ボードゲームの紹介です。もちろんドイツ製が中心。
ゲームのデータは公式ではなく、執筆者の主観です。てらしまはけっこう考えるスタイルのようなので、特にプレイ時間は長めになっています。でもメンツによって違うわね。
ドミニオンクローンのひとつ。デッキ型カードゲームとか、いわれている種類のゲームだ。
テーマは、剣と魔法のファンタジー。村でパーティーを作り、装備を調え、ダンジョンでモンスターと戦う。
ちなみに「クローン」という言葉にはとくに悪意はない。twitterなどで最近使われている言葉のひとつだ。PukiwikiとかをWikiクローンと呼んでいた用法と同じ感覚だろう(というか、ドミニオンクローンという言葉を使いはじめた人のひとりはわたしかもしれない)。
このサンダーストーン、わたしは大好きなのです。ドミニオン亜種だし、まちがいなくドミニオンの影響を受けて作られたゲームだろうけれど、かなり違う独特のおもしろさが構築されている。
アークライトが最近完全日本語版を出してくれたということで、さいきんかなり遊んでいる。
ドミニオンと違うのは、とりあえず要素が増えているところ。ドミニオンは、アクションも金貨も勝利点もすべて「コイン」というひとつのリソースで獲得する。そこが、ドミニオンのすごいところのひとつだった。ふつう、ゲームでこれをやるのは難しい。集めるべきリソースがひとつということは、すべてのプレイヤーが一様にそれを集めることになる。戦略が分岐しないため、単調で逆転できない、おそらくは1番手プレイヤーが超有利なゲームになってしまう。
ゲームルールはシンプルなほうがいいのだが、シンプルすぎるとこういう問題が発生する。ドミニオンはそこを、デッキというスマートな乱数装置の活用で解決した。デッキを使うことで、リソースの使用を不均一にした。またそれをコントロールする手段をいくつか用意(ドロー、圧縮、など)した。リソースの種類ではなくリソースの動きを変化させることで、戦略を分岐させゲームを成立させている。
しかし、この方法にもやはり欠点がある。拡張の作りづらさ、というのはたぶんあるだろう。
既存のカードの上位互換や下位互換は作れないとするなら。あとはもはや、システムを追加するか(海辺)、リソースを追加するか(錬金術)、または、高価で強力なカードを追加するか(繁栄)。それしかない。
わかりづらさ、というのもある。ふつうのゲームなら、選択肢に対応するリソースが用意されている。たとえば「木」「石」「鉄」とか。ドミニオンにはそういうわかりやすさがなく、リソースの動きかたを操作するやりかたを選択するという、直感的でない戦略選択を迫られる。「初心者論」「インスト論」などが語られるのはそのためだ。じっさい、ルールを把握してから勝てるようになるまでにはけっこうな期間がかかり、また上級者と初級者の差も非常に大きい。
じつはリソースが多く複雑なほうが、わかりやすい。
サンダーストーンや他のドミニオンクローンのいくつかでは、コイン以外のリソースが追加されている。それはじつは自然なことだし、むしろドミニオンが特殊だったわけなのである。
手番がはじまったらまず、村にいくかダンジョンにいくかを選択する。
村は、ふつうのドミニオンのような感じ。お金を使い、なにかを買う。武器とか、ランタンとか、冒険の必需品がいろいろ売っている。
ドミニオンと違うのは、ダンジョン。
ダンジョンにはモンスターがいる。このモンスターを倒すのが、ゲームの目的だ。モンスターを倒すために必要なのは「攻撃力」。お金などいくら持っていても役にたたない。
つまり、追加されたのはこの「攻撃力」だ。
あと、他にも「経験値」などが追加されていたりもする。
おかげで、カードのデザインはずいぶん複雑になった。1枚のカードの中に、かなりたくさんの数字が並ぶ。
そのあたりは、インストが難しいゲームだと思う。しかしじつは、最初はドミニオンより難しいだろうが、ゲームがはじまってしまえば、なにをすればいいのかが逆にわかりやすいんじゃないかと思う。
とはいえまあ、ボードゲームがそれほど好きでない相手にルールを説明するのは骨が折れそうだ。
(わたしの場合、このゲームをやる相手はたいていドミニオンプレイヤーなので、覚悟していたよりはずっと簡単に導入できている。そこはこのゲームのマーケティングの狙いどおりといえるだろう)
と、システム面の話を先行してしまったけど。それ以上にこのゲーム、雰囲気作りというような面でかなり成功していると思う。
「村にいく」「ダンジョンにいく」という選択が、とても理解しやすい。村にいって戦力を整える、ダンジョンにいってモンスターと戦う。そうすると経験値が溜まるから、村に帰ってレベルアップする。
遊んでいたら、頭の中にファミリーコンピュータ版ウィザードリィの音楽が流れてきた。
そういう、剣と魔法のファンタジーがやりたいことをきれいに再現できてしまっている。
たとえば『ルーンバウンド』や『ディセント』や、その他いろいろなファンタジーものアメリカゲームの流れをくみつつ、しかし採用したシステムがドミニオン型。
アメリカ人はほんとに、ファンタジーとゾンビが好きだなーと思うけど。
村で準備しダンジョンに挑戦する、ウィザードリィのような世界観が、どういうわけだかドミニオン型システムととてもよくマッチして相乗効果を生んでしまった。そんな印象がある。
ただのドミニオンクローンではない。ドミニオンとはやることもプレイ感もまったく違う。ドミニオン亜種と思っていると予想以上におもしろいし、ファンタジーの世界観も意外に楽しい。
たった数年で、島は急速に近代化されました。有史以来、ここにこれほどの人々が集まったことはありません。その理由はたった一つ。この島が偶然、赤道をまたいでいたため。そして、軌道エレベータ……宇宙に届く塔は、赤道直下にしか作れないためでした。
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軌道エレベータの街で、起業家となります。宇宙からの貿易品を集めるのが目的です。そのためには、さまざまな建物の能力を活用しなければなりません。
建物は毎回違う順序で登場します。ゲームの展開はさまざまに変わります。
いただいたお問い合わせなどを参考に、随時追加します。
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ボードゲームの紹介誌ということで、買ってみた。
内容は、かなり一般向けの紹介。写真が大きく、文字が少ない。ゲームの内容をくわしく書くのではなく、そのゲームのどこが楽しいのかを写真で紹介する。
全部フルカラーで、装丁もきれいでわかりやすい。眺めていて楽しくなる、紹介誌としていい内容だと思った。
ボードゲームショップに置いてあるとのことだが、これはむしろ一般書店にあってほしい。
1ゲームを1~2ページで紹介するページがメイン。それ以外の、少し文字が多い記事で、人生ゲーム、野球盤などが特集されている。
特徴的なのは、黒ひげ危機一髪! や脳波トイ『マインドフレックス』などがいっしょに紹介されているところ。これらはもちろん、ボードゲームというよりおもちゃだ。この本は、ボードゲームとおもちゃがいっしょくたに紹介される本なのである。
(マインドフレックスは興味深い。だれか買って遊ばせてくれないかなー)
こうなると、考えてしまう。
ボードゲームというのは、中途半端な立ち位置にいる趣味だ。ゲームなのか、おもちゃなのか。マニア向けなのか、子供向けなのか。本当にさまざまな顔をもっている。そういうものの狭間でゆらゆらしてるのが、我々ファンなのだけど。
この本はその中でも「おもちゃである」という視点から作られたと見ることができる。
たしかに、ボードゲームの裾野は広がっている。顔見知りのマニア同士で語り合っている世界とは、少し様子が違ってきているかもしれない。そうなればもちろん、マニア向けとは逆の方向のベクトルに振れていくことになるわけだ。
おもちゃである。そうであっていい。
徹底してそういう視点からの内容であることが、この本を特徴づけている。むしろ、そここそを高く評価している。
ただそんな本を見せられたファンとして、考えてしまうのだ。
ボードゲームはどうなりたいのか? どうなれば成功なのか?
これは誰かが決めることではないだろう。けっきょくは、マクロな市場が判断することだ。
しかし、こういう本がそこに多少の影響力をもっているとするなら。
そういうことを考えたとき、この本には、個人的な思いからどうしても納得のいかない欠点がある。
それは、ゲーム紹介ページにデザイナー名が表記されていないこと。
わたしもゲームを作ってしまった人間だ。だから、これは本当に個人的な思いなのかもしれないのだけど。
ゲームを作るのは人間だ。ゲームは誰かの作品だと思う。
個人を消してしまうのは、日本らしいのかもしれない。ゲームのパッケージにさえ、デザイナーの名が乗っていなかったりする。それが、どうしても納得いかない。
こういういいかたは好きではないのだけど。日本は、開発者の評価が低すぎる。
ゲームを作るのはゲームデザイナーであり、ゲームに責任をもつのもゲームデザイナーだ。ゲームにデザイナーの名前が付加されて、デザイナー名がひとつのブランドになってはじめて、品質に関する競争が生まれるんじゃないか。
個人的には、パッケージにデザイナー名がないゲームの評価は一段低くなる。それは、たとえばドイツやアメリカの、それこそデザイナー名がタイトルの上に書かれているようなゲームとは、乗っている土俵が違うと感じてしまうからだ。
個人的な願望として。ゲームはもう1レベル上の文化であってほしい。
そのためには、デザイナーが尊重されることが必要条件だ。漠然とそう感じているのだがどうだろうか。
2人用ゲームは、ゲームを作ること自体はマルチゲームより簡単だ。マルチゲームに特有のいろいろな問題を考えなくてすむから。2人用ゲームをデザインする方法と、3人以上のゲームをデザインする方法とではまったく違う。
そのため、ゲームの内容、雰囲気などの面でも違いが出ている。2人専用ゲームと3人用ゲームとでは、趣がだいぶ違うのだ。
たとえば、戦闘をテーマにしたゲームは2人用のほうが作りやすい。2人用では、相手の損は必ず自分の得だ。だから、攻撃をすればそれはそのまま勝利につながる。マルチゲームでは、第3者プレイヤーがいるからこうはいかない。
名作『バトルライン』などは、まさに2人用であることに依存した戦闘ゲームといえるだろう。またマジック:ザ・ギャザリングや他のいろいろなトレーディングカードゲームなどは、だいたいのものが戦闘をテーマにしている。
しかし、マルチゲームでは素直に戦闘をテーマにできない。
そのため、マルチゲームはいろいろな紆余曲折をたどって試行錯誤を続けてきた。オークション、ワーカープレイスメント、などなどの新システムが生み出されたのもそのためといえる。2人用ゲームだけでいいのなら、そんな努力は必要なかったのだ。
あと、2人用はアブストラクトが多いという面もある。この理由ははっきりとはわからないが、たぶん、システムとテーマとの兼ね合いのためだろう。
オークションやワーカープレイスメントや、そういう複雑なシステムを採用したら、それを説明するために世界観が必要になる。だから、マルチゲームではテーマが必要なのだ。
逆に、はるかにシンプルなシステムで成立してしまう2人用ゲームでは、世界観をつける必要がない。いやむしろ、たぶん、シンプルすぎてテーマになかなか結びつかない。だから、アブストラクトが多くなる。
戦闘と、アブストラクト。2人用ゲームを、わたしはおおむねそういう風に理解していた。
しかし最近、2人用ゲームもいろいろやってるんだなということに気づきはじめた。
2人用でも、マルチゲーム的なプレイ感をとりこもうという流れを、少し感じるのだ。
たとえばマルチゲームでいういわゆる「ソロプレイ感」を軸とした箱庭ゲームのプレイ感は、2人用には不要のモノだった。また、ワーカープレイスメントのように、直接の殴り合いではない間接的なインタラクションも、2人用には必要ない。
しかし、そうしたマルチゲームで生まれたデザインは、なにしろおもしろいのだ。だったら2人用ゲームにだって、という、そういう流れがあるんじゃないかと、思うんである。
具体的には、テーマを大事にすること、インタラクションを直接の攻撃ではなくすこと、というあたりだろうか。
ドラゴンの心臓は、とにかくテーマが明解だ。ボード上に勇者がいて、お姫様がいて、ドラゴンがいる。そして、ゲーム内容もまさにボードに描かれているとおり。
手札から1種類のカードを選び、ボード上の同じ絵が描かれたマスに置く。そうすると、そのカードの能力を発動できる。
「ヒーロー」は、ボード上に置かれている「トロル」か「プリンセス」のカードを獲得する。「プリンセス」は「宝箱」か「石化ドラゴン」を獲得する。
弓を構えた「ドラゴンハンター」は、空を飛ぶ「ファイアードラゴン」を獲得する。
そのあたりは、ボードにちゃんと矢印が描かれている。わかりやすい。
カードをプレイしないことはできないのだけど、たとえば宝箱をプレイしたら次の相手のターンにプリンセスでとられてしまうかもしれない。そういう、なんとなくかけひき的なものもあり。
しかしなにより思うのは、このゲーム、直接殴りあうゲームではないんである。このテーマなら、素直に作れば、ドラゴン側と勇者側に分かれて殴りあうゲームでもよかったはずなのに。
それで、さっき書いたようなことを感じたのだ。
ボード上に配置するカードを通しての、まあ攻撃というイメージではない間接的なインタラクションがゲームを成り立たせている。これは、マルチゲームで発達したデザインに近いように思える。
2人用らしくシンプルなシステム、だが、ルールが少ないわけではない。アブストラクトゲームよりはだいぶ多い。なにしろ、カードの効果がそれぞれ違うのだ。
そのために、世界観が必要になっている。これがただのアイコンやカードの色だったらちょっと難しいゲームになっているだろうが、誰でもわかるテーマをあてはめることで、プレイアビリティを確保することに成功している。
2人用ゲームのそういう流れは、少し前からあったかと思う。というか実のところ、2人用ゲームを積極的に買うほうではないので、もっと前からやっていたのだろうと思うのだけど。
『大聖堂の建設』あたりで、ちょっと気になりはじめた。この『ドラゴンの心臓』で、これは本当に無視できないのかもしれないと思いはじめている。
はっくる -2010/12/01 14:18
場を介して相手とやり取りをするという意味ではジャイプールに通じるものがあるのでしょうか?
ジャイプールはそこまで複雑なルールではないですけどね^^;
てらしま -2010/12/04 19:29
そうですねー。もっとゆるい感じかもです。カードの種類も枚数も多いので、けっこう運が強くなってて、わりといい感じに気軽かなと思います。
ジャイプールもおもしろいですね。
好きなタイプのゲームのようなんだけど。しょうじきなところ、あまりいいことは書けない。単純にデベロップ不足だろう。
いろいろと挑戦しているのだが、あまり機能していないという印象がしょうじきなところだ。
でも、好きなタイプのゲームだし挑戦は評価したいみたいな気もする。気にはなるゲームである。
昔のアステカの話。カカオをケツァルコアトル神に捧げるらしい。チョコラトルというのはケツァルコアトルのことで、チョコレートの語源らしいですよ。
カカオを収穫する、ピラミッドを造る、カカオを調理する、あとTachliとかいうスポーツをやる、という、なんとも支離滅裂な内容なのだけど。
ゲームは「カカオカード」をつかった入札が主になる。1枚ずつ配られるプレイヤーボードに描かれた6つのアクションに、裏向きで2枚ずつ入札する(手札は12枚)。
各アクションで、高い入札をしたプレイヤーが、そのアクションを実行できる。というわけで。
カードがワーカーだと思えば、ワーカープレイスメントっぽいともいえる。でもまあ、違う。配置することに意味があるとはいえないから。いわゆるブラインドオークションともとれる。でもそれも違う。各アクションに配置する枚数は固定で2枚。誰がどこを優先したのかという、情報がない。
まあそのあたり、既存のシステムに沿わなければならないということではないのだけど。まあ少々、中途半端になっちゃったかなあと思う。
あとちなみに、手札のカードは0から12の数字が書かれているのだけど。これを2枚ずつ配置というのは、あまり意味がない。手札は6枚でよかっただろうなあと思う。
……ボードゲームというのはけっこう、デザイナーにとって残酷なところもあって。こういうシステム上の無駄は、ひとつでもわりと許されない。ゲーム的に意味があれば(戦略の木が分岐すれば)まあ、いいのだけど。
6つのアクションへの入札方法は3種類あって、ラウンドごとに変わる。トップの得点によって決まるのだが。
「全部配置する」「1個ずつ公開しながら配置する」「まず全部に1枚ずつ入札してから公開し、2枚目を置いていく」という感じで、微妙に置きかたが変わる。
これ、挑戦は認めたいけど。実質上ほぼ意味をなさないルールになってたり……。
他にも、不満はいろいろあるのだけど。
なんかこう、わざとやってるんじゃないかと思うくらい、無駄が多い。ルールを読んでいて、いちいちツッコミどころがあるのだ。
個々の要素はちゃんと作られているし、コンポーネントも手を抜いた感じではない。だから、なんでこうなってるんだろうと思う。
とはいえ、無駄といっても不備があるわけではないし、ちゃんとルールを運用すればおもしろくないわけでもない。
なので、とりあえずシステム上の無駄は気にしないことにすると。
このゲーム、バランス面でも、少しふつうじゃないことをやっている。
家をつくるとか、手札を強化するとか。けっこう、生産力を向上するための選択肢がある。それも、強力だ。
しかし、直悦得点を得るアクションの効率は序盤ほど高い。生産力への投資をすれば生産が拡大するかと思えば……、たしかに強くなるのだけど、そのころにはもう盤面に得点が残っていない。
拡大再生産に見せかけた、叙述トリックみたいなものだ。はじめから生産力に投資しないほうがたぶん強い、というような、奇妙なバランスになっている。
ついでにいえば。これは悪いところではないのだけど。サイコロをつかう。
出た目の数だけ得点とか、そんな感じの使いかただ。乱暴といえば乱暴なダイスだけど。
じつは、これ自体はぜんぜんかまわない。上に書いたような他の欠点のように、ロジックが破綻してはいない。
でも、かまわないのだけど、サイコロを無闇に嫌う人も多いから……。ただでさえデベロップ不足のところに、さらに損してるなあと思う。
あーやっぱり悪いことばっかり書いてるなあ。
でも、じつはそれほど嫌いじゃないのですよ。中途半端ではあるけど、アクションに入札するシステムは(無駄を気にしなければ)楽しいし。なにしろやっていることは入札だ。入札とかオークションというのはプレイヤーがバランスをちょうせいすつから、ゲームにはなる。
評価はできないが、やっていてつまらないということでもないというか。
で、きのうの続きというか。
効率を極めたら、それはもうゲームの要素とならない、というようなことを書いた。その話、このキャッチアウトでも考えてしまったんである。
ファブ・フィブという傑作ゲームがあった。あれを連想するシステムだ。
3枚の数字カードを渡される。この3つの数字を見て、裏向きに、次のプレイヤーに渡す。
このとき、数字を宣言する。この宣言は嘘をついてもいい。
渡されたプレイヤーは、ダウトを宣言できる……というのは、ファブ・フィブの場合。キャッチアウトでは「嘘だろ」だけではなく「本当だろ!」とも宣言できるんである。
この宣言のことを「チャレンジ」と呼ぶんだが。チャレンジして、当たったら得点。外れたら相手の得点。
カード枚数のチャートがついていて、カードがすべてなくなったらゲーム終了だ。つまり、残りカードがなにかを憶えておくと有利になる。
ブラフを判断するための条件は、ここにある。いわゆるカウンティングが重要な、記憶力のゲームである。
そういうゲームだ。
さてここで問題だ。嘘か本当かを、見抜くための材料はあるだろうか。
ゲームマーケット2010のあと、なにやら盛り上がっていた話題があった。「ストレイシーフ問題」とでもいおうか。
ストレイシーフも同じようなダウト系ゲームなのだけど。嘘をつくことに、まったくリスクがない。本当のことをいっても嘘をいっても、差がない。
これはゲームなのか? そんな議論があった。
@kubotaya氏がTwitter上の発言をまとめている。
遊びとして楽しくないとはいえない。ゲームとしての楽しさはないかもしれないが、遊びとして成立することはもちろんありうる。
だが、あくまでゲームとして評価するなら。
わたしの立場としては、あれはゲームではない。
というか、ゲームじゃないものは他にもけっこうあるし……。
きのうの話を発展させることになるのだけど。
ストレイシーフには、インタラクションがある。しかし、ブラフを判断するための材料が存在しない。読めないインタラクションは運と同じ。ジャンケンと同じである。
ジャンケンがゲームかどうかというと、これもいろいろな意見があるはずだけど。このサイトの立場では、ゲームではないとしている。
なんか他のゲームのことばかり書いてるけど。キャッチアウトの話に戻る。
キャッチアウトは、記憶力のゲーム。正確にカウンティングしていれば、必ず最大の効率でプレイできるゲームである。
これはきのうも書いたけど。効率には上限がある。このゲームの場合、54枚あるカードをすべて記憶していれば、それが上限だ。
そんな神のプレイヤーだった場合。カードの残り枚数から考えて、嘘か本当かを判断できてしまうような宣言は決してしない。逆に、判断できる局面では必ず嘘を見破る。
そうしたプレイヤーだけで卓を囲んだ場合、嘘か本当かを見破れるだろうか?
チャレンジに成功する確率は、ほぼ必ず50%。判断材料はない。つまり、ジャンケンと変わらない。
記憶力が完全だという仮定をおくなら、キャッチアウトもストレイシーフと同じなのだ。
(本当はこのゲーム、各プレイヤーに情報量の差がある。だからそこでゲーム性を生じる可能性はある)
もちろん、人間の記憶は完全ではない。少なくともわたしにとっては、ゲームである部分が充分に残っているのだけど。しかし、54枚すべてとはいわなくても、重要なところをしぼって憶えきってしまうプレイヤーはいるだろう。棋士とかにやらせれば、本当に運勝負になるんじゃないだろうか。
この「ストレイシーフ問題」、じつは意外と多くのゲームが抱えている。
そんなことを考えた。
まあ、記憶力がなくても、50%のチャレンジに成功するかどうかという場面が多いゲームだ。
判断材料は、ゲームトークンではなく相手の顔、という面も意図されているだろう。
場の「盛り上がり」などは、ゲームの論理だけでは語れない。ボードゲームはコミュニケーションツールだといったとき、多くの場合はそうした、ゲーム外の要素を含んでいる。
キャッチアウトも、そうしたところのあるゲームなのかもしれない。
わたしがプレイしたときは、ファブ・フィブをやったことがあるプレイヤーが多かった。だからだろう。ルールを聞いて首をかしげる姿もあったのだけど。
じっさいにプレイしてみたら、予想よりもずっと盛り上がった。ファブ・フィブとは、意外と楽しさの質が違うかもしれない。
ゲームマーケット2010のフリープレイ卓を見て回った感じ、一番プレイされていたゲームがこれだったと思う。
とりあえず目を惹くのは、本。
本が入っているんである。なかなかボードゲームでは見ない用具だ。これが、魔法書というイメージで使われることになる。
この本を使い、いろんな魔法を駆使して、得点を稼ぐというゲーム。
ゲームシステムとしてはシンプルだ。本のページをめくり、このラウンドで使いたい魔法のページにしおりを挟む。それをいっせいに公開する。
選んだ魔法により手番順が決まる。だいたい、強い魔法ほど遅い感じになっている。あと、バッティングすると順番が最後になる。
手番には、場に出ているカードを1枚獲得して、選んだ魔法の効果を解決する。
まあ、手札からアクションカードを出すのと変わらないわけだけど。でもこれが「魔法書」だといわれれば、このほうが楽しい。
でこの魔法書、ラウンドが進むごとに自動的に、使っていいページが増えていく。最初は6ページしか使えないのだけど、最後には15ページ使えるようになる。
この本はすごくいい用具だ。選択するものが決まっているなら、手札よりもいい気がした。
さて、ルールは簡単だ。あとは、カードと魔法効果のバランス次第ということになる。
直接得点する魔法、ふつうはとれないアイテムカードを獲得する魔法、他人を攻撃する魔法などいろいろがあるわけだけど。
場から獲得するカードは、いろんな計算方法で勝利点を提供したり、持っていると特別な効果があったりする。これは意図がはっきりとわかる。複数の得点経路を用意することは、この種のゲームには必須だ。
魔法のバランスについては、若干疑問がある。ページが若いほうが順番が早いわけなので、若いページの効果はもっと弱くていいと思う。
似たようなシステムを採用しているハバナでは、一番早い順番をとれる「シエスタ」には効果がなかった。それくらいでいい気がする。
あと、魔法効果のインタラクションが少し強すぎる。
他人を一人選んで攻撃、という魔法の効果が非常に強く、終盤は逆転に次ぐ逆転になる。それが楽しいという向きもあるだろうけど、逆にいえばこれは、いくら自分ががんばっても相手の選択によっていきなり負けるということだ。
さらに、順番が逆になるという魔法があったりもする。
ただでさえバッティングの要素があり、このゲームではバッティングした場合のデメリットが激しいわけで。
バッティング、直接攻撃、手番順の逆転と、インタラクションを発生する装置が多すぎ、互いの効果を打ち消してしまっている感じはある。
インタラクションが非常に強いゲームの例は、1回勝負のジャンケンだ。ジャンケンはゲームとはいえない。インタラクションが強すぎると、ゲームシステムを打ち消してしまうのである。
特に、マルチゲームにおける手番順の影響の大きさに対して、近代のゲームとしては意識が低い感じはした。
ただ、インタラクションが強めのゲームのほうが、日本人が好むタイプなのかもしれない。という面はまああるわけだけど。
インタラクションの強さ、特殊カードの多さ、というあたり、いまの日本らしいゲームとはいえる気がする。
教会の大きなフレスコ画を修復する話。独特の雰囲気があるゲームだ。
ボードのまん中に、大きな絵がある。はじめは絵の上にタイルが並べられていて見えないんだけど、修復するとタイルがとりのぞかれて絵が見えてくる。
この絵の修復のために、絵の具を集める。絵の具を買うために肖像画を描いて小銭を稼いだり、といったことをやる。
あと、絵の具を混ぜて新しい色を作ったりとか。赤と青を混ぜれば紫ができるんである。
まずは、職人の起床時刻を決める。
職人は、早起きするほど機嫌が悪くなる。あまり機嫌を損ねると、生産性が悪くなってしまう。逆に寝坊を許せば、機嫌がよくなってよく働く。
通常は1日に5アクションの行動をできるのだけど、すごく機嫌のいい職人は6アクションする。機嫌が悪くなると4アクションしかしない。機嫌をとるのも大切だ。
で、そうして宿屋から出てきた職人たちは、まず市場に向かう。
市場には、絵の具が売っている。早起きすればいい絵の具がたくさん買えるかもしれない。寝坊すれば売れ残りしか買えないけれど、タイムセール(?)で安く買える。
絵の具を買ったら、次は教会にいってフレスコ画を修復する。
あと余った時間は、アルバイトをして小銭を稼いだり、絵の具を混ぜたり。職人を劇場につれていって機嫌をとる、なんてこともやれる。
そうしたアクションを、秘密でプロットして決める。ついたての後ろで、アクションボードにコマを置いて、1日(ラウンド)分の行動を決めるんである。
ちなみにこのゲーム、ついたてが2枚配られる。このアクションプロット用のついたてと、資源を隠すためのついたてだ。
こういうムダな豪華さも大事なところで。
新鮮さはそれほどないのだが、テーマがいい。フレスコ画の修復という具体的な目的があるから、すぐにテーマを共有できる。
また、それをゲームにする、料理のしかたもおもしろい。
職人の機嫌とりとか、絵がだんだん完成していく楽しさとか。絵の具を混ぜて色を作るのも楽しい。
これ、リアリティとかそういうのをまるっきり考えてないと思う。絵の具を混ぜたら別の色の絵の具ができるって、じゃあ混ぜてなかったのかって話だし。設定的なつっこみどころはある。
もちろん、ゲームにリアリティは不要なんだけど。ふつうはもう少し、現実に即したシステムを考えるだろう。
でも、これでいい。
このちょっと抜けたばかばかしさが、とてもいい味になっている。
とりあえず全部、テーマに合ってるし。適度にデフォルメされた世界だ。むしろ納得しやすいし理解しやすいというくらいではなかろうか。
まあ変だけど。
じつは、ゲーム終了時にお金が得点になるというルールもあって。そのおかげで、絵なんかそっちのけで寝坊してお金を稼ぐというプレイもできるようになっている。
そういう戦略の幅があったりもして、ゲーム自体は、よく調整された戦略ゲームである。
そこに、さらに「拡張キット」というものが3個ついている。
……えっ?
最初から、拡張が入っているんである。しかも3個も。
いろいろと、頭のおかしいゲームだ(ほめている)。
じつのところ、ゲーム自体はそれほど革新的という感じはしない。テーマのとりかたにうまく成功した、完成度の高いゲームという印象だ。
ふつうなら、数回プレイして「おもしろかった」で終わるかもしれない。いくら出来がよくても、新作ボードゲームの寿命はわりとそんなもの。特に、ゲームをたくさん買う人がいる場合は。
しかしフレスコは、拡張キットが3個ついている。つまり、拡張キットの組み合わせで、少なくとも8回遊べるんじゃないか。
(拡張キットの意図が「上級ルール」なのか「オプションルール」なのかについては、和訳ルールブックからは読みとれなかったのではあるけど)
ゲームバランスはよく調整されている。「バランスが悪い」というのはよくある批判の言葉のひとつだけど、じつは、よく調整されたゲームは似たような展開が多く「飽きやすい」という問題もある。
そういう問題を、デザイナーも感じていたのかどうか。すぐには飽きないように拡張キットをつけた。
考えて作ったんだろうなあと感じる。
変なところはあるんだけど、細かいところまで配慮が行きとどいた好ゲーム。