ボードゲームの紹介です。もちろんドイツ製が中心。
ゲームのデータは公式ではなく、執筆者の主観です。てらしまはけっこう考えるスタイルのようなので、特にプレイ時間は長めになっています。でもメンツによって違うわね。
人類が宇宙に進出してから、1000年… … 。しかし我々は、まだ銀河のごく一部を開拓したにすぎません。
宇宙はあまりにも広大です。まだ開拓されていない星が、無数に残されているのです。それらの星々には、人類がまだ知らない環境や謎の物体、未知の宇宙種族たちが待ち受けています。 我々はまた新たな惑星に降りたちました。目的はもちろん、この星を開拓すること。さあ、今回はどんな星でしょうか。 |
テラフォーマーは、惑星を開拓するゲームです。
プレイヤーは、ある惑星を開拓するためにやってきた宇宙国家のひとつとなります。都市を建設したり植林したり、ときには他の国家と争ったりしながら、得点を稼いでいきます。
カードの組み合わせで、毎回違う惑星があらわれます。謎の宇宙種族の力を借りながら、未開の惑星の開拓を目指します。
※上記以外に、プレイヤー人数分の筆記用具が必要です。
誤植っつーか……。
誤: →正:
カードの裏です。左のものが入っています。気づけとorz
なんかおかしいですが、ゲームにはなんら影響ありません。こういう仕様だと思ってください。もうしわけありません……。
(※交換などはできません。ご了承ください)
※テーブルゲームフェスティバル2010F以後に追加生産した分については、上記の誤植は修正されています。
ルールブックと、ゲームに使用するプレイヤーシートを公開します。
プレイヤーシートは100枚入っていますが、ゲームのたびに消費します。足りなくなった場合はこちらを印刷してお使いいただけます。
ゲームルールに関するお問い合わせ、ご意見、ご感想などは
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(※半角にしてください)
メーカー公式の用語で「デッキ型カードゲーム」である。これはつまり、ドミニオンコピーに与えられる呼称のようだ。
まあ個人的ないろいろな思いはあるものの。いっておかなければならないこととして。ゲームとしては水準以上である。少なくとも日本製ボードゲームの中では、平均を軽く超えている出来だろう。
だがそれは、ドミニオンコピーであればあたりまえかもしれない。
いや、コピーすれば必ずうまくいく保証などどこにもない。だから、おもしろいのならそれはそれで評価していいのはもちろんだけど。
ただいえることととして、ドミニオンのゲームシステムというのは、非常に堅牢なのである。もともと拡張するつもりで作ってあったためなのかもしれない。ドミニオンは、かなりひどいカードを作っても成立してしまうゲームなのだ。
じっさい、本家の拡張セットだって、冷静に考えればそうとうひどいカードを出しているわけで……。
ドミニオンとの違いは「側仕え」のルールと「病気」「悪癖」というイベントカード。
そしてこれは、かなり決定的な違いである。
まずドミニオンは、トレーディングカードゲーム用語でいうところの「パーマネント」(場に出すカード。クリーチャーとか建物とか)がない。あるのは手札と、デッキだけだ。
これは、非常にいろんな熟慮の結果として誕生したのであろう、ドミニオン最大の特徴である。
これについての考察はまあ、ここでは省くんだけど。ドミニオンになぜそれが必要だったのか、なぜそうしたのかを考えることは、ゲームデザインを考える上でとても重要だと思っている。
たんとくおーれでは「側仕え」ルールがパーマネントを復活させている。
またドミニオンは、攻撃カードの効果は必ず「対戦相手全員」に及ぶ。一人を狙う攻撃というのはひとつもない。
「マルチゲームのインタラクションはどうあるべきか」という永遠の問題に対する、ひとつのアプローチである。これもまた、ここではくわしい解説はしないけど……。
たんとくおーれのイベントカードは、個人を指定して攻撃する。
ドミニオンとの比較をすると、けっこう、決定的な部分に変更が加えられているんである。
ドミニオンそっくりなシステムでありながら、クリティカルな部分が変更されている。もしこれが故意なら、それは一種の悪意だろう。ただ、そのこと自体を批判する気はない。そういう芸術家の悪意はけっこう好きなのだ。インタラクションの話にしても、マルチゲームに闘争を求める層というのはいる。そういう層にとって、ドミニオンは物足りないゲームなのだ。
しかし、悪意である以上、半端や失敗は決して許されない。このゲームに関していえば、悪意だとすれば不足、無自覚なら残念。という感想。
まあ、それほどドミニオンそっくりで、だから決してつまらなくはないんである。
……なんだこの歯切れの悪いレビュー。
白熊 -2010/05/06 11:41
レビューありがとうございます。
ドミニオンのインタラクション(攻撃カード単体での話でなく、例えば庭園デッキ/公爵デッキなどのデッキアーキタイプをどのタイミングで選択する/選択しないという意味も含めて)ってけっこうやりこまないと見えてこない(見えづらいけど、やればやるほどうっすら見えてくる感じ?)が『味』なのかなーと個人的には思ってます。
> たんとくおーれのイベントカードは、個人を指定して攻撃する。
は遊ぶ相手を選びそうですねぇ(;´д`) 「むきになる」プレーヤーとは遊びたくない印象です。
てらしま -2010/05/06 12:58
コメントどうもですー。
ドミニオンの、見づらいけどはっきりとあるインタラクションはたしかにいいところのひとつですよね。
たんとくおーれはけっこう、場が弱いカードばかりだとすることがなくて攻撃というケースが多い気がしてます。逆にそれなら、自然にトップがたたかれるからいいのかもしれないみたいな微妙なバランス感もないではないです。
よくある、漢字をてきとうにあしらったエセ日本ブームにのったゲーム……ではない! これは本当に、本物の親日家が作った、日本の歴史をテーマにしたゲームである。
まあ親日家というよりは、デザイナーのディラン・カークは奥さんが日本人だそうで。ブームとは関係なく日本の文化を題材に選んで作られたのかもしれない。
ゲームとしては、いろんな問題がある気はしている。しかし、好きなゲームだ。
とにかく「本物だコレ」感がひしひしと伝わってくる。
カードには、和歌の上の句か下の句が書いてある。日本語と英語で。そう、いちいち英語に訳してあるんである。
日本語は雰囲気ある草書体で書かれているので、日本人にも読めなかったりする(笑)。
このカードで連歌を作って、場に並んでいるやんごとなき姫君たちを口説く。
いまの季節、流行のテーマ、姫君の趣味がアイコンで示されている。それに合ったカードをつかって歌を詠むと得点が高い。
歌を詠むと、姫君の心を手に入れたことになる。しかし、他のプレイヤーに邪魔されることもある。こんな歌たいしたことない! と(カードを使って)批判されると、姫君はたやすく気持ちを変える。そこで新しい歌を詠んでやると、今度はそのプレイヤーになびく。
たくさんの姫君の心を手に入れたら得点になる。これを4季節くりかえす。
とにかくインタラクションが非常に強い。どんなにいい歌を詠んでやっても、それで完璧ということにはならない。むしろ、高得点の歌ほど攻撃されやすい。
そうして互いの足を引っぱりあっているうちに、誰かに得点が入る。インタラクションの強いゲームではよくあることだが、結果的に、一番攻撃を受けなかった漁夫の利プレイヤーが勝つ。そういうゲームだ。
プレイヤーにとれる戦略はいくつか用意されている。だがそのどれをとっても、他人の攻撃次第ですべてキャンセルされてしまう。容易に。
マルチゲームには多かれ少なかれ必ずある、インタラクションの代償である。
これは必ずあるのだが、しかし、デザインで軽減することはできる。ゲームデザインに関する技術力が上がっている近年では、そこに無自覚ではいられない。
そのあたりの課題を、クリアしていない。
そうした問題点はある。
しかし、それはそれとして。手元にほしい。
日本の歴史をこれほどまじめに扱ったゲームは、見たことがない。日本のメーカーが作らなかったことが残念ではあるのだが、しかしむしろ、日本でこれが生まれることは難しかっただろう。海外だからこんなにマジメに作ったんだろうし。
普通ではありえなかっただろうこの本物っぷりは、一種の奇跡の産物だという気がする。ゲームとしてというよりも、コレクションとしてほしくなる。
住宅地とかビジネス街とか公園とか、線路とかを、ボードの上に並べるゲーム。
立体的なコマがたくさん入ってる。海外のボードゲームによくある「箱でかすぎwww」ではない。中身がつまってる。
このコマを見れば、すぐにどんなゲームかわかるというもの。そのとおりのゲームだ。
なにしろ立体物が並んでいくから、見栄えがいい。
写真撮りたくなる。
見た目どおりのゲームだ。建物を建てる。建てると得点が入る。
アクワイアみたいな、マスの位置が書かれたカードを持っている。大きな建物を建てるには何マスも必要だから、それだけつながったマスに対応するカードが必要になる。
建物にはいろんな条件があったり、ある条件を満たすと得点が増えたりする。公園の横に住宅地を建てると得点が何倍、とか。
大きい建物ほど得点が高い。難しい条件を満たすほど得点が高い。
そんないろいろを考えながら、みんなでひとつの街を作っていく。そういうゲームだ。
シムシティ系である。とりあえず、建物が並んだ様子を見てるだけで楽しくなってくる。
同系列では、個人的に知ってるもののなかで一番近いのはメディナ。経緯は知らないが、たぶんあれには、ビッグシティからの影響が入っているだろう。いろいろと、似たルールが多い。
なにしろシムシティ系なので、見てるだけで楽しい。逆にいえば、シムシティは見て楽しむ玩具なのだ。ゲームではない。
ビッグシティも、見てるだけで楽しめてしまうという面がある。だってこんな(→)写真撮ってるだけでも楽しいし(さっきよりだいぶ発展してきてる)。
だから、ゲームシステム自体が、そんな楽しさに覆い隠されてしまう面もある。
わたしの感想としてもゲームは楽しかったけど、それははたしてゲームが楽しかったのか、シムシティが楽しかったのか。
そんなことで、どこで線を引くべきか迷ったりもする。
ゲーム自体は、分析するなら囲碁みたいなものだ。ひとつの盤面を共有して、他のプレイヤーより価値の高い場所に建物を建てる。あるいは、他のプレイヤーを邪魔する。強烈なインタラクションが働いていることになる。でも手札の乱数があるため、そんな印象は緩和されている。
そのあたりのバランス感がいい。ビジュアルに覆い隠されているが、ゲーム面もよくできている。
しかし、じっさいのところ、このゲームの主眼はやはりシムシティ的楽しさだろう。それでいいとも思う。
ゲームシステム自体も、そんなデザインになっている。
たとえば、建物の配置と得点に関するルールが非常に細かい。早見表があるのだけど、これを見ながらでも初見で全部憶えるのは難しい。
通常なら、これは欠点とされるものだろう。ゲームデザイナーは基本的に、こういう煩雑さを嫌うものだと思う。
それなのになぜこうなったかというと、それは「建物を建てる」部分を優先したからではないか。
土地(手札)を集め、建物を建てる。プレイヤーがやるのはあくまでそれだ。それ以外ではない。コンポーネントから想像できる、そのとおりの行動だ。直感的にわかりやすい。
そこにこそ、このゲームの目的があった気がしている。
調整のために細かいルールが必要だったが、そこは些事だ。むしろ、プレイヤーが把握してないくらいでちょうどいい。
そんな風に思えるくらい、シムシティが楽しい。そのせいで、ゲームとして冷静に評価しきれない。いやむしろ、そうすることに意味がない気さえしてくる。たとえばこのゲームシステムに欠陥があったとしても、いいんじゃないか。
プリミティブな、ゲーム以前の楽しさがあるといえる。「ゲームとは!」とかそんな理屈の外で、問答無用の楽しさがある。
少なくともコレクションとしては、ぜひほしい。手に入りにくそうだけど。
ひとことでいうなら、情報もあつかうオークションゲーム。
物件もオークションするが情報もオークションする。
ゲームのデザインとしては、けっこうなチャレンジだと思う。ボードゲームは、リソースを可能な限り切り詰めた、モデル化された世界だ。過去の例を見ても、実体のない「情報」を実体のあるリソースと変換するゲームというのはけっこう難しそうだ。と思う。
プレイヤーは酔狂な金持ちたち。売り出されている屋敷や城をオークションで買うのが目的。
でも本当の目的は、建物じゃない。建物に出ると噂されている、幽霊がほしい!
……というバカネタなんだが。
建物には幽霊がいるらしいけど、まだ噂なのでわからない。幽霊がいれば得点が高いが、いなければ意味がない。
あと、幽霊がいすぎてもいけないらしい。それはちょっと、いくらなんでも危険すぎるんだろう。
この噂の真偽がポイントだ。
プレイヤーたちはオークションの前に、噂を流しあう。
「あの屋敷にいったけど幽霊いたよ」
とか。
「幽霊なんか見なかったなあ」
とか。
でもこの噂、本当かどうかわからない。
ラウンドの最初に「?カード」というものを1枚渡されている。ここには「true」「false」のいずれかが書いてあり、自分しか見ていない。
trueのプレイヤーが流した噂はすべて本当。falseのプレイヤーが流した噂はすべて嘘。なのである。
噂というのは、各プレイヤーの色がついたタイル「宣言トークン」を、物件の脇に並べていくことで表現する。
「幽霊がいた」「幽霊じゃなくて絵だった」の2種類の宣言が、各物件に並んでいく。
物件の得点は、この宣言トークンによって決まる。幽霊が多いほど得点が上がる(多すぎると0点)というわけなのだが。
嘘つきのプレイヤーの宣言は、すべて逆になるんである。
オークションがすべて済んでから、正直者か嘘つきかを公開する。そこではじめて、各物件の本当の価値が決まる。
つまり、まだ価値の決まっていない商品をオークションするゲームということ。
で。このゲームの最大のポイントであろう点。
この「嘘か本当か」という「情報」も、買うことができるんである。
建物のオークションの前に、情報をオークションするフェイズがある。
他の一人の伏せカードを見る権利と、余った「?カード」を全部見る権利のオークションがある。
情報を手に入れれば、もちろん有利だろう。しかし、そこにお金を使いすぎては、肝心の建物を買えない。
じゃあ情報はいくらなのか?
なかなか難しい問題を提示されている。
きわどいところにチャレンジしてるゲームと思う。
「情報」を明確にリソースと同格として扱ったゲームは、過去にも多数ある。しかし、すべてが成功だったわけではない。というよりも、じつはけっこう「佳作どまり」が多いという印象がある。
たいていのゲームでは、伏せられている情報を手に入れれば有利だろう。だから、情報は力になりうる。
しかしたとえば「あの伏せカードが『○○』という前提で動く」のはいつでも可能だ。そして、そうすることにしてしまえば、情報にリソースを支払う必要はない。その読み(あてずっぽう)が、偶然にでも当たってしまえば、当然そのプレイヤーが勝つ。
ならば、最終的には、それを狙うことになってしまう。
これはさまざまなボードゲームで見てきたことで。
「うまくいけば勝つ」選択肢は、強い。
というより、ボードゲームはマルチプレイヤーズゲーム(3人以上のゲーム)なのだ。誰か一人くらいは運のいいプレイヤーがいるもので、そのプレイヤーに勝つためには、自分がもっと運のいいプレイヤーにならなければならない。
まあ、この仮説の真偽はともかく。
プレイヤーがひとたびそう思ってしまえば、情報にリソースを支払う必要は、いっさいなくなってしまう。情報の価値はゼロである。
そうなってしまえば、もうあとは運勝負になる。
単純に情報をリソースと変換させる場合、少なくとも「プレイヤーを選ぶ」。悪ければ「意味がない」「運勝負」になる。と思う。
それを回避するための工夫が必要になる。ということになるだろう。それがなかなか難しい。と思う。
失敗した例を、けっこう見てきた気がする。
「情報」に特化したゲームなら、傑作もあると思うのだけど。
それほど多くやっているジャンルではないから、ごく個人的な範囲になるが『スルース』とか『シャーロック・ホームズ 切り裂きジャック事件』とか『ドメモ』あたりが思い浮かぶ。
問題は「情報」と「実体」という、2種類の選択肢があったとき。この2つの統一理論が難しいのだと思う。
ゴースト・フォー・セールも、そのあたりの罠に陥り気味という気がする。しかし、チャレンジは買いたい。
デザイナーにとっての難度(わたしの想像だけど)のわりにはちゃんと楽しめる。ふつうのオークションとは少し違うおもしろさもある。もしかしたら、あと一歩だったのかもしれない。
オリジナルはずいぶん昔のゲームのようだが、2009年に幻冬舎エデュケーションがリメイクした。デザイナーはあのアレックス・ランドルフ。いまでは本屋で売ってるので、たぶんそこらのボードゲームよりも手に入りやすいだろう。
ルールはいたって簡単。
1から7までの数字が書かれたタイルを、何枚か、裏向きで渡される。それを自分の前に、あちらをむけて立てる。
インディアンポーカー方式だ。自分のタイルだけが見えていないんである。
幻冬舎エデュケーション版はプラスチック製で、しっかりとした厚みがありちゃんと立つようになっている。裏がへこんでいて、そこを指で押さえればさらにがっちりと安定する。
このゲームをプレイするための用具として、このかたちは非常にマッチしていると思う。こういうのに触れると気分がいい。
で、その、見えていない自分のタイルの数字を当てるのが目的。
それだけだ。
手番がきたら、数字を1個宣言する。それが当っていれば、他のプレイヤーがそのタイルを倒す。
配られたタイルを全部当てたら勝ち。である。
推理の材料となるのは2つ。
ひとつはもちろん、見えている他人の数字だ。
各数字タイルの枚数は、もちろんルールブックに書いてある。必ず何枚かは使わないタイルがあるから、確実にはわからないのだが、情報はだいぶ見えている。
だから、
「5があまり見えてないから、自分の手にあるに違いない!」
とか、そういう推理を働かせることができる。
このタイルの枚数が、非常によくできている。なんといってもこのゲームの、デザイン上の肝ではないかと思う。
たとえば「1」のタイルは1枚ある。「2」は2枚。「3」は3枚。
数字と同じ枚数である。わかりやすい。
すべて同じ枚数ずつ、ではない。そこが重要だ。タイルごとに枚数の差をもたせた。これはいいかたを変えれば、それぞれのタイルにキャラクターを持たせたのだ。
人間は、平坦な分布を嫌う。カタンがおもしろいのは、使うダイスが1個ではなく2個だから。
1個のダイスの出目の分布は平坦だが、2個の合計は平坦ではない。8は9よりも出やすい。だから、8に置く選択と9に置く選択は違うのだと、はっきり認識することができる。
違うから、脳の中で個性を加えて、一つ一つを別のモノとして認識できる。
平坦な分布では、それぞれの出目を区別することができない。2であることと3であることの間に差がなければ、どれを選んでもいいことになる。そういう選択は、人間にとっておもしろくないんである。
ドメモだって、平坦な分布としてもよかったはずだ。
もしデザイナーが違えば、たとえば数字ではなく色で「赤」「青」「黄色」……が4枚ずつ、というゲームになる可能性もあった。そういうゲームでも、充分にありそうではないか?
そこはさすがランドルフ、といったところだろう。おそろしくシンプルかつエレガントに、ゲームのおもしろさを倍加してみせたんじゃなかろうか。
そんなタイル枚数の事情があるから、他人の宣言にも意味をもたせて聞くことができる。
もうひとつの推理材料は、他人の宣言だ。
たとえば他人が「1」と宣言したなら。それはきっと、その宣言者から「1」の数字が見えていない。なにしろ「1」は1枚しかないのだから。
つまり、自分のタイルに「1」はない!
そういう推理を、それぞれの数字についてすることができる。
やることは数字を宣言するだけ。それなのに、さまざまな推理を働かせることができる。
または、ときにはブラフを交えた宣言をしてみてもいいかもしれない。
非常におもしろい。
我々素人から見れば、こういうゲームは「神の手」が作ったんじゃないか。とさえ思える。
すべてがぴたりと収まるべきところに収まっていて、極限までシンプルで、なおかつおもしろい。そんなこと、狙ってやれるわけがないという気がしてしまう。つまり、デザイナーの意図した以上におもしろくなってしまったんじゃないかと。
傑作というのはなんでも、あるていどそういう面はあるだろう。
しかし、それを何度もやってみせているデザイナーがいるのもたしかだ。
彼らの頭の中にはなにかがあるんだろうなと思う。
そんなことを考えてしまう、そういう領域にいるゲームである。
すぎもと -2010/03/15 22:59
8は9よりも出づらい。
逆です。
てらしま -2010/03/16 00:51
あどうも。なおしました。
アクションを伏せて出し、いっせいに表を見せる。そしてそのアクションを実行する。他人とバッティングしたり、手番順が大事だったりもする。
と、そういう種類のゲームだ。
アクションに言語依存があるものの、13種類しかないし英語だからなんとかなる。シンプルでわかりやすい中にいろんな要素がつまった、傑作かもしれない。
全員、同じ内容のアクションカードを13枚持つ。この状態でゲーム開始だ。
アクションカードが表すのは、おもに生産のためのアクション。これを、毎ラウンド2個実行できる。
1ラウンド目は、2枚のアクションカードを伏せて出す。これをいっせいに表にし、アクションカードの数値を小さい順に並べる。「8」のアクションと「1」のアクションなら「18」になる。この数字が小さいプレイヤーから順にアクションを実行する。
数字が大きいアクションは効果が強いが、順番がとれない。「シエスタ」というアクションは効果がなにもないが、数字が「0」。
そういう感じで、効果と順番のジレンマに悩みながらアクションを選択する。
ポイントは、実行できるアクションが1個ではなく2個だというところ。
2ラウンド目以降は、前のラウンドに使った2枚のアクションのうち1枚を選んで捨て、新たなアクションを出す。
ここがおもしろい。1枚だけ、交換するんである。
2アクションのうちひとつは、前のラウンドで実行したものと同じになる。お望みなら、ずっと「闇市」のアクションを実行しつづけてもいい。
この、2枚のうち1枚だけど変えるというところがキモだ。それについては後述しよう。
アクションで、いろんなリソースを生産する。「お金」か、5色の「資源」か「労働者コマ」だ。
アクションは伏せて出すので、他人とバッティングすることもある。そうなったら、基本的に順番が早いほうが有利になる。そういう要素もある。
しかし完全に無効になることはそれほどない。アクションによって違うが、バッティングしたら効果が半分になるという感じになっている。
そうして生産した資源は、建物を建設するために使う。
建物カードは場に並んでいる。各建物には、建設に必要な資源と勝利得点が書かれている。
7種類の資源を生産し、建物を建てる。内容はそれだけといっていい。非常にシンプルなのだ。
ゲームとして分析すると、いわゆる拡大再生産をしない。生産力はゲームを通じて拡大しない。これはなんとなく意外だった。
そのため、内容とタイトルから想像できる街系ゲームとは印象が違う。むしろ、もっと小さいカードゲームのプレイ感に近い。
とはいえ、たとえば「ハゲタカのえじき」などのようなバッティング系カードゲームともちがう。
なにがちがうといえば、バッティングしてもいきなり完全に無効にはならないという点だ。そしてなにより、前述のアクションを2枚出す点。
これらの要素が生み出しているものは、計画性である。
バッティング系ゲームの多くは、他人の行動に左右される部分が大きすぎて計画を立てられない。なにしろ「バッティングしたら無効!」のルールでは、本当に計画的に行動するためには相手の思考を完全に読まなければならない。むろん、それは不可能なのである。
気軽なカードゲームではそれでもいいだろう。しかしけっきょく読めないのでは、バッティングは運次第でしかない。ゲーマーズゲームとして、毎ラウンドその場限りの運勝負では少し難しい。
ハバナは、そうした欠点を補うさまざまな工夫が施されている。
次のラウンドのことを考えてアクションを選択する必要があったり。もしバッティングしても動けないわけではないから、修正のための行動を考えられるようになっていたり。というわけだ。
また、2枚のアクションカードのうち1枚は次のラウンドに残るのだから、そこから考えれば他人の選択を読むことができる。
計画的な選択は、ゲーマーズゲームにとって必須要素といっていいだろう。そこを、うまい方法でクリアしている。
このシステムはすばらしい発想だなと思う。
傑作かもしれないと思うのだけれど、難点もある。
上述のリソースのうちのひとつ「建材」は、全部で5種類ある。これに、お金と労働者を加えると7種。これは多すぎると思う。ゲームの長さと手に入れられる数を考えれば、せいぜい4種か5種までだったんじゃないだろうか。
資源が多すぎるため、なかなか思いどおりの資源が手に入らない。場に出ている建物しか建設できないから、不要な資源があるのだ。
ゲームは予想以上に短い。13枚持っているアクションカードを使いきる前に終わってしまうだろう。そのため、資源がうまく手に入ってしまえば、あっという間に勝ち抜けてしまう。バッティングなどのためうまくいかなかったプレイヤーは、必要な資源が手に入らずそのまま脱落してしまいがちになる。という気がする。
加えて、アクションカードの中に「ペソ泥棒」「建材泥棒」というものがある。これがもう、対象プレイヤーも対象の資源も使用者が選んで盗むという強力な攻撃なのだ。
泥棒がいる以上、資源を溜めて一気につかうという作戦はとれない。操り人形の暗殺者や泥棒のように、対象の指定に読みや運が必要、というシステムならまだよかったのだが。
せっかく、計画的な選択を堪能できるはずのシステムなのに。リソースの種類とゲームの長さとのバランスが少し崩れており、活かしきれていない。そういう印象がある。
そういう意味で、すばらしいシステムを考案したが完成型ではないような気がする。だから、いまのところは傑作「かもしれない」だ。
とはいえ、なにしろ13種類のアクションの組みあわせはさまざまな作戦を考えられる。まだ全貌は見えていない。
シンプルでおもしろいから、これから何度も遊ぶ可能性はある。そうしたら、まだ見えていない本当の姿が見えてくるかもしれない。そんな期待もいだいている。
タイトルに「Empires」と入っていると、とりあえず重そう。そして、おもしろそうだ。
これはまさに、そんな期待どおりの内容になっている。
ワーカープレイスメントだ。そして、いわゆる「エリアマジョリティ」などの要素も含まれている。
ワーカープレイスメントとエリアマジョリティ。このコンボである。重くないわけがない。
ちなみに、エリアマジョリティというのを説明しておくと。
地図上にコマを配置していく。得点計算時に、各エリアについて、配置しているコマの多寡を比べる。その結果「1位は○点、2位は△点」というように得点が加算される。そんなシステムだ。
あえてどちらかといえば、ゲーマー向けといえるだろう。囲碁のように盤面全体を見て、どこにコマを置くのか、どこで手を抜くのかと考える必要がある。
エリアマジョリティを採用したゲームには、忘れられない名作がいくつもある。代表的なゲームは、エルグランデ、王と枢機卿など。だろうか。
ところで、同じようにワーカープレイスメントとエリアマジョリティを組み合わせたゲームとしては「Age of EmpiresⅢ」が思い出される。そういえばあれも「Empires」だったりする。
なにかこう、タイトルにEmpiresを入れたらこんな感じという、不文律のようなモノを感じる。そしてそれはなぜか、我々ユーザにも共有されている気もする。
重くて、エリアマジョリティで、最近のトレンドでいえばワーカープレイスメントを採用していそう。なのだ。
しかし、ただのワーカープレイスメントではない。
ワーカープレイスメントは完成されすぎていて、素直に採用すると過去のゲームと同じになってしまう。そして、それで間違いなくおもしろい。そういうシステムだ。もちろん、だからこそ素直に採用する手もあるだろうけれど、あえて少し改変したくなるデザイナーの気持ちはよくわかる。
このゲームの場合は「AターンとBターン」と呼ばれるターンが交互にやってくることになった。
Aターンでは「アクションディスプレイ」と呼ばれるワーカー配置ボックスに、プレイヤーコマを配置していく。
もちろん、ボックスによって行動が決まっており、配置したボックスのアクションを実行する。
アクションは、名前だけ挙げると「発展」「領土」「都市」「帝国」「貿易」。それっぽい。なにか、ある種類のゲームに特有のわくわく感がある。
このAターンは、まあわりと一般的なワーカープレイスメントといえるだろう。
問題はBターン。
Bターンでは、Aターンでアクションディスプレイに配置したワーカーコマを「とりのぞく」ことでアクションを実行する。
つまり、Bターンでは配置しないのだ。Aターンで実行したアクションと同じものを実行することになる。
実行順序はプレイヤーの自由だ。ただし「そのコマより左に配置されているコマの数だけ資源を支払う」必要がある。Aターンでは、右からつめてコマを配置していく。だからBターンでは、Aターンで他のプレイヤーよりも後に実行したアクションほど有利、ということになる。
これはもう、ワーカープレイスメントではない。むしろ、どちらかといえばオークションに近い。次第に安くなるオークションなので「ダッチ・オークション」というべきだろうか(「オークションの代わりのシステム」を参照)。
Aターンはワーカープレイスメント。Bターンはオークション的なゲーム。ワーカープレイスメントとオークションが交互にやってくる、ということになる。
なんとまあ、よくばりなゲームである。
もちろん「発展タイル」「領土タイル」などといったものもある。それぞれ特殊効果があったり、毎ターン得点になったりといろいろある。
もちろん「戦争」もする。
ゲーム開始時、地図には地中海沿岸しかない。しかし、時代Ⅱ(3ターン目と4ターン目)に「航海術」が発明され、極東と新大陸のマップが追加される。などといったギミックもあったりする。
おもしろそうな要素をこれでもかと詰めこんだ、ボリュームたっぷりの力作だ。
一晩かけてじっくりと楽しむ、近ごろでは珍しいタイプのゲームではある。でもやっぱり、こういうのも楽しい。