタマイズを採用したゲームは出つづけている。
 じつはわたし自身も、同人というかたちでボードゲームをデザインしている。昨年発表した『テラフォーマー』は、まさにこのワーカープレイスメントを採用したゲームだったわけだけど。

 ワーカープレイスメントの特徴は「ゲームが複雑でもルールの習得が容易」という点だ。
 ワーカーボックスの種類により、さまざまなロジックが実行されることになる。じっさい、種類が多ければ多いほど、ゲーム自体は複雑になる。ゲームの複雑さだけを数値化すれば、かつての重厚長大なゲームよりもさらに複雑なくらいだ。
 しかし、プレイヤーの選択はあくまで、ワーカーの配置という統一されたインタフェースのみをつうじておこなわれる。ワーカーボックスを選択し、そこにワーカーコマを置く。ゲーム中にプレイヤーがすることは、つねにそれだけなのである。
 そのため、プレイヤーがゲームにアクセスするための敷居が低い。じつは複雑なゲームをプレイしているのだが、そう感じさせない。
 前回までに書いた「充分な複雑さ」を実現するためのスマートな装置として、非常に優秀だ、

 ワーカープレイスメントは、上に書いた「キングメイカー問題」への回答のひとつだ。
 すでにワーカーコマが置かれているワーカーボックスは選択できないというルールがあるため、優先的に選択したい行動はほかのプレイヤーより先に選択しなければならない。この部分に、強いインタラクションがある。
 たとえばあなたが「開拓」のワーカーボックスにワーカーを置き、アクションを実行した。そうすると、次のプレイヤーは「開拓」を選べないことになる。
 このインタラクションは、いわゆるウォーゲーム的な、プレイヤーを指定した直接攻撃のインタラクションではない。間接的な、自分が実行したい行動と他人の行動との間の相互作用である。
 いわば直接の攻撃ではなく、その上にもうひとつレイヤーをかぶせたということになる。
 インタラクションは強くある。だが、プレイヤーの選択肢として直接「戦闘」を選んだわけではないのだ。
 これなら、前述のキングメイカー問題は発生しづらい。いやもちろん起きているのだが、効果が間接的なためいつ起こったのかが認識しづらい。
 また発生したとしても、プレイヤーの意識として「攻撃」をしていないことが多く、不快感として認識されづらいという面もある。

 シンプルなインタフェースの向こうに、複雑なロジックが隠蔽されている。重要なのはこの点だ。
 鍵は「インタフェースの統一」ではないか。
 ゲームへのアクセス方法をたった一種類に統一することで、習熟を容易にした。じっさいには複雑な処理がある。現にプレイヤーはそれを実行している。しかしあくまで、プレイヤーの選択自体は、ワーカーの配置、それだけなのだ。
 ワーカーをワーカーボックスに置くこと、それだけを憶えれば、ゲームをプレイできてしまう。じっさいのところ、プレイさえできれば、あとの処理は他のプレイヤーにまかせてしまってもかまわない。
 プレイヤーはいわば、その簡単さに「騙されて」ゲームの複雑なロジックにアクセスすることができてしまう。ワーカープレイスメントがなしえたのは、そうしたことだと思っている。
 コンピュータゲームでいえば、ファミリーコンピュータのコントローラにあたる。矢印のかたちのボタンと、AとBのボタン。あれを渡されたプレイヤーは、とりあえずボタンを押してみるだろう。すると、ゲームからなんらかのフィードバックが、音や映像で返ってくる。それまでのキーボードとは違い、非常にシンプルなインタフェースだ。
 プレイヤーの選択肢はボタンに制限されている。だからこそ、とりあえずいじってみることができる。ゲーム専用の装置として非常に優秀だったし、多くの人に受けいれられた。またそれは、非常にさまざまなゲームに応用できるインタフェースだった。

 ワーカープレイスメントを例として取り上げたが、この話はこれにとどまらない。ワーカープレイスメントの次の巨大ムーブメントだった「デッキ」や、その他、近年登場しているゲームシステムの多くに共通している要素だ。
 まとめるならまず、ゲームシステムはインタフェースであるということ。次に、インタフェースをシンプルに、できるだけ統一することで、非常に複雑なゲームを実現できるということ。バックグラウンドで動く複雑なロジックや、プレイヤー間のインタラクションを、覆い隠すことができるということ。
 いまでは、ワーカープレイスメント級のスマートな装置はボードゲームの要件となっている感さえある。

 いちおう続く予定だけど、書くことまだあったかな。


2011/03/05 14:11

「見えないゲーム」(2)
 ゲーム・論考

.「キングメイカー」問題

 現代のボードゲームはあまり、戦闘をしない。
 これには理由がある。
 現在主流となっている、いわゆる「ユーロゲーム」は、ドイツから拡がった。ドイツ製のゲームの特徴として、家族向けの楽しいゲームが多い。戦争の反省が文化にも影響しており、戦争をテーマとしたゲームがあまり作られなかった、などともいわれている。
 しかしそれ以上に大きな理由があると、わたしは思う。
 ボードゲームには、3人以上で遊ばれるものが多くある。1対1だけではないのである。
 1対1のゲームと3人以上のゲームとでは、大きな違いがある。1対1なら、相手の損はそのまま自分の得だ。しかし、3人ではそうとは限らない。
 プレイヤーが3人以上になると、ボードゲームのインタラクションは、宿業ともいうべき大問題を引き起こす。ボードゲームの界隈では「キングメイカー」と呼ばれる現象が、その典型例だ。
 ボードゲームデザインにおいて、非常に重要かつやっかいな課題となっている。
 重要な問題なので、改めて確認しておきたいと思う。

 だけどその前に、ボードゲーム特有の言葉を説明しておきたい。
 ボードゲーム界隈でしばしば使われる言葉に「インタラクション」がある。
 ふつう、ゲームの話で「インタラクション」といえば、プレイヤーとゲーム(システム、プログラム)との相互作用、というような意味となるだろう。コンピュータ関連では「インタラクティブ性」などといわれることもあるだろうか。
 しかし、ボードゲームの場合は少しだけ、違う意味で使われる場合が多い。
 意味を限定した「プレイヤー間の相互作用」というのが、ボードゲームで使われる場合の、目的語を省略した「インタラクション」の意味となる。
 ほとんどの場合、ボードゲームには2人以上のプレイヤーが参加している。そしてルールブックには、勝者と敗者を決めるための条件が書かれている。「勝者と敗者を決める課程」こそが、多くのボードゲームにおける「ゲーム」だといえる。
 であれば、プレイヤーとゲームとの相互作用はそのまま、プレイヤーとプレイヤーの相互作用に置き換えられる。
 インタラクションという言葉は意味が限定され、自分と他のプレイヤーとの相互作用のことを指すことが多い。

amazon

 そのインタラクションの典型例が「攻撃」だ。
 他のプレイヤーを攻撃し、損害を与える。相手の勝利を遠ざけることで、相対的に自分の勝利を近づけようという選択である。
 現に、こうしたシステムを持つゲームは多くある。しかし、この「攻撃」という選択肢には問題がある。特に、3人以上の場合に。
 たとえばプレイヤーAが、戦争のために1の資源を支払い、プレイヤーBを攻撃した。その結果、プレイヤーBは2の損害を受けた。この場合、もっとも得をしたのはだれか。なにもせずになんの資源も失っていない、プレイヤーCなのである。
 これがなぜ問題なのかは、さらに考えを進めればわかる。
 もしもこのとき、Bがトップを走っていたとしたら。AかCのどちらかがBを攻撃しなければ、Bが勝利してしまうのだとしたら? だが、攻撃をしたプレイヤーは損をしてしまうのだ。
 誰も攻撃しなければ自分は負けるが、攻撃したプレイヤーは負ける。では、AとCのどちらがその仕事を担当すべきなのか?
 当然、答えはない。
 ボードゲームをやっていると、こうした場面に遭遇するのは日常茶飯事だ。だから用語も発生している。「お仕事」というのがそれ。
 この問題は、ボードゲームにつねにつきまとっている。3人以上が参加するゲームにおいて、ほとんど必ず発生する。宿命といえる現象だ。
 この問題のアレンジが、ボードゲーム界隈で「キングメイカー」と呼ばれている問題となる。
 例えば。
 もはや勝利の可能性を失ったプレイヤーAがいるとする。このAが、現在トップのプレイヤーBを攻撃した。その結果、プレイヤーCが勝利した。
 しかしもしも、Aの攻撃対象がCだったら。あるいは、攻撃以外の選択をしていたら。もちろん、Bが勝っていただろう。
 この典型的なケースでの問題は、Aに勝利の可能性がないことだ。どうやっても勝てないのだから、Aの選択には正解がない。しかし、このゲームの勝者を決めるのはAなのである。
 プレイヤーの努力が勝利につながらない、ゲームに参加したすべてのプレイヤーにとって、納得できない結末となってしまう。
ルールズ・オブ・プレイ』にいう「意味ある遊び(ミーニングフルプレイ)」を、達成できないのである。
 3人以上のゲームでは、本質的にこの問題を解決できない。
 典型的な状況として「攻撃」をとりあげたが、この問題はインタラクションのかたちを問わない。ルールブックに勝者と敗者を決める方法が書かれており、インタラクションがあるのなら、そして3人以上のプレイヤーがいるのなら、必ずこの問題は発生しうる。証明は省くが、ルールから論理的に導き出せる帰納なのである。
 もっといえば。
 ボードゲームはほとんど究極にシンプルなゲームだ。だから、こうした本質的問題があらわになりやすい。だがじつは、これはボードゲームだけの問題ではない。
 上に書いた前提条件は、3人以上が競争している状況なら必ず発生しうる。そして現に起こっている。コンピュータゲームでも、あるいはスポーツでも、なんでもそうだ。
 ただ、ボードゲーム以外ではあまり認識されていないように思う。研究対象としてのボードゲームの役割のひとつは、こうした「競争の本質」ではないか。

.キングメイカーの解決策

 3人以上の参加者がいる以上、必ずどこかで、多かれ少なかれ、この問題が発生している。ボードゲームデザイナーはつねにこの問題と戦ってきた。
 答えはない。これはゲームルールから導き出せる論理的な問題であり、解決は不可能だ。
 しかし、デザイン上の技術により覆い隠す、いわば「ごまかす」ことなら可能だ。ゲームデザイナーたちの模索の結果、確立した方法がいくつか登場している。

 ひとつは、インタラクションをなくすこと。最初に書いた「あまり攻撃をしない」ゲームは、この方法論を採用していることになる。
 プレイヤーの選択が、ほかのプレイヤーに影響を与えなければいいのだ。
 たとえば、各プレイヤーに1個ずつのクロスワードパズルが配られ、いっせいにスタートする。もっとも早く問題を解いたプレイヤーの勝利。そんなゲームであれば、インタラクションに関する問題は起こらない。
 しかしこれは、各プレイヤーがそれぞれに一人用ゲームをしているのと同じだ。これはゲームだろうか?
 定義によるが、少なくとも、複数人でゲームをしている意味は薄れている。ボードゲームの醍醐味の大きな部分が失われているとはいえるだろう(ただそうしたゲームでも、遊びとしておもしろいということはある)。
 もちろん、ここに書いたのは極端な例だ。ほとんどはどこかに、控えめなインタラクションを残している。しかし、じっさいにまったくインタラクションがないゲームもあったりする。
 そうしてインタラクションを弱め、攻撃をなくす。これは、近年のボードゲームで多く採用されている、流行のひとつだ。最近のゲームは本当に、攻撃がない。

 もうひとつは、運を入れること。プレイヤー同士の相互作用はあるが、それをキャンセルできる強さで運を作用させるのである。
 サイコロやカードを使う目的はこれだ。これならいくら攻撃されても、サイコロ運次第で逆転できるかもしれない。そういう調整を施すのである。
「キングメイカー」が、誰かの勝利確率を著しく下げることはあるかもしれない。しかし、運がよければ巻き返すことができる。
 1点の攻撃を受けても、サイコロ運次第で2点を得ることができれば、逆転の仮想性は残る。
 この方法は、昔から多用されている。モノポリーのサイコロが代表的だろう。解決法のひとつであるとはいえる。
 ただこの方法にも問題はある。
 システムに運を多用しすぎると、プレイヤーの努力がすべてサイコロにキャンセルされてしまう結果になる。どんなに考えて最適手を打ちつづけても、最終ターンのサイコロ運1回で逆転されてしまうのなら、それまでのゲームはなんだったのか?
 プレイヤーにとって納得できないゲームが生まれてしまいやすい(「ただの運ゲーだ!」)。「意味ある遊び(ミーニングフルプレイ)」が、損なわれてしまう。
 もちろんモノポリーにも、運要素までを加味した戦略論があるのだが。すべてのプレイヤーがそう思えるわけではないのだ。

 さらにもう一つ、別の方法がある。
 インタラクションや運による影響を充分に複雑にし、現実的に読み切れない状態にするのである。
 モノポリーのゲームデザインは正しい。しかしやはり、けっきょくすべてがサイコロ運で決まってしまうのでは、プレイヤーが納得しづらい。プレイヤーの努力が充分に反映されたという満足感が足りない。少なくとも、最近のボードゲームの流行はそういっている。
 ただの運では、理想的な方法といえない。
 だから、運の代わりに「プレイヤーが読めるかもしれないが実際には読み切れない複雑さ」を盛り込む。
 また「攻撃」も採用しない。なぜなら、プレイヤーを指定した攻撃はたいてい、ゲームに与える効果が直接的で、わかりやすいから。
 どの瞬間に、どの操作が勝者を決定したのか。それがプレイヤーにわかってはいけないのだ。わかってしまったら、その瞬間に意味ある遊び(ミーニングフルプレイ)が崩れてしまう(少し極論気味ではあるが)。
 数学的にいえば、カオス系をデザインすることといえるだろうか。
 単純な初期条件から、複雑なふるまいを実現する。ここでいう初期条件とは、プレイヤーの選択。ふるまいは、その操作からルールにしたがい展開されるゲーム局面である。ふるまいの中には、ほかのプレイヤーの選択やその結果などを含んでもいいだろう。

 ゲームを決める決定的な瞬間を、複雑さの中に覆い隠す。
 これはずっと昔からボードゲームがやってきたことでもある。
 だがボードゲームである以上、ただ単に煩雑な処理を追加するわけにはいかない。前にも書いたように、ボードゲームはすべての処理をプレイヤーが実行する。操作が煩雑すぎると、そもそもプレイすること自体が困難になってしまう。
 一般的にいえば、ゲームの複雑さとプレイアビリティはトレードオフだ。
 ただし、これは原理でも定理でもない。斬新な新発明があれば限界を破れることがある。
 あくまで、簡単に処理できること。しかしその裏側で、プレイヤーが意識せずに充分に複雑なロジックが実行されている。そんなシステムがあれば、それは限界を突破する発明ということになる。
 プレイヤーは、自分が実際になにを処理しているのかを知らないままコマを動かし、カードをめくる。その結果はルールにしたがい簡単に処理できる。だがその操作の裏に、プレイヤーが充分に知覚できない複雑なふるまいが隠されている。そんなゲームシステムを作ることができればいい。
 もちろん簡単ではない。だが、近年のボードゲームデザイナーたちは、これを実現してきた。そうして、急速に高まるユーザの要求を満たしてきたのだ。

 そのひとつの例として、ボードゲームのファンたちが「ワーカープレイスメント」と呼ぶゲームシステムを紹介したいと、思ったところで次回に続く。

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2011/03/04 23:57

「見えないゲーム」(1)
 ゲーム・論考

 最近のボードゲームは本当にすごいと思う。
 とくに、よく採用されている「ワーカープレイスメント」とか。デッキとかドラフトとか、ああいうゲームシステムはすごい。
 なにがすごいかというと。とにかくまずはシンプルさ。それなのに、ずいぶんと複雑なゲームを表現してしまっているところ。昔ならたぶんありえないくらい複雑なロジックを実行しているのに、それが本当に簡単に、しかも短時間で終わること。
 とても濃密な時間を体験できるゲームが多い。ボードゲーム人口は前よりだいぶ増えたと思うのだけど、それも納得できる気になれる。とにかくゲーム自体が、すごいことになってる(じっさいには他のいろいろな要因があるにせよ)。
 こんなすごいものを実現したゲームデザインとはなんなのか。ワーカープレイスメントやデッキなどの「新しい」システムが実現したものは、いったいなんなのか。
 それに興味がある。

 まあ先に結論を書くけど。
「ゲームのインタラクションや乱数などを集約した1個の装置」
 だと考えている。
 ちょっとこれだけ書いても意味がわからないので、これから説明しようと思うのだけど(めんどくさい話です)。
 乱数やインタラクションやその他いろいろや。要は、ボードゲームに表現されている「ゲームであるもの」がある。これはきっと、必ずどこかにある。
 それを、たった一箇所に集約してしまった装置が、ワーカープレイスメントやデッキなどのシステムだ。
 近年のボードゲームにおいては、もはやあたりまえのように実現されているのだけど。もはや、ボードゲームのある分野においては要件のようになっている感さえあるのだけど。
 でももちろん、あたりまえではないのだ。20年前にこれを作れたデザイナーはほとんどいない。
 ゲームデザイン技術としてのブレイクスルーが、あったのではないかと考えている。あるいは、一個の発明ではないと考えるなら、産業革命のような爆発だろうか。
 その「集約した装置」に、総称がほしいなと。あるいはすでにあるのなら知りたいと。ずっと考えている。
 そういう話。


.ボードゲームの制約

 ボードゲームは、制約の大きいゲームだ。
 人間がコマを動かし、カードの効果を読み、ルールどおりに操作する。なにしろそうしなければゲームが進まない。
 人間の脳に処理できる計算量と、人間が不快でない程度の処理しか扱うことができない。そういう、強い制限を受けている。
 また、ボードゲーム(の多く)は、ゲームの局面を用具が表現しなければならない。これも強い制約だ。
 テーブルトークロールプレイングゲームなら、ゲームマスターはどんな冒険でも用意できる。言葉を使い、あらゆる状況をゲーム上に表現できる。もっと強力なのはコンピュータゲームだ。極端な話、物理エンジンで世界をエミュレートしてしまうことさえできてしまう。
 しかし、ボードゲームにはそれが許されない。刻一刻と変わるゲームの状況はすべて、ボードや手札、コマといった用具が明確に表現しなければならない。
 こんな狭い範囲に表現できるゲームは、じつのところけっこう限られている。ほとんど奇跡といってもいいデザイナーのひらめきと直感がなければいきつけない、狭い円の中だという気がする。
 ボードゲームデザイナーたちは、制約の中で表現できるゲームをいつも捜し求めている。
 そんな厳しい制約を課されているゆえに、ボードゲームは、他のメディアではありえない特異な進化を遂げてきたともいえる。
 たとえば現実のなにかを表現するとする。コンピュータを使えば実物そのものをシミュレートすれば済む。いやそんな簡単ではないけど、表現はだいぶ自由だ。
 しかしボードゲームでは、対象を高度に抽象化しなければならない。そうしなければ、狭い円の中をはみ出してしまう。つまり、プレイできないほど複雑になってしまう。
 そうして高度に抽象化された世界は、ときに現実とは似ても似つかないものとなる。しかもその上に、ゲームを成立させるため、調整のためにさまざまなアレンジが加えられる。
 アクワイアのあのボードを見て、ホテルを経営するゲームだと思える人がどこにいるだろう? もちろん説明を受ければ納得できるし、エッセンスを抽出してあるから、むしろ現実よりもずっとリアルに思えることもあるのだが。
 こうした抽象化はたぶん、自由な表現が可能なコンピュータゲームやロールプレイングゲームには不要なものだ。「ガラパゴス」的な進化といってもいい。
 だが、そんな制約の中で作られるからこそ、ボードゲームは純粋に「ゲーム」と向き合ってきた。そうする必要があったのだ。表現したい「ゲーム」とはなにかを鮮明に思い描けなければ、ゲームを成立させることさえ難しいのだから。
 その成果の一部が、ボードゲームのシステムと呼ばれるもの。オークションだとかアクションポイントだとか、いろいろなものがあるわけだけど。
 中には、ボードゲームの世界以外からは絶対生まれえなかっただろうものがたくさんある。

 といった前提を説明してみた上で。
 ここでは、ボードゲームにおけるゲームシステムの中でも特に、プレイヤーとゲームとの関連に注目してみたい。
 プレイヤーが「ゲーム」にアクセスするための手段、つまり、ゲームへのインタフェースだ。現在のボードゲームがなしえたゲームデザイン技術の成果について、特にインタフェースの面から眺めてみたいと思っている。

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 コンピュータ科学の分野では、インタフェースの進化形として「アプライアンス」やら「ユビキタス」などという言葉が登場している。
 技術者しか使えない技術の時代は終わろうとしている。コンピュータはいまや、そこにコンピュータがあることさえ意識せず使える道具となる。
 ドナルド・A・ノーマンはこのことを「見えないコンピュータ」と呼んだ(ドナルド・A・ノーマン『インビジブル・コンピュータ』)。
 ボードゲームはどうやら、おそらく必然として、コンピュータ科学と似た方向に向かっているのではないかと思う。
 この方向でいうと、ゲームのインタフェースの目標は「ゲームをプレイヤーの意識から消すこと」。
 つまり、ワーカープレイスメントやデッキや、その他いろいろの「新しい」ゲームシステムがそれなのだろうと、わたしは考えているわけだ。
 あくまで「似た」であり、実体には少し違いがあるけれど。たとえば、ひとつの箱の中で完結するボードゲームに「クラウド」はない。しかし、実現しようとしている内容は同じではないかと思っている。
 ノーマンに倣うなら「見えないゲーム」を実現することだ。

 キーワードらしきものが1個出てきたところで、次回に続く!

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2011/02/14 20:45

日本ボードゲーム大賞2010を勝手に予想する
 日記

 ちなみに、わたしの1位投票はスペースアラートですが。それはともかく。
 勝手に予想しようと思います。
 これはあくまで予想で、自分の嗜好などは無視したものです。
 トトとか、けっこう嫌いじゃないです。あたらないけど。
 まあ、にぎやかしに。


 さて、予想にあたって、賞の特徴などを確認しておきましょう。
 去年(2009年)の結果のページを見ると、こうあります。

(投票者総数:349名。投票はお気に入りの新作を5つまで記入する方式で、1位として挙げられたゲームを5点.、2位を4点.……5位を1点として合計し、得点の大きい順)

 1位と2位の差が小さいのが特徴な気がします。
 あと、投票総数は300票と少し。去年はドミニオンブームがあってこの票数だから、今年はその影響が残りつつも、少し減るんじゃないかと予想します。多くないですね。
 あのー、ここに書いてるのは、さして背景事情も知らない人の勝手な憶測なので。予想があたるとは思ってないわけで、そのあたりはそのつもりで聞いていただけるといいです。

 さて。今回、影響のありそうな要素として下のようなものがあるのじゃないかと考えているのです。

  • 集団票
     全体の票数が小さいので、たぶんこれの影響が一番大きい。まあしょうじき、そんなもんだと思います……。
  • 2位の点が高い
     つまり、一部に熱狂的なファンのいるゲームよりも、万人が2位に投票するゲームがあればそちらのほうが強いんではないかと。エルグランデで、たくさんの地域の2位をとったプレイヤーが勝つみたいな。
  • 日本語版
     過去に日本下流通していたものでも、2010年に日本語版が発売されていたらもう一回ノミネートという方針のようです。
     レース・フォー・ザ・ギャラクシーなんて、2年前に3位になってるけどもう一回ノミネートです。
     もちろん「いまさらこれはない」と思う投票者がけっこういるだろうわけで、そのぶん、そうした作品は不利です。
     しかしもちろん知名度は高い。微妙なところ。今回のトトを難しくしてます。

 わたしの判断としては、日本語版の再ノミネート作品は受賞しない(微妙だけど)。さすがにこんな少人数のコアなファンしか知らない投票で、そこに投票する人は多くないだろうと。ばっさり切ります。
 集団票については、予想のしようがありません。それこそ、主催のゆうもあのゲーム会とかいってれば少しはわかるのかもしれませんが(笑)。しかしきっとこれが一番大きい。うーん。まあ勝手な想像で。
 2位票の強さは今回けっこうあるんじゃないかと思います。去年のドミニオンとか、圧倒的なものがあるならわかりやすいんですが、今回は僅差だろうと思うわけで。


 あーそんなこと考えてるとさっぱりわからなくなってきましたが。ムリヤリ予想してしまいましょう。

1位:サンダーストーン
 やっぱりこれかなあ。しかしなんか1位になる気がしない気も。興味ない人はぜんぜん興味ないゲームでもある。1位投票が多そうだけど均したら2位だったみたいなこともありえる気が。
 でも予想としてはこれで。
2位:アラカルト
 なんか日本のゲームサークルが好きそうなイメージ。しかしこれも、投票の多いゲームサークルがどこなのかとかなにを好きなのかとか、ぜんぜん知らないけど……。
3位:ブタなかま
 なんというか、これが1位! という投票者は少ない気がするのだけど、なんか3位とかにてきとうに入ってるかもしれないとか……。
4位:フレスコ
5位:スチールドライバー
 ここまでくるとさっぱりわからない(笑)。

 今回「再ノミネートはない!」という予想なので電力会社、レース・フォー・ザ・ギャラクシー、ルアーブルあたりを外したのだけど、やっぱり日本語版の知名度は大きい気もしてきたなあ……。

 さあどうだろう。
 投票は明日まで、発表は3月だそうですよ。


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